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プロローグ いつもの場所で燦々と
珍しくアオが怒った。
正直、何故怒られたのか佐伯には見当もつかなかった。とにかく、今まで抑圧され続けた感情が、全て押し寄せて流れ出ててくるような怒り方だった。
「出ていって!!!!」と叫んだきり口を固く閉ざし、目に涙を溜めていた彼を気にしないことなどできなかったが、佐伯は2人の住むマンションを取り敢えず出ていくことにした。
(ほとぼりが冷めるまでは、そっとしおくか。)
一時間もしたら帰ろうかと思いつつ、近所の公園のベンチから、向かいに伸びる道路を往き来する車のライトをぼんやりと眺めていた。夏の太陽が沈み始めた頃に夕立がひと降りしたので、ベンチはわずかに湿り冷えていた。
(あの子の怒った姿もいいものだな……)
ひとりごちながらも、その口端がわずかに上がっていることを佐伯自身は気づかない。
空気の蒸気で滲む車のライトが夏の匂いと交じり合い、まるで強烈なホタルの光のようだと佐伯は思った。それが、哀しいくらいに懐かしく心地よかった。
佐伯は、そうして湿ったベンチの木目を薄くなぞりながら、彼、アオと出会ったことの日を思い起こしていた。
彼と出会ったのは、湿った雨が去り緩やかな風が出てきた、一年前の梅雨の夜であった。
◇◇◇
佐伯は小説家である。
大学院生時代に書いた小説を公募に出したところ、かの有名な純文学の新人賞を受賞したのがきっかけであった。そこからはエスカレーターのように受賞歴や肩書が、佐伯を飾っていったのだった。
(……俺は、所詮アルファだからな。)
その輝かしい功績とは裏腹に、彼の心は虚しさで満ち溢れていた。一家全員がアルファの中で、彼もまた当然のようにアルファとして生まれた。幼少の頃から、勉学も運動もトップレベルであり、国内最難関の国立大学も首席で入学した。更に容姿においても特筆すべき点が多く存在する。切れ長でややグレーのかかった瞳はキツイ印象であるが、黒く長いまつ毛と目尻に少しかかる黒髪がそれを包むように置かれている。母に似て肌は色白であるが、小学生の頃から教育の一環でやらされたテニスや、中学生の部活から30歳半ばの今でも続けている剣道の成果からか、無駄のないしなやかな筋肉が彼を形作っていた。もちろん、身長も190センチ近くもある長身だ。
佐伯は、アルファの中のアルファであり、その頂点に君臨してもおかしくない人物であった。
しかし、佐伯自身は結局のところ、その全てが自分の第二の性がアルファであるが故の付属品でしかないと強く感じていた。どんなに著名な批評家が彼の作品を称賛しようと、佐伯にはそれが「ただアルファである」ためのような中身のないものとして届くだけであった。
「ネアンデルタール人として滅亡していくべきだったな……」
そんな鬱屈とした日々が、自死しない限り続いていくのだと決めつけていた彼のもとに、生まれて初めて見た光彩が「アオ」であった。
佐伯は、少しの感傷の水面から浮き出し、ベンチを立ち上がった。
(アオのもとに帰らねば。今からだから、コンビニでケーキでも買って帰ろう。)
――あの子は、泣いているだろうか。
どうか、いつものあの場所で、寝室で、美しいリネンのシーツに包まれながら、俺を待っていてくれないだろうか。燦々と。
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