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第1話

 木曜の午後から、桜花活動企画公司(サクラ・イベントオフィス)営業部の加瀬(かせ)志津真(しづま)部長は日本へ出張していた。  彼の留守を預かったのは、部下であり、秘密の恋人でもある(ラン)威軍(ウェイジュン)である。1週間の仕事を終えた金曜の夜に、部屋の掃除を名目に郎威軍は、(あるじ)のいない上司の部屋を訪れた。  加瀬の住まいは、ハイセンスな淮海路(ワイハイ・ロード)の香港広場にある。服務式公寓(サービスアパートメント)と呼ばれる、ホテルと同様のサービスが受けられる住居で、毎日ハウスキーパーが部屋の掃除に入ることになっていた。そのため、住人が出張中でゴミも出ない部屋の掃除に、わざわざオフィスから部下が来る必要は、本来は無いのだ。  それでも、郎威軍は加瀬から預かったカードタイプのルームキーを使って、恋人の部屋にやって来た。  加瀬が上海に戻って来るのは、日曜の夜の予定だった。仕事は金曜の夜で終わるのだが、久しぶりの帰国のため、実家に一泊寄ってくるとのことだった。出張先は東京だが、加瀬の実家は関西のため、帰省には移動を含めて土日の2日間が必要になる。そのため、あと2晩は(あるじ)のいない部屋である。  金曜の夜に仕事を終えて、そのまま東京駅の近くで1泊する。遅めの朝食を摂ってチェックアウト。それから新幹線で新大阪に向かうらしい。そこから実家に帰って、今は1人暮らしとなった母や、近くに住む姉家族と久しぶりの水入らずの団欒を過ごす予定になっていた。  自分の知らない顔を見せるであろう志津真を思って、ちょっと複雑な気持ちの威軍だ。  実家で寛ぐ志津真の表情を想像しては微笑ましい気がするし、1人取り残されて寂しい気もする。  威軍は、午前中にハウスキーパーが入った清潔な部屋で、1人きりで溜息をついた。今夜は、ここに泊まるつもりだった。部屋の掃除を兼ねた留守番で…というのは、あくまでも建前、というか自分自身への言い訳だった。実際には、恋人の存在を感じていたくて、絶対に他人には見せないが、極度の寂しがり屋の郎威軍が自分のためにこの部屋に来たのだ。  この部屋には、玄関近くのシャワー室と、主寝室に付属したバスタブが付いた広めのバスルームとがある。  今夜は、主寝室で休むため、広めのバスルームを使うことにした。  明るく清潔なバスルームに入ると、補充されたばかりのホテル仕様のふっくらとしたタオルとバスローブを確かめ、用意されたアメニティの中からフランス・プロヴァンスのオーガニックコスメブランドの「沐浴露(ボディソープ)」を選んで、バスタブに入れる。それから熱めの湯を溜めると、ふわふわのバブルバスになった。  加瀬の自宅代わりの部屋だが、アメニティなどはそのままホテル仕様のものを使用していた。なので加瀬の髪は、このハーブのバーベナの香りがする。この香りを嗅ぐと、威軍も自然に恋人の存在と思い出してしまうのだ。  さっとシャワーを浴びた後、恋人のハーブの香りが広がる泡の湯舟に、この部屋の主が愛してやまない郎威軍の美しい体が沈んだ。  30歳を超えても、水滴も弾くほど張りがあり、それでいて肌理(きめ)が細かくシルクのように柔らかく滑らかな肌だ。恋人がいつまでも触れていたいと、あの悩まし気な声で囁くのも当然と言える。  アロマの香りと温かな泡に包まれ、威軍はすっかりリラックスして、体を伸ばした。仕事の疲れも忘れ、幸せだ、と威軍は思う。だが、ほんの少し物足りないのは、間違いなく恋人の不在だった。この香りを持つ恋人に包まれて、甘やかされたいと思う威軍だった。  それでも、優しい香りの泡に包まれた体をシャワーで洗い流すと、すっかり気分は良くなっていた。 「很舒服(気持ちいい)…」  普段、感情を顕わにしない威軍も、思わず口に出していた。  バスルームから出ると、タオルを首に掛け、厚みのあるバスローブを着て、リビングに向かう。ダイニングテーブルには、夕食として買ってきた寿司とカットフルーツが載っていた。  食事の前に、威軍は人恋しくて、テレビをつける。何の気なしにチャンネルを変えていると、たまたま日本の番組が目に留まった。内容は、ニュースが終わって、全国の天気予報だった。 「今天晩上…東京的天気、是下雨…(今夜は…東京の天気は、雨か…)」  恋人がいる場所の天気まで心配して、郎威軍は独り()ちた。  冷蔵庫から、普段は一人では飲まない冷えた白ワインのボトルを取り出し、寿司を摘まみつつ、内容の入って来ないテレビを観ながら、グラスの中を少しずつ減らしていく。  雨の東京の夜を、恋人は1人で何をしているだろう。  このワインの味は、恋人の好みで、自分はもう少し甘口がいい。このテイクアウトの寿司も、恋人の好物で…。  気が付くと威軍は、加瀬志津真のことしか考えられなくなっていた。 (重症だな…)  自嘲して、威軍はサーモンの握り寿司を口に入れた。  日本食を代表する「寿司」も、今や中国全土に定着し、そこそこの都市であれば、回転寿司の店も珍しくない。まして上海のような大都市ともなれば、コンビニの堅くてパサついた弁当風から、日本で食べるのとほとんど遜色のない日本料理店の高級な折詰まで、さまざまな寿司を味わうことが出来た。  今夜、郎威軍が夕食用に買ってきたのは、職場に近い高級スーパーのパック寿司で、各種の握りや巻物、ガリと呼ばれる甘酢生姜も入った本格的なものだ。日本人で、口が肥えている加瀬が納得したほどの味と値段で、時々加瀬自身が手土産に買って威軍のアパートに来るほど気に入っていた。    この前、この寿司を食べた時は1人では無かったことを思い出し、威軍は少し切なくなった。勢いでワイングラスを一気に空にして、2杯目を継ぎ足す。普段なら、ワインは3杯までと決めている威軍だが、今夜はそれ以上に飲んでしまいそうな気がした。 それは、偶然のことだった。

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