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番外編 尽くし尽くされ
あどけない顔で眠るアオの姿に、佐伯は一種の喜びと達成感を感じていた。それは、この一年間でアオが穏やかな睡眠を確保できるようになった、という証だからだ。もちろん、発情期 明けの疲労も影響しているだろう。それでも、佐伯は嬉しかったのだ。
寝室を厚く包み込んでいた金木犀の香りも、もう薄っすらとその名残りを嗅ぎ取れる程度である。また、一週間、アオが作った巣の中で愛を紡げた事にも、佐伯の胸はいっぱいになる。
ベッドの上はお互いのものが混ざり合いぐちゃぐちゃになっていた。更に、汗ばんだアオの姿を見ると、シーツくらいは洗濯してしまった方が良いかと手を伸ばす。
しかし、自身のシャツを口元にあて、すよすよ眠るアオが起きる前に、寝室を一掃してしまうことに罪悪感も覚える。本格的な発情期が終わったといえ、発情期明けなのである。特にアオは、発情期前後のメンタルバランスが崩れやすい。佐伯は、アオが自身の匂いで幸せそうにしているのならば、無理に取り上げる必要はない、と判断しそのままにしておくことにした。
そして、まだ情事の痕を色濃く残した番に、朝食を作ろうと寝室を出たのだった。
◇◇◇
(ああ、そう言えばケーキを買っていたんだ。)
食卓にぽつんと置かれた白いビニール袋には、七日前に佐伯がアオへと買ってきたショートケーキが入っていた。もう食べられなくなったケーキを見て、アオが心を痛める姿は容易に想像できた。なので佐伯は、慎重にそれを処分した。今回ばかりは仕方がない。それでも、甘いものを前にすると表情を綻ばせるアオを思えば、すぐにでも買い与えたくなってしまう佐伯である。アオの体調が良くなる頃に、再び買いに行こうと決心したのだった。
さて、と冷蔵庫の中をざっと見れば、ヒート後特有の中身が何も無い状態が広がっている。佐伯は、卵と冷凍していたご飯を取り出し簡単な雑炊を作ることにした。
思えば、苦手な料理を少しでもするようになったのはアオとの生活が始まってからだった。抜群に料理が上手いアオに比べれば、佐伯のは随分とその内容は劣るが、それでも慣れてきたものだと思う。とりわけ、ヒート前後はぽやんとしているアオに、自身の作った料理を手ずから食べさせることは、アルファである佐伯の欲求を満たす行為でもあった。
ぱくり。もぐもぐ。こっくん。
そして、「おいしい…」と呟く。
(良いのもだな。)
溶き卵を満遍なく混ぜながら、佐伯は薄っすらと微笑んだ。この暮らしに存在する愛を想いながら。
ふわりと優しい出汁の香りが漂う卵雑炊を持って、寝室へと向かう。静かに扉を開けると、アオが大きな枕を背もたれにして、佐伯の予想通り、ぽわんとしていた。佐伯はサイドテーブルの上に雑炊を置き、ベッドの端に腰をかける。
「あの、よごしたままにして、ごめんなさい。」
舌足らずな声で、アオは謝罪の言葉を零した。
「シーツのことかな?」
「うん。あと、雅史さんの服とか……」
瞳を潤ませてこちらを見上げるアオに、佐伯の胸はきゅっと痛む。そっとアオの頭を優しく撫でて、そのままゆっくりと抱き込んだ。
「そのままにしたのは、俺なんだ。きみが嬉しそうに俺の匂いが混ざったシーツや服を抱えてくれるから。それに、そんな風に大切にしてくれるきみから、それらを取り上げるなんてこと、できなかった。」
「ほんとに…?」
「ああ、だからこれは、俺の望みでもあるんだ。」
のんびりと伝えれば、アオからも控えめに抱き返された。それが嬉しくて、佐伯の頬は自然と緩んでしまう。しばらくそうしていたら、アオの腹から可愛らしい音が鳴った。
「フッ、お腹が空いただろう?」
「うん。あの、いい匂いするね。」
「きみほど上手くは作れないが、朝食にしよう。」
「ありがと、ございます。」
スプーンで掬った雑炊を少し冷ましてから、アオの口元に運ぶ。すると、小さく口を開いてぱくりと食べる。それを何回か繰り返していたら、あっという間に食べ終えてしまった。
「おいしかったです。もっと食べたいかも…」
「そうか!それならば、昼にもう少し食べようか。ヒート中はあまりしっかりと食べてなかっただろう。だから、すぐにたくさん食べると胃がびっくりしてしまうからな。」
「わかった……」
少しだけ不満そうな顔をするアオが、佐伯にはあまりにも可愛らしく感じ、唇に軽くキスを落とした。
◇◇◇
「アオ、風呂にでも入るか?」
まだ僅かに汗ばんでいるアオの素肌は、窓から差し込む光を受けてきらきら輝いていた。その様は風に揺れる青々しい麦のようで、ずっと眺めていたかった。しかし、一週間まともに風呂に入れなかったアオにとっては不快感があるかもしれないと思い、佐伯は声をかける。
「一緒がいい。」
ちょんと袖を引っ張られ告げられた要求に、佐伯はすぐさま首を縦に振った。
「ふっ、あ、きもちぃ…」
小さく、それでいて何となく艶めいたアオの声がバスルームに響く。今、アオは浴槽の縁に頭を置き佐伯に髪を洗ってもらっている。佐伯が優しく頭部を刺激するたびに、アオの口から吐息が漏れ出る。
そうしてぽやぽやなアオは、普段の敬語を忘れて甘えてくるので、佐伯にとっては和やかな心地になる反面ダイレクトに下半身へと響くものがあり苦行のひと時ともなる。
「気持ち悪い所はないかな?」
「うん。」
「ん、それじゃあ流すぞ。」
「うん。」
流し残しがないように丁寧に濯ぐと、トリートメントで髪を梳いていく。色素の薄い柔らかなアオの髪に、ラベンダーの香りを纏わせるこの工程が、佐伯の密やかな楽しみでもあった。
「はぁ、いいにおい…」
「そうだな。」
「この匂い、すき、です。」
「俺も好きだな。しばらく時間を置くから、その間に身体を洗おうか。」
「ん、身体は自分で洗うから、雅史さんも洗って。」
もっと恥ずかしいことをしている筈なのに、アオは顔を赤らめて言った。二人で浴室の椅子に座って素早く身体を洗う。それでも、我慢できなくて背中は洗いっこをした。
「ふふっ、泡泡ですね。」
「そうだな。流すよ。」
そうして全てを洗い流して、アオを後ろから抱き抱えるようにして佐伯は浴槽に入る。それからは、特に何かを話すわけでもなく、お互いがお互いの手を絡めて遊んだりしているうちに、穏やかな時が流れていった。
「雅史さん、のぼせそう?」
「ああ、もうすぐ限界が来そうだよ。」
フッと笑って佐伯が応えると、「僕はもう少し浸かっていたいから、雅史さんはリビングで待っていてください。」とアオが言った。
「うん、そうさせてもらうよ。ゆっくりしておいで。」
佐伯はアオの額にキスを落として、バスルームを出た。
◇◇◇
「さてと…」
意外にも長風呂なアオがバスルームにいる間に、佐伯にはまだまだやるべき事が残っている。まずは寝室の片付けである。まだ覚束無いアオであるが、先程の容態を見れば、シーツや散乱した衣服を片付けても大丈夫な様子であったと判断している。それに、風呂から上がったら、昼頃まできっと寝てしまうだろうと佐伯は予測していた。
(その時は、真っさらなリネンの方が良いだろうな。)
まずは、寝室の窓を開けて空気を入れ替える。そして、ヒート中に活躍してくれたシーツや枕カバー、衣服などを全て洗濯機に入れて、アオが寝ている間に回るようにセットする。更に、スーツなどの洗濯機で回せない衣類は、コンシェルジュに預けてクリーニングへと出してもらった。それでも巣作りのために、自身の書斎からアオが持ってきてくれた小物類は、元あった場所にすぐに返してしまうのは忍びなく感じ、チェストの上に整頓させる。
その時に、ボディが薄藍色の万年筆を見つけた。それから、ヒート中でもアオはこの万年筆だけは落とさないように、大切に扱っていたことを佐伯は思い出した。
――いつか、これで愛の誓いを立てたいものだな。
そんな明るい未来を思い描きながら、佐伯はベッドメイクを完璧に終わらせたのだった。
アオへの準備を整えて、佐伯がキッチンで洗い物をしていると、控え目な足音とともにリビングのドアが開いた。
「さっぱりしたかな?」
「うん。」
キッチンから出て、アオをソファに座らせる。
「髪、乾かそうか。」
「うん。」
佐伯の脚の間にちょこんと座ったアオは、ドライヤーで髪を乾かしている内に、うつらうつらし始めた。乾かし終えた時には、耐えきれなかったのか、佐伯の肩にトンともたれ掛かっていた。
「アオ、寝室へ行こうか。」
問えば、僅かに目を開き肯いた。佐伯はアオを抱き上げて寝室のベットへと運ぶ。
「ん、いい匂い…」
「そうか、それならば良かった。」
「雅史さんのおじや、たべたいのに、おきられないかも…」
「大丈夫。昼になったら起こすよ。」
「ぼく、こんなに、あまえちゃって、いいのかなぁ、こんなに、しあわせ、で……」
その後は言葉にならず、アオは眠りに落ちていった。
「いいんだよ。うんと甘えていいんだ。」
――だってきみ、ずっと我慢してきただろう?これからは、死ぬまで幸せでいいんだ。
佐伯は、指通りのいいアオの髪を撫で、そっと唇を重ねた。
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