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ストローク
「‥‥彼はそう言って彼女の肩越しに本棚を指差した‥‥いや、彼は本棚に目をやると、彼女の肩越しにそれを指差した? ‥‥うーん」
パソコンに打ち込んだ文章を声に出し読み上げては消し、また打ち込んでは吟味するように繰り返し読み上げ、結局は消す。どうしたものかと腕を組みながら椅子の背もたれに身を預け、無意識のうちに貧乏揺すりをしていた膝を見つめた。
その時、カタン、と小さな物音が台所の方から聞こえた。何も浮かばなかった頭にポッと浮かび出る顔がある。修平だ。
書斎、と勝手に名付けたただの汚い物置のような部屋から出て台所に向かうと、入り口のところで丁度出て来たその小さな存在がドンと腹に当たった。
「修平」
「‥‥‥‥」
ぶつかり後ろによろめいた修平の細い肩を掴むと、パッと顔を上げた修平が俺を見つめる。手には台所の棚に入っていた菓子パンの袋が握られていた。
「‥‥またお前は勝手に」
「‥‥‥‥」
ため息が漏れそうになり、慌てて口を閉じた。修平の目は虚無を覗き込むような、憂欝な色をしていた。
「いや、いいんだ。それはお前に買ったんだし」
不安げに俺を見上げるその小さな頭を撫でながらそう言うと、居間の方に修平を連れて行った。
「座ってろ。菓子パンだけでいいのか? 何か飲み物とかは」
「‥‥の、の‥‥飲む」
「うん。カルピスあるからな」
「‥‥‥‥」
こくりと頷いた修平は、きちんと正座をしてテーブルに置かれた菓子パンを見つめていた。食べてていいよ、と言うとまた頷き、菓子パンを手に取り、袋のギザギザになっている部分を裂くように開けていた。
俺は再び台所に向かい冷蔵庫からカルピスを取り出し、コップに注ぎ入れた。あの菓子パン‥‥小さなあんパンひとつでいいのかな、と思い、棚を漁り見つけたピーナッツチョコの袋も持っていくことにした。
一度、近所の子か学校の子か、子どもたちにいじめられていた修平を助けてあげたことをきっかけに、いつの間にかこんな野良猫とそれに餌付けをする者のような、よくわからない関係になってしまっていた。
しかし実際修平は野良猫のようだった。最初のうちは玄関の前にうろついているだけだったが、気紛れで中に招き入れると今度は勝手に入り込むようになった。
元は祖父の家だったこの木造の平屋には狭いなりにも一応庭と呼べるものがあり、俺が在宅中はその庭に面した居間の窓を開け放っていることが多かった。執筆中の休憩として、その風通しも良く日当たりも良い居間の畳に寝転ぶのが、なんとも心地良くて俺は好きだった。
今日も修平はそこから入り込んできたのだろう。野良猫のように、家主にお構いなく。
「チョコ、食べるか」
「‥‥た‥‥た、た‥‥食べる」
「うん」
居間へ戻ると、すでに菓子パンを食べ終えた修平が机に突っ伏して庭を眺めていた。俺が声をかけると体を起こし、控えめに返事をする。ピーナッツチョコの袋とカルピスの入ったコップを置き、俺はまた居間を出ようとした。修平の目が慌ててそれを追う。
「パソコンをこっちに持ってくるだけだよ。それ食べてろ、すぐ戻るから」
「‥‥‥‥」
頷いた修平を確認してから俺は居間を出た。
修平は吃音だった。
それをからかう子どもは多い。うまく喋れず、からかわれいじめられるうちに、いつか喋ろうと思うことすらやめてしまうのではないかと、俺は不安だった。近頃の修平は喋るのではなく、簡単なことはジェスチャーで表現するようになっていた。
いいのだろうか、あのままで。
俺は医者でもないし、修平の両親でもないし、修平自身でもないので何が最善なのかはわからない。修平が今はああするしかないのなら、俺はそれを見守ってやるしかないのだろう。
吃音のことはよくわからなかった。ただ俺は、ああやって一生懸命言葉を紡ごうとする修平が好きだった。
ノートパソコンと資料を抱え居間に戻ると、修平はまた机に突っ伏していた。俺はその向かい側に腰を降ろし、パソコンを開き資料に目を通した。
そのまま30分くらい経った頃、ようやく修平が体を起こした。まどろむようにゆっくり瞬きを繰り返しあくびをすると、飲みかけのカルピスを一気に飲み干し、俺の隣へとやって来た。パソコンを覗き込み、キーボードに置かれたまま動かない俺の指を見て、次に顔を見る。それからまたパソコンの画面をじっと見つめていた。
「‥‥‥‥」
「修平、カルピスおかわりいるか?」
「‥‥‥‥」
首を振った修平は俺のシャツの裾を引っ張り、画面を指差した。
「あぁ‥‥まったく進まないよ」
「‥‥‥‥」
「締め切り近いんだけどなぁ」
「‥‥‥‥」
「ってこんな話しても面白くないか」
自嘲気味に笑って修平を見ると、修平は勢いよく首を横に振る。手はまだシャツを掴んでいる。俺は修平のやわらかな髪を撫でながら、こんなにいい子なのにな、と思った。
うまく喋れない修平と、喋れるくせにうまい言葉が出てこない俺。不思議な巡り合わせのように感じた。
「本は好きか?」
修平が大きく頷く。それから掴んでいたシャツを数回引っ張り、口をパクパクと動かした。
「ん?」
「‥‥し、し、しょ、‥‥」
何か言い掛け、再び口を閉じてしまった修平の頭を撫で、大丈夫、聞くよ、と声をかけた。修平は深呼吸をしてから、また言葉を紡ぐ。
「し、しょ、小説」
「うん。小説」
「‥‥よ、読みたい」
読みたい、といってパソコンを指差した修平。俺は目を丸くし、修平を見つめた。
「これを読みたいの?」
「‥‥‥‥」
「でもこれは‥‥修平には難しいだろなぁ」
「な、な、なんで」
「推理小説だし‥‥あまり明るい話でもないから」
大雑把に言ってしまえば殺したり殺されたりしている話だ。理解できないだろうし、理解できたとしてもきっと怖がらせてしまう。
修平は俺の言葉をぼんやりと聞いていた。それから小さく頷き、シャツの裾からそっと手を離した。掴まれていた部分の布地がクシャクシャになっている。
「修平?」
「‥‥‥‥」
俯いてしまった修平に声をかけるも、反応がない。俺は書きかけの文章が散らばったパソコン画面に目を向けた。
‥‥あぁ、本当に俺は、喋れるくせにろくな事を言わない。
修平の言葉を、頭の中で反芻させた。修平は俺の小説を、読みたい、と言ってくれた。一生懸命に言葉を紡いで、読みたい、と言ってくれたのだ。
俺は俯いてしまった修平の頭を撫で、ありがとう、と声をかけた。
「嬉しいよ。そうだな、いつか修平にも読んでもらいたいな。でももう少し大人になってからな? 俺も、身近な人に読んでもらうのは少し照れるから、時間がほしいんだ」
そう言うと、修平はおずおずと顔を上げ、吃りながら、大人って? と問い掛けてきた。
「そうだな‥‥せめてあと5年後くらい」
「‥‥‥‥」
「あ、お前今そんな待てねーよって思っただろ」
「お、おお思ってない」
慌ててかぶりを振る修平に笑いかけると、修平も今日初めての笑顔を見せた。
5年、なんて適当に言ってしまったが、来年ですらこうして共に過ごしているのかわからない、曖昧な関係だ。だけど、いつかどこかで繋がれるのなら‥‥と、俺は画面に向き合い、再びキーボートに手を置いた。
完
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