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巡り合わせは青の色 2
「おい、出てきていいぞ。」
打って変わって龍野の高圧的な言葉が、柱の影にいるようであるオメガに向かって発せられる。
(やはり、こいつとは親睦など深められそうにないな)
佐伯は龍野に対して酷く嫌悪感を抱いた。
一方で、そうして出てきたオメガに佐伯は一瞬にして心を奪われた。
龍野に隠れるようにして現れたのは、肌が透き通るように白く、髪の色素も薄い、儚い青年だった。ただ、折れてしまいそうに痩せていて、青く美しい瞳も、その下の深い隈によって形を潜めてしまっていた。血色の良い時ならば、淡く色づくであろう唇もかさかさと乾燥していて、血も滲んでいた。
(このアルファの仕業か……?)
佐伯は思わず龍野を睨みつけた。
龍野はそんな佐伯の心を見透かしたように口を開いた。
「こいつをこんなにボロボロにしたのは、私じゃあないですよ。俺のところに来た時は、もう既にこんなのだった。でも美しいでしょう。先月発表した新作に出てきた青年は、こいつがモデルなんですよ。」
佐伯は幾ばくかの衝撃を受けた。
龍野が書く小説は、一見純愛ものかと思いきや、濡れ場に激しい加虐描写があることのギャップで人気を博している。新作でもその要素はきちんと残っており、更に好色な資産家が妻の目を盗み、地下に美しい青年を閉じ込めその身体を貪るという、かなり際どいものであった、と佐伯は記憶している。
「それで、その青年を龍野先生は周囲のアルファのように侍らすわけでもなく、ここへ、私の元へと連れて来たのは何故でしょうか?」
龍野が新作を書くにあたって、このオメガの青年にどのような仕打ちをしてきたのか、考えればキリが無くなる脳内であったが、努めて冷静に、佐伯は今回の用件を再び龍野へと訊ねた。
「このオメガを受け取っていただきたいのです。」
「……は?」
龍野の予想外の言葉に、佐伯は思わず気の抜けた声を出してしまった。
「佐伯先生は、噂によるとかなり高潔な方でいらっしゃると。それに現在もパートナーはいらっしゃらないと聞きました。このオメガは、色々と事情がありまして、様々な芸術家や作家の家を転々としていたのですが、ご覧の通り、この有り様。オメガに対しても偏見を持たずに接することができる佐伯先生であれば、このオメガの心も少しは癒されるかと思いまして。もちろん、期限付きで構いませんし、お断りいただいても結構です。なにせ、急なお話しですから。」
龍野が嫌な笑みを浮かべながら、説明をした。
「この青年の事情も随分とはぐらかされて、正直お受けできない案件だと判断しております。芸術家や作家の家を転々としているとおっしゃっていましたが、そこに彼の意思は存在しているのでしょうか?彼のこの有り様を拝見いたす限り、そうとは思えません。残念ですが、私はこういったアルファの傲慢さを嫌悪している。それに……」
佐伯はやや感情的になりながら、それまで甘い匂いを漂わせながらも、空気のようになっているオメガの青年の方を見つめた。
「彼は、発情不良なのではありませんか?抑制剤を飲んでいても、まるでフェロモンが抑えきれていない。
それとも、今現在、発情期なのですか?この場には、番のアルファとオメガが多くいるので、まだ目立ちませんが、この状態の彼と外へ出たら危険極まりない。獣となったアルファに襲われますよ。龍野先生、あなただって今、相当お辛いのでは?」
佐伯の言葉に龍野はやや驚いた様子を見せたが、ニヤリと口の端を持ち上げて言った。
「いいえ、私には別に番がおりますから、彼のフェロモンにはあてられませんよ。ですが、さすが佐伯先生でいらっしゃる。ご名答ですよ。このオメガは発情不良と言っても過言ではない。」
「それでしたら、尚更。病院で適切な治療を受けた方がよいですよ。彼の精神の消耗も考えれば、シェルターで一時的にでも匿ってもらった方がよいかもしれないですしね。それに私は、フリーのアルファです。いくら高潔と噂されようが、彼と寝食を共にしていたら、いつか彼を傷つけてしまうでしょう。」
佐伯は、この話をきっぱりと断ろうと決心した。
しかし、龍野が次に放った言葉によって、その決意は大きく揺らいだ。
「分かりました。佐伯先生は、やはり高潔なお方であられる。正直、病院やシェルターでの治療やカウンセリングで、このオメガの身に何が起きたのかを知られてしまうと、歴史ある文壇の汚点となってしまう。かなりの文豪もこいつを使っていましたし、スキャンダルになる。佐伯先生が、そういったお考えであると分かった以上、私もこのオメガを引き渡すことはいたしません。」
「……彼は、どうなるのですか?」
「さあ、とにかくこれ以上は私も面倒を見きれないので、近々欲しいと言ってくださる方を探します。
佐伯先生、お時間を割かせてしまい、申し訳ありませんでした。くれぐれも、このことはご内密に。それでは、また。」
そう言って、さっさと立ち去ろうとする龍野に対して、佐伯は無性に腹が立った。
――何故、誰も彼を人として見ようとしない……!!
「ふざけるな!!!!!」
気づけば、怒鳴っていた。
龍野が振り返る。側にいたオメガの青年も驚いた様子であった。
「いいか、彼は、俺が、引き取る。お望みどおり、衰弱した彼に癒しとやらを与えよう。文壇の汚点も隠してやる。しかし、二度と彼には手出しをしないでもらおうか。」
佐伯から滲み出るアルファの威圧に、同じアルファであるはずの龍野が思わずといった風に後退る。
それは、佐伯の方が格段に位の高いアルファであるからだ。
「……わ、わかりました。では、交渉成立ということで……」
龍野は身体を震わせながら、脱兎のごとく走り去って行った。
「……下衆が」
その後ろ姿を見て、佐伯は吐き捨てるように呟いた。
しかし、同じように身体を小刻みに震わせているオメガの青年に気づき、佐伯は正気を取り戻した。へなへなとバルコニーの冷たい床に座り込んでしまった彼の元へ、そっと駆け寄る。
「すまない、ついあの男を威圧してしまったが、君にもあててしまうとは……」
青年から漂う金木犀の甘い香りに、くらりと酩酊した気分になりながらも、佐伯は青年の隣にひざまづいた。
「きみ、名前は?」
「アオって言います。……あなたは?」
佐伯の想像とは違い、それはハスキーな声音となって返ってきた。
「すまない、名乗っていなかったな。俺は佐伯雅史と言う。一応、小説家だ。」
「一応って……有名な方じゃありませんか。」
アオが薄っすらと佐伯に向かって微笑みかけた。
その弱々しい笑顔に、佐伯の心は何故だかチクリとした痛みを覚える。
「俺を、知っているのか?」
「ええ、ご本人には今初めてお会いしましたけれど。本は全て拝読いたしました。『星降って延々と濃藍』は僕の大切な一冊です。」
『星降って延々と濃藍』は、佐伯がデビュー作の次に発表した唯一の短編小説である。短編が故に知名度も低く、売り上げも少々落ちた作品であった。しかし、佐伯にとってはかなり思い出深い一冊であったので、正直、アオの言葉が嬉しかった。
「そうか、あの本を読んでくれたのか。ありがとう。」
佐伯がそう言って、さりげなく、まだ辛そうなアオの背中をさすろうとした時であった。
ピクリとアオの身体が小さく痙攣した。
「…ぅあ、ごめ、なさい、触らないで…う、ぅう」
突然、アオが酷く苦しみだした。大きな目には涙が張って今にも溢れそうだ。
「はぁ……ぅ、う、きもちわるい…」
吐いちゃいそうと震える声で呟いて、必死に嗚咽を飲み込んでいる。
その姿に佐伯は少々狼狽えたが、すぐにジャケットを脱いでアオの口元へとやった。
「ここへ吐いてしまっていい。」
「う…え、で、でも、これって……」
アオが涙目で佐伯を見つめ、差し出されたジャケットを固辞しようとする。
「気にするな、こんなものはいくらでも手に入る。今は、君の気分を落ち着かせることを優先しよう。」
「ご、ごめんなさい。…うぅっ、うえ、ごほっごほ……げほっ」
全て吐いてから、アオはハアハアと浅い呼吸を繰り返していた。しかし、これまでのストレスからか、どんどんと意識は遠のいていき、アオは遂にそれを手放してしまった。
雨上がりの空気の香りがほのかに鼻腔をかすめ、湿った風が柔らかく身体を包み込んでくれたような気がした。
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