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光サイド-10-

 エレベーターの中で必死にしがみ付く先輩の頭を撫でていると、急にエレベーターが動き出した。  きっと何処かの階の住人が呼んだのだろう。  先輩は我に帰ったようにしがみ付いていた手の力を緩め俺から離れた。  エレベーターはどの階でも止まらず真っ直ぐ1階まで降りた。  エレベーターを呼んだ住人は人が乗っているとは思っていなかったのだろう。  ドアが開き俺たちの姿を見てギョッとしていた。  このまま一緒に乗って上がるのはおかしいだろうと、一旦降りる事にした。  エレベーターが再び1階に戻ってくるのをロビーで待っていると、後ろから服の端を引っ張られる感じがしたので振り向くと先輩が握っていた。  まるで迷子にならないように子供が親の服を掴むように……。  いじらしくて切なくなった。 「手を繋ぎましょう」  優しくシャツを掴んでいる手を剥がし握りしめた。  先輩は戸惑ったように俺を見つめて、気まずいのか瞳を逸らした。  暫くしてエレベーターが戻って来たので、手を繋いだまま乗り込み先輩の部屋へ向かった。  部屋に入り一息ついてから加奈子の事を説明しようとしたが「あんな女の話は聞きたくない」と先輩は聞こうとしなかった。  加奈子が俺の前に現れない限りは問題ないだろうと、あえて話さなかった。  先輩が聞きたいと思った時にでも話せばいいだろう。  夜も遅かったので2人でベッドに入ったが、先輩は中々寝付けない様子だった。  かすかに先輩の身体から煙草の匂いがした。  煙草は止めたと思っていた。  少なくとも俺の知る限りでは先輩は煙草を吸っていないはずだ。 「先輩煙草吸いました?」 「イライラしてつい……だってお前が女と……」  先輩はしどろもどろになりながら答えた。 「俺は先輩を置いて行ったりしません。だからもう煙草なんか吸わないで下さいね」 「ああ、分かったよ……」  そんな会話をしているうちに何時の間にか俺の方が先に眠りに落ちていたようだった。  志野原先輩の様子がおかしい。  加奈子と会った日くらいから先輩の寝付きが悪くなった。  今まではベッドに入って直ぐに眠りに落ちていたのに、ここ数日先輩はベッドに入っても中々眠れないようだった。  それだけじゃない。  俺にしがみ付くようにして寝ていたのに最近はベッドの端に行き、俺と距離を置くようにして寝ている……。  一体何なんだろう?  俺は何かしただろうか?  それに、俺をジッと見つめている。  見られているなと、先輩の方を向くとあからさまに目を逸らされるし……。  訳が分からない。 「お前とはもう、寝たくない」  何時も通りに寝る支度を整えていると先輩から急に言われた。  俺は敷きかけのシーツをそのままに先輩の方へ向き直った。 「どうしたんですか急に……?」  訊いても答えは返って来なかった。  それどころか、先輩は壁に背中を預けた状態で顔を背けて俺を見てはいなかった。  ベッドを離れ、先輩の立っている壁に近付き先輩の真正面に立った。 「俺と寝るの気持悪くなりましたか?」  優しく訊いてみるが直ぐには返事は返って来なかった。  暫くして伏せていた目を瞑り震えた声で先輩は「そうじゃなくて」と言った。  一歩二歩と近付くと先輩から煙草の匂いがした。  もう吸わないと約束したのに……。  何故?  両手で先輩の顔を挟み、無理矢理自分の方へ顔を向けさせる。 「煙草吸いましたね?」  尋問するような口調で訊ねてみた。  先輩の俺を見る目が怯えていた。  呼吸がわずかに荒い……。  !?  そんなに厳しい口調だっただろうか?  慌てて口調を柔らかくして訊き直してみるが先輩の瞳は怯えたままだった。 「俺は怒っているわけじゃないんですよ。ただ何で吸ったのか知りたかっただけで・・・」  ガクガクと震え大粒の涙を流し始めた。 「先輩どうしたんですか!?」  先輩は何も言わずにただ泣き続けた。  時折何かを言おうと口を開いたが、言葉を飲み込むように硬く口を閉ざしてしまった。  訳が分からなかったが、ボロボロと泣く先輩をなだめながらベッドに連れて行き、泣き止むまでずっと身体を擦り続けた。  泣く程俺が恐かったのだろうか?  それとも、泣く程俺と一緒に寝たくなかったのだろうか?  嫌だと言うのを無理に一緒に寝る訳にもいかず、俺はその日初めてベッド以外の場所で眠った。  丁度加奈子と会ってから一週間後の事だった。  翌日、配達の仕事のない俺たちにクラブの手伝いを叔父さんは頼んで来た。  正直先輩の事が心配だったので夜遅くなるクラブのバイトはしたくなかったが、急に従業員が怪我をしてしまいヘルプに入れる人間が居ないので、今日だけでもと頼まれてしまい断る事が出来ずに俺と兄はヘルプに入る事となった。  自宅から叔父の経営するクラブまでの道中、ガタガタと揺れる配達用の軽トラの中で竜也兄さんに志野原先輩の事を相談した。  ここ数日の様子のおかしさ。  俺が気付けない事を兄さんなら何か分かるかもしれないと思って。  兄さんは運転しながら相槌などを打ちながら聞いてくれた。  全て話し終えると同時に兄さんは咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。 「前半のはなんとなくだが理由が分かったんだがな……後半のは分かんねぇなぁ」  前半の事だけでも分かったのか……流石は竜也兄さんだと関心した。  ……ところで兄さんの中で何処から何処までが前半なんだろうか?  些細な疑問を抱きつつ分かった事だけでも教えてもらおうと訊いてみたが「言えねぇなぁ……」っと教えてくれなかった。 「なんで!?」 「俺が言ったらお終いだからよ。それにハッキリと確信があるわけじゃないし、下手な事言ってゴタゴタさせるのも悪いからな……」  そう言って兄は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、上下に振り上手い具合に煙草を取り出すと直接口で咥え火を付けた。  煙草の箱を元の場所に戻し、咥えていた煙草を指と指の間に挟んで口から離した。  煙草を離した口から白い煙を一気に吐き出すと兄はちょっと考えて。 「俺の思っている通りならそのうち相手が行動に出るだろうから安心しろ……ん?安心しちゃ不味いか……志野原って喧嘩強いんだっけ?」  何でそんな事を訊くのか分からなかったが、取り合えず二年前に叔父のクラブで喧嘩の仲裁をした時の事を話した。 「ああ! アレね! お前負けちゃうね……どうしようか?」  どうしようも何も話が全然見えないんだけど……? 「口の開いている飲み物は飲むんじゃないぞ! それから携帯は何時でもかけられる状態にしとけよ!」 ???  言っている事がよく分からなかった。  謎の言葉の意味を聞き出す前に、トラックは叔父の経営するクラブに着いてしまった。 「さて、オッサンに貸しを作る為頑張りましょうか・・・」  トラックから降り伸びをすると裏口の方へ向かった。  俺も裏口へと続いた。  暗い廊下を歩いて従業員用の更衣室で着替えを済ませ、フロアに出た。  人の匂いと酒と煙草……色々な物の匂いが充満したフロアは、一歩踏み入れただけで音の洪水に飲み込まれ、耳がおかしくなりそうだった。 人の波を掻き分け、カウンターまで辿り着くと叔父さんが奥から出て来た。 「よく来てくれたね光v制服も良く似合うねぇ。まるでお前の為にあつらえたみたいにぴったりだ! さぁ光、十三番テーブルに行って、お客様がこぼされた飲み物を拭いてきてくれたまえ」  相変わらず話の流れが分かり辛いなぁ……と思いつつ、差し出された布巾数枚を持って十三番テーブルへと向かった。 「失礼します」と断り、十三番と書かれているテーブルの下の水溜りを拭き始めた。  拭いていると話声が聞こえた。  十三番テーブルの席に女性客が三人座ったままでいた。  店員の俺を気にする事無く三人は話し続けた。  音量の凄い場所だから話す方もかなり大声で話ている。  2人なら顔を寄せ合ってヒソヒソ話が出来るが、三人ともなれば大声で話さなくては全員に話が届かない。 「……とマジで!? 本当にヤッたの!?」  !?  今何て言った?  本当はお客様の話は聞き耳立ててはいけないのだが、聞き覚えのある名前を聞いた気がしたので彼女達の話を注意して聞いてしまった。 「私の元彼……シノの……振りして……凄い良かっ……」  確かに今、シノって言った?  シノって志野原先輩の事のはず……。 「でも、信じられない……本当にシノとHしたの? ……どうや……」 「信じない……シノと寝てみれば……私の付けた印が……」  俺はわが耳を疑った。  志野原先輩と寝た?  そんな事あるはずが無い。  今、先輩は人と付き合えるゆとりは無い。  誰かが見栄を張っているだけだろう。  上体を起こし、話している人の顔を盗み見た。  暗い上、化粧の濃さで一瞬分からなかったが、真ん中に座っている人物は俺の良く知っている人間だった。  一気に力が抜けた。  抜けたと同時に怒りが込み上げて来た。  俺の時同様でっち上げようとしているのかと思うと腹立たしかった。  俺は床を綺麗に片付けると無言でその場を立ち去り、布巾をカウンターに戻し再び13番テーブルに戻った。 「お客さま申し訳ございませんがこちらに来て頂けますか?」  ニッコリ微笑み、相手の返事も聞かずに真ん中の女性の腕を掴むと力ずくでフロアから連れ出した。 「ちょっとなんなのよ!!」  女性の言葉に耳も貸さずに歩いた。  フロアと廊下とを隔てている分厚いドアを開け廊下に出ると、女性は俺の手から自分の腕を無理矢理剥がそうと掴まれていない手で必死に引っ張った。 「いい加減放してよ!!」  放す代わりに腕を引き寄せ壁に背中を押し当てるように押し付けた。 「痛い! 一体なんなの!? あんた……」  薄明かりで自分の腕を掴んでいるのが誰なのか、相手にも分かったらしかった。 「光……なんでここに?」  俺は加奈子の質問には答えずにニッコリ笑った。 「さっき面白い話をしていたね。俺にも話してくれないか……」 「何よ怒っているの? 今更彼氏面しないでよ私達は……」  加奈子の勘違いした言動は聞くのが面倒だったので、遮って話を進めた。 「俺たちは元々付き合っていないし、俺は加奈子の彼氏だったつもりはないよ。それに今はそんな事どうでもいいんだ。さっきの話聞かせてくれる」  加奈子は俺に怒られると思っているのか、口を硬く結んでしまった。  俺はわざと溜息を吐き、クスリと笑って見せた。 「やっぱりさっきの話は嘘なんだ。そうだよねあの志野原さんが加奈子なんかを相手にする訳ないものね」 「嘘じゃないわ! 本当に私シノと寝たんだから!!」  しまった! という表情を一瞬したが、開き直ったのか訊かれてもいない事まで話始めた。 「証拠だってあるわ。左胸の上にキスマークを並べて2個付けてあるから確かめてみてよ昨日付けたばかりだからクッキリ残っているから」  それだけ聞くと俺は掴んでいた腕を解放した。  何時までも掴んでいたら必要以上に力を加えてしまいそうだったから。  ココまで自信たっぷりに言い切るのだから全くの嘘ではないのだろう。  ただ全面的には信じられない。  いや、信じたくないだけかもしれない。  先輩が俺の彼女だと思っている人間と寝るなんて……。  そんな事すれば俺を失う事くらい簡単に想像が付くはずだ。  大切な抱き枕を失うようなまねは絶対にする訳がない。  絶対に……。  その場に加奈子を置いてフロアに続くドアに手をかけ開こうとした時、一つ言い忘れた事を思い出し顔だけを加奈子の方へ向けた。 「俺の事を元彼だなんて言わないでくれる。いい迷惑だ」  吐き捨てるように言い、ドアを開けると物凄い音の洪水に身を沈めた。  カウンターに向かい歩く。  イライラしていた。  何に対してイラついているのか分からない。  兎に角イライラする。  カウンター内に入ってただ黙々と仕事をした。  本当は仕事などほおって先輩の所に行き確認したい。  加奈子が言った事が本当かどうか……。  そんな事実は無いとキッパリ否定して欲しい。  モヤモヤとした気持がドンドンと広がっていく。  焦り……。  苛立ち……。  不安……。  色んな感情が混ざり合って胸が押し潰されそうだ……。  気持悪い……。 「おい光!」  後ろから力強い腕に右腕を引っ張られた。  ハッとして腕を引っ張る人物を見る。 「兄さん……?」 「どうしたんだ?」 「何が?」 「気付いてないのか? お前酷い顔しているぞ」  酷い顔……。 「珍しく余裕ない顔している。作り笑顔が消えているぞ」  ……。  笑顔を作っている余裕すら無くなっているのか……。 「なんなら叔父さんに言って早めに上げてもらうか?」 「いや、仕事だから……ちゃんと最後までやっていくよ」  兄さんは俺の頭をクシャクシャに撫で「無理するなよ」と言って自分の仕事に戻った。  ちゃんとやると言ったものの、自分で自分がどう動いたのかも分からない状態で仕事をしていた。  頭から先輩の事が離れなかった。  仕事を終えトラックで帰る途中先輩の家の前で俺だけ降ろしてもらった。  何時ものようにロビーのインターフォンに先輩の部屋番号を入れると2回コールが 響いた。 『はい?』 「稔川です。開けて下さい」  俺が言い終えるよりも早く目の前のドアは開いた。  エレベーターに乗り先輩の住む階で降りた。  部屋の鍵は既に開いていた。  何時もなら玄関で俺を出迎えてくれるのだが、今日は……。  いや、確か昨日も玄関には来なかった。  昨日は具合が悪いか手が離せなかったのだろうと思っていたが、さっきの加奈子の話が本当だとしたら……。  俺は頭を振り嫌な考えを消した。  無遠慮に部屋の中を探すと一番奥の部屋に先輩は居た。  なるべく俺と距離を置きたいのか入り口の対極線にあたる部屋の隅に、背中を預けるようにして立っていた。 やはり昨日同様、俺の方を見ようともしない。 「先輩訊きたい事があります」  そう言うと先輩はズルリと壁に背中を預けたまま、その場に崩れるように座り込んでしまった。  俺は部屋の入り口から一歩一歩先輩を追い詰めるように近付くと、先輩は体育座りをするように両膝を両手で抱え込み小さくなった。  相変わらず顔を背け俺の方を見ようともしない。  先輩の正面に立ち膝をつき座った。 「加奈子と寝たんですか?」  一瞬目が見開き、壊れた人形のようにガクリと崩れた。  膝を抱えていた腕は力なく解かれ、ダラリと垂れ下がった。  返事を聞くまでもなかった。  こんなあからさまな態度を取られては……。  だが、ちゃんと先輩の口から聞きたかった。  両手で先輩の顔を挟み無理矢理俺の方に向かせる。 「YesかNoでいいんです。ちゃんと答えて下さい」  薄い色の瞳から大粒の涙がこぼれてくる。 「泣いて誤魔化さないで下さい」  ガクガクと震えている。 「加奈子と寝たんですね?」  全てを観念したように小さく消え入りそうな声で「ああ」と答えた。  それを聞いて不思議と冷静だった。  怒って怒鳴ってしまうかもしれないと思っていたのに。自分に拍子抜けした。  今まで見えなかったものが急に見え始め、自分の愚鈍さに呆れた。  加奈子の言う通りなら先輩が加奈子と寝たのは昨日のはずだ。  それ以前に様子がおかしかったのは俺が抱き枕の役目をなさなくなったから……。  俺ではもう、先輩は眠れなくなってしまったのだ。  飽きたと言う表現はおかしいかもしれないが、駄目になってしまったに違いない。  俺は必要なくなってしまったんだ。  そう考えればここ数日寝付きが悪かった事も、俺から離れて寝ていた事にも納得がいく。  何か言いたそうにしていたのは、不必要になったと言いたかったのだろう。  俺には弱い部分を沢山さらけ出してしまったから切り出し難かったのかもしれない。  加奈子の出現は渡りに船だったのだろう。  俺と切れるためにわざと寝たのだ。  バカな人だ。  こんなまねしなくても何時でも俺は身を引くつもりでいたのに……。  何時か「いらない」と言われる日が来る事は分かっていた。  愛情を受ける事無く育った所為で心がカラカラに乾いていたから、損得勘定なしの優しさを受け取る事が出来れば心は潤い満たされ、満たされた時俺の役目は終わる。  覚悟していた事だ。  なのにこんなにも腹立たしいのは、思っていたよりもずっと早くにその日が来てしまったから。  きっとそうに違いない。  顔を両手で支えた状態で、親指だけを動かし涙を拭った。 「志野原さんサヨナラ」  出来るだけ優しく微笑んだつもりだが、多分上手く笑えていないのだろう。  冷たく笑っているに違いないない。  その証拠に先輩の顔は色共に表情を失ってしまっている。  何度か涙を拭うが後から後から先輩は涙を流し続けた。  まるで身体中の水分を流しきるように……。  ボロボロに泣く姿を見て何時ものように優しく抱きしめて上げたかったが、自分にはもう何もしてあげる事が無いと思うと胸が苦しかった。  壊れたように泣く先輩をその場に残し、俺は先輩の家を後にした。

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