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アオの未来 2
後孔が裂ける痛み。受けつけない子宮に無理矢理捩じ込まれる痛み。拘束具で擦れた四肢の痛み。自身の存在を真っ向から否定する言葉に、引きちぎれた心の痛み。そして、愛した我が子がいなくなった痛み。
「ヒッ…!ごほっ、ごほっ、あ、アァッ…!」
酷い目眩の中、アオはシーツを手繰り寄せて小さく丸くなる。上手く呼吸ができなくて思わず呻く。ここ数日、アオは寝込むことが多い。どんなに嬉しい出来事があっても、それを裏切る自分の心身への歯痒さに涙が滲む。
「くす、り……」
嘉月から処方されている安定剤を飲もうと、チェストの中にあるピルケースに手をかけた時だった。
やることしか脳のないオメガが
へぇ、随分といい大学に在籍していたようだけど、この有り様じゃあねえ
高槻紫音との子を堕したんだってね
アオの弱い部分を抉る言葉が槍となって降ってくる。紫音と離別してからの四年間は、誰にも晒されたくなかった過去を、ただ嬲る要素として引き出し続けられた。
「ふっ、う…」
アオは震える指先でどうにかピルケースを開けた。
(なんのやくにもたたないのなら、このまま、しんでしまったほうが…)
無意識に、その指先は膨らみすら持たない下腹部をさすっていた。
そのままケースをひっくり返す。バラバラと音を立てて、薬がチェストの上に転がり落ちた。アオは、そこへ落ちた全てを掻き集めて、口の中に放り込もうとした。
「アオ!!!!」
寝室へ雅史が飛び込み、アオの腕を引っ張る。その拍子に、アオの手の中から薬が弾け飛んだ。柔らかなカーペットが敷かれた上に、音もなく沢山の安定剤が落ちた。
「間に合って良かった。」
「うっ、ぐすっ、うぅっ…」
雅史は安堵すると共に、自身の腕の中で震える番の将来に一抹の不安を覚えていた。
◇◇◇
「うーん」
携帯の画面に羅列する求人情報を見ながら、アオは頭を抱えた。
(やっぱり、オメガだと働き口は限られてくるな。)
大学を卒業しているオメガですら、その先の就職は困難である。そのため、アルバイトやパートを募集している多くの企業も『バース性がオメガ以外であること』を掲げていることが一般的なのだ。そして、『オメガでも高収入!』を謳う求人は、必然的に性産業が多くなる。
「よし!近所のお店でアルバイト募集の張り出しがないか探すしかない!」
しかし、一ヶ月後に誕生日を控えるパートナーに、心ばかりの贈り物を用意したかった。アオはそんな現実にめげることなく、誕生日プレゼントの資金作りに奔走するのであった。
◇◇◇
「なかなか筋が良いじゃないか!きみ、明日から出勤できる?」
「え?!いいんですか?!」
「もちろん!慣れている子を探していたから、採用!」
「あの、僕はオメガなのですが、それでも大丈夫でしょうか?」
アルバイト探しの意気込みは確かに大きかったが、『バース性がオメガ以外であること』という求人内容が、アオの心に痼りを生んでいた。
「きみはピザ作りの精神を充分に理解しているようだから、それで採用するわけさ。そこに、バース性は関係ない!」
雅史と同じくらいの年齢に見える店長は、アオの不安を一気に拭い去り、「いや〜!短期と言えど良い助手ができた!」と朗らかに笑った。
近所でアルバイトを募集している店は、オメガであることを理由に悉く断られてしまい、当てもなく駅前の大通りを少し外れた住宅街を歩いている時だった。
『アルバイト急募! 愛しの妻と喧嘩をしてしまい、一ヶ月実家に帰るとの置き手紙がテーブルの上にありました。妻が作るピザ生地は全てが完璧だった。私は私の愚かさ故に最高のパートナーを一ヶ月も失う羽目になってしまった。しかし、この店を休業したら永遠に妻は帰ってこないかもしれない。誰か私を助けて欲しい。』
かなり情熱的な貼り紙が、店の扉に貼られていた。そこは、白を基調としたモダンな外装に、木製で両開きの大きな扉が嵌め込まれているイタリアンレストランだった。これはチャンスだとばかりに扉を叩くと、大柄でおっとりとした雰囲気の男性が出てきた。もしかしたら本場イタリアの店主がいるのかも、と思っていたアオは、程よく焼けた健康的な肌に、黒髪をバーバースタイルにまとめた日本人男性をじっくりと見つめてしまった。
不躾な視線をぶつけてしまったと慌てたアオとは対照的に、男性は気にする様子もなくアオへと声をかける。
「あ、もしかしてアルバイト希望の子かな?」
「はい!」
「俺はここの店主の有賀尊(アルガ タケル)だ。きみは?」
「アオと言います!学生時代にイタリアンレストランでアルバイトをしていたので、何かお力になれるかと伺った次第です!」
有賀はうんうんと肯いて「そしたら生地を作ってみてくれないかな?きみが学生時代に習った方法で良いからね。」とアオを店内へと早々に招いた。
カジュアルな店内には、大きな石窯もあり、客の前で生地を焼く姿を見せられる構造になっていた。その先にあるキッチンでアオは早速生地作りに取り組む。
一グラムも違えることなく小麦粉、海塩、酵母を混ぜてゆく。それから充分に発酵した生地を中心から徐々に手で伸ばす。幾度となく繰り返したその動作は、もう既にアオの身体の一部となっていた。
「きみ、もしかしてナポリピッツァを提供するレストランで働いていたのかい?」
有賀はアオの手際を見て感心しながら言った。
「はい。ローマピッツァやミラノピッツァの作り方も教えてもらったのですが、今でもナポリピッツァのレシピで生地を作ることが多いです。流石に石窯ありませんが。」
「そうなのか!」
「それに、さっきキッチンへと行く途中、沢山の薪が置いてあるのを見たんです。だから、こちらでもナポリピッツァを作るのかと思いまして。」
ナポリピッツァはかなりメジャーなピザであるが、その生地作りには厳格な規定が定められている。生地作りの材料や、生地自体の大きさや厚みの他に、生地を伸ばす時は手であること、焼く時には薪を使い窯の中で直焼きすることなど、とにかく多くの規定をクリアすることで『真のナポリピッツァ』が完成するのだ。アオは学生時代に、その手法を完璧に叩き込まれていた。
だからこそ、店に入って薪があることにも気がつけたのだ。
アオの言葉を聞いて、有賀は驚いて目を丸くさせていたが、すぐににっこりと微笑んだ。それが、採用の合図であった。
◇◇◇
「雅史さん!僕、明日から一ヶ月、近所のイタリアンレストランでアルバイトをします!」
意気揚々に宣言すれば、雅史は「そうか、きみなら絶対に採用されると思っていたよ。」なんて言って微笑んでくれるものだとアオは思っていた。それなのに、夕食後にアルバイト先が決まったと告げると、彼は顔を曇らせ心配そうにアオを見遣った。そして、「アオ、体調は大丈夫なのか?」と訊ねるだけだった。
「えっ……大丈夫、ですよ?」
――なんで?なんでそんなこと聞くの?
「そうか、でも、無理はしないでくれ。」
何故だか、今は雅史の心遣いに酷く困惑してしまう。
『バース性がオメガ以外であること』
アオはふと思った。
――僕は、そんなに弱く見えるの?
「……僕がオメガだから?」
アオは低く呟く。
「違う。アオがオメガだからなんて、そんなこと思っていない。ただ、きみが、その…」
そう言って押し黙ってしまった雅史は、何かを迷っているかのように、そのグレーの瞳の中を揺らがせていた。
――ああ、僕は、また……
その瞳の言わんとすることを、アオはしっかりと察知できた。
「雅史さん、暫く寝室を分けましょうか。僕は自室で寝ます。」
「それは…!ダメだ!寝室は一緒だと約束しただろう?」
雅史は食卓から身を乗り出して反論した。その気概に、アオの身体は小刻みに震えてしまう。それでも、ぎゅっと拳を握りしめ耐え抜く。
「嫌です!僕は、僕は、強いんです!!!」
そして、力一杯の言葉を雅史にぶつけて、リビングを飛び出した。後ろの方で「アオ!」と呼び止める雅史の声が聞こえたが、それすら無視してアオは自室へ閉じ籠った。
「あんなに頑張ったのに!!!!」
アオはただひたすら叫んだ。今日のアルバイトだって、それ以前の、施設にいた頃から、アオは仕事をしながら大学進学資金を稼ぎ、残りの時間は全て受験勉強に費やした。血を吐く思いでもぎ取った、国内最難関の国立大学への切符。しかし、それすらアオの意思とは無関係に断ち切られた。
――それは、僕が弱いから?
「違う!!!僕は!!!頑張った!!!!」
最近は使うことがめっきり少なくなった自室のベッドの上で、お守りのように「がんばった....がんばった....」と何度も繰り返し、その内に泣き疲れ、アオは眠りの渦へと吸い込まれていった。
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