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狂い咲きの後に

「もうベッド以外の場所で盛るのはやめにしよう」  低音やけどしそうなほど保温された便器へ腰を下ろすと、ピーターは厳かに提案した。短い睡眠の間にも、空調の効いた部屋は喉をひどく乾燥させる。思わず漏れる文字通り乾いた笑いに、粘膜はぴりぴり引き攣って裂けてしまいそうだった。 「コーヒーテーブルに倒れ込んで脚をへし折るなんて、40を越えた大人がやっていいことじゃない」  彼ですらそうなのだから、散々喘がされたオラシオはさぞやがらがら声に違いない。だが予想に反して、鏡に向き合った肩は軽く竦められるばかり。 「君が熊みたいにのし掛かってきたんじゃないか」  確かに相槌と言えば普段より幾らか低く抑えられ、コントラバスの域へ踏み込みかけてはいる。問題は、これがやむを得ない措置なのか、責任回避のため意図的に作られたものなのか、判別が難しい事だった。 「右の肩胛骨辺りが痛いんだが、痣になってるだろう」 「いや」  目を眇め、僅かに身を乗り出しすらして確認したが、なめらかな小麦色の肌はほぼ無傷と言っていい有様だった。昨晩はお互いの顔を見つめ合うような体位が多かったと記憶しているから、背後にあまり痕は見あたらない。  47か8か、とにかく中年に差し掛かり、オラシオはますます色気を増している。風呂を浴びた後に身につけるとは想定されていないのだろう。ホテルに備え付けられた、悪趣味な青いベルベット地のガウンという、何とも講評を加えがたい格好でも、はちきれそうな魅力は押さえ込むことができないーー自らもランニングシャツにボクサーショーツという体たらくであることには、とりあえず目を瞑る。何せこっちは、まだ寝起きなのだから。  微睡から目覚めたとき、腕の中が空だった時の寂しさを、是非とも目の前の彼にも分けてやりたい。自らの価値を知っているのだから、ちゃんと納得してくれるだろうーー昔から痩せぎすと程遠い体型の男だ。そこへ来て、今の羽毛をたっぷり詰めた布団のように、肉を巻いた身体の抱き心地は、最高の一言に尽きる。  確かに、幾らピーターがロンドン郊外で生まれた生粋のイギリス人だと言っても、いい加減テディ・ベアが無いと眠れない時期は過ぎていた。  だが、と前置きしてからの言い訳なら、けれど山と並べ立てる事が出来る。いくら夏とは言え部屋のクーラーは下げるだけ下げているし、近頃増えたデスクワークによる腰痛は抱き枕でやっと緩和される程だし、何よりも自らは愛情に満ち溢れた性格なのだからーー   「絶対どうにかなってる。だってあんな陶器の灰皿」  ガウンの肩口に指を引っかけ、丸っこくジューシーな首から二の腕への輪郭が露わにされる。昨日の自らは欲望に正直で、あそこへ思い切り唇で吸いついた。窓の位置がよろしくなく、朝日も射し込まないホテルの浴室で、その痕は霜が降ったかの如く細かい斑点状に鬱血している。本格的に目立つ色へ変色するのは、もうしばらくしてからだろう。その時はまだ、彼と自らはここにいるだろうか。自らは、彼を愛する権利を有しているだろうか。  暗闇ですれ違う船に乗ってキスをするような、と以前オラシオはなかなか粋な言い回しを使った事があった。彼は3日間、リュクサンブール公園にほど近いこのホテルへ宿泊し、4日目の昼を息子とリッツでとった後、ド・ゴール空港からマンハッタンの住まいへ戻る。  一方のピーターと言えば、ロンドンから到着したばかりでパリ詣でも済ませていないーーもっとも、おのぼりさんと呼ぶべき時期はとうに去っている。知人に会って1、2日を潰した後は、プロヴァンスに農場を持つ友人の招待へ応じるつもりだった。    昨日の昼過ぎに落ち合ったとき、先に到着していたオラシオは全く用意周到。ボン・マルシェで買ってきた総菜とワインを、クーラーボックスへ山と詰め込んで持参してきたのだから。  その中で、レバーのパテはピーターがもっとも苦手とする食べ物の一つだった為、オラシオが一人で全部食べてしまった。身体を繋げたまま、ちぎった堅いパンに塗って、小さな一カップ分をぺろりと平らげたのだ。  あの鉄錆の匂いがするねっとりした物質が彼の胃へ落とし込まれ、直腸まで流れてきては、差し込んだペニスへまとわりつく様を想像するのは容易い。幸い実際は、ただキスがかなり生臭くなっただけだったのだが。  そんなことですら二人だとおかしくて、結局ルーサンヌ・ヴァレ・カサブランカを(フランスくんだりまで来ておいて、チリの赤ワインを欲しがるのだ、オラシオという男は!)浴びるように飲んでごまかすことも、高揚の一助にしかならなかった。  ワインですっかりご機嫌になり、いい加減ソファからベッドへ行こうとして、ローテーブルへ躓いてしまった。あんな繊細な猫足が、中年男二人の体重へ耐えきれるわけがない。  起こってしまった直後は、くすぶる官能が作るヒステリーが大笑いを誘発し、そのままふらふらと寝室へ移動した。  今になってピーターの頭を痛めるのは壊れたテーブル、粘りついたパテにパン屑が散るソファ、出過ぎたアドレナリン、それから、ありとあらゆる液体で汚してしまったシーツまで、数え切れない。  マリファナどころかコカインでラリった10代の子供が二人、一晩中跳ね回ったような見てくれのベッドだけでも、少しは整えておかなければ。例えワインの染み抜きは出来ないとしても。眉間を揉んでいるピーターに、オラシオは平然と尋ねる。 「二日酔いか」 「いいや」 「良かった。今から車で片道2時間半だ」  美しい紅茶色の瞳が作る横目遣いに、溜息が漏れた。先ほど誓った貞潔を、早々にかなぐり捨ててしまう真似は、断じて防がねばならない。  ところで先程からオラシオが何をしているかというと、髭を剃っている様子はない、その黒々とした髪へ整髪料を付け、櫛で撫でつけている訳でもない。素足だと白いタイルは冷たいだろうに、全く頓着することなく鏡を覗き込んでいる。  いかにも腰がだるそうに、時折片足へ過剰に重心を預ける仕草ではっとなったのは、昨日彼が取った挑発的な姿のことだった。  オラシオはラルフ・ローレンのポロシャツをよく身につけている癖に、馬と縁遠い生活を送っている。跨がって腰を振ることで主導権を得る体位を気に入ってはいるようだが、肉体はついて行かない。  勝ち気さと、快楽だけではない苦悶。入れ替わり立ち替わりする表情を見上げるのはピーターとしても望むところだが、こちらだって腰骨の辺りに青あざを作ったのだから、痛み分けも良いところーー膝の上へ肘を付いて鑑賞する今の姿勢だと、少しだけ、ほんの少しだけじくじくと響く。 「目にゴミでも入った?」 「いや」  くねる雄大な尻を視線で犯されることに、オラシオは恥じらいではなく怒りを覚えたらしかった。一度もどかしげに頭を振り立て、ぶっきらぼうに吐き捨てる。 「コンタクトレンズを外すとき、指で眼球を突いたらしい」 「なんだって」  全身で振り向くことで、こちらからは見えていなかった右半分の顔がLED照明の下に晒け出される。白目の左側を赤く染める血に、思わずピーターは愕然の呻きを上げた。 「眼科へ行くかい」 「平気だ、目薬でも差しとけば。ただしばらくは眼鏡生活だな」 「本当に? よく見せて」  立ち上がり、ピーターはオラシオの元へ歩み寄った。顎を手で支え、僅かに低い位置へある顔を見下ろす。少々中年太りの気が見え、顎の輪郭が緩みかけていてもなお、彼は美しい男だ。誰もがまず誉める、その艶やかな瞳を損なうなんて、本人の行いと言えど許されることではない。  オラシオは最初、明らかに惰性で自らの首を差し出した。この期に及んで見くびっているのだ。イートン校に通う坊やを誘惑したアイビーリーガーだった、あの頃と同じで。  年上の青年を征服できたと思い込み、誇らしげに胸を張っていた少年はもういない。にっこりとした笑顔に面影を見出すことは可能でも、その本質がすっかり変わっていると、賢いオラシオはとっくに知っている。すぐさま、止めどなく泣かされて、いささか腫れぼったいところがたまらなくエロティックな瞼を伏せた。  大人は建前がないと行動するのもままならないとは、お互い十分承知の身だ。相手の従順さに満足しながら、ピーターは熱を持った目元に唇で触れた。 「子供みたいな怪我だね、少しみっともない」 「君は時々、物凄く癇に障ることを言うな」  これだからイギリス人は、などとありふれた嫌みを放つ代わりに、オラシオは温い手でピーターの頬を軽く叩いた。 「まだ盛る時間じゃない」 「そうかな」 「私はワイナリーに行きたいんだ」 「ワインなら昨日嫌と言うほど飲んだろう。それに今時、通販で買えないものはない」 「馬鹿だな、君は」  やいやいと、こんな情けない格好の大人が寒々しいバスルームで言い合うことの、何と馬鹿らしいことか。けれどそれを認めないのが恋ということだ。例え年を経る毎に穏やかさを増し、月に一度あるかないかの逢瀬しか重ねることが出来ずとも関係ない。これは恋なのだと、ピーターは確信を持って答えることが出来た。    やがてオラシオは、じゃれつくような、大人が赤ん坊へ与えるようなピーターの口付けを、邪険に振り払わなくなった。みっしりと肉の詰まった相手の二の腕に手をかけ、微かに顔を背ける。 「ここはベッドじゃない」  次に彼が触れて欲しいと期待している場所は、赤く染まった耳朶だ。聴覚と言う点のみならず耳の敏感な彼は、ちょっと息を吹きかけられただけでも大きく肩を揺らす。 「なら、寝室に行こう」  お望み通り柔らかな縁を軽く唇で挟み、囁いてやる。オラシオはフットボール選手が相手チームを押しやるように、自らの肩でピーターを促した。  さすがにこの年にもなれば、射精の回数を誇るのも芸がない。ベッドへ連れ込み、昨晩手付かずで取っておいた背中に満遍なく唇を降らせると、オラシオは子犬のように機嫌良く喉を震わせた。 「10時には出よう」 「うーん」 「普段は時間を守らないと怒るのは、君の役なのに」  床へと手を伸ばしての乱雑な探索の結果、ワインボトルは無事に掴み取られる。行儀も悪く、二口分ほど残っていた瓶を傾ければ、声に深い張りが戻ってきた。何だかんだと、彼もまだ頭が覚醒しきっていなかったのだ。 「白ワインがいい、ヴーヴレが飲みたい」  渋い黒葡萄の吐息に連なる嘆きに、相手が酔いしれると、勿論織り込み済み。挙げ句の果てにこちょこちょと、シーツの下での攻防戦へ持ち込まれる。絡み合う爪先はその声と同じくらい甘い愛撫だった。 「君と一緒に飲みたいんだ」  ピーターが普段は頑迷なスコッチ党だと知ってこの言い草なのだ。けれど年上の男が見せる癇癪混じりの誘惑は、むせ返りそうな甘さを孕んでいる。例え数日後、農場で拷問のようにロゼワインと有機野菜を詰め込まれる羽目になると分かっていても、簡単によろめいてしまう。 「君位しか、まともな舌と感性を持ってる友人がいないから」 「もっと友人を作れば」 「この年になると、交友関係を新たに開拓するのも面倒なんだよ。身体が保たない」  そこまで口にしてから、小さく「あっ」と放たれた呟きへ、ピーターはすかさず覆い被さった。 「セックス・フレンドを想定した?」 「何のことやら」  空とぼけるオラシオの声は、耳の裏へ吸いつかれたことで後半が僅かに上擦る。 「私達の年で新たにセックスへ手を伸ばすとなると、まあ、大体、パトロンにならなきゃいけないからな」 「下を見るからいけないんだ。上を見ればいい。車椅子に乗って、ニトログリセリンを手放せない、黴の生えた人生の先輩方」 「なら、君の元上官のミスター・モアに電話でもするさ。この前、保守党のパーティーに顔を出したら」 「どうして君がそんなところに」  笑いながら声を上げれば、今度こそオラシオは澄まし顔。もちろんピーターは、そのまま一方的にやられる性分ではない。脚を掴んで重たい体をひっくり返すと、シーツの中へ潜り込む。 「こら、馬鹿はやめろ」 「国では民主党へ散々寄付してる癖に、海を渡れば鞍替えか」  臍に唇で触れて、赤ん坊へするようにふうっと息を吐いてやれば、すぐさま陽気な大笑い。まだ辛うじてベルトに乗らない腹が浮き上がる。  空いた腰とマットレスの隙間に腕を差し入れ、何度も甘ったるく啄みながら、ピーターは少しずつ身体を下げていった。腰骨の尖り、女性ならば子宮がある三角州の上辺、艶々した黒い性毛の毛並みを整えるよう、舌を滑らせてやれば、笑いが悶えの色を帯びる。 「本当に……いい加減、怒るぞ……っ」 「モア中将とデートなんかするなよ」 「冗談に、決まってるだろう、全く」  蠢く頭をコンコンと、ノックするような動きで叩く拳は、あくまで冗談めかしている。シーツの下ではウィットなんて言葉がとっくに投げ捨てられ、全てが真剣に行われていることに気付いていない。ほくそ笑んで、ピーターは無防備に開かれた脚の更に奥へ進む。  ピーターが起きてくる前に風呂で洗ったらしい。肌からは備え付けの石鹸へ練り込まれた、カモミールの清潔な匂いがする。指で探っても、アナルの表面に潤滑剤のぬめりはない。縁が瑞々しく充血し、尖らせた子供の唇を思わせる。  昨晩ピーター自身がしたたかいじめたそこへ指を這わせる。呆れて溜息をつくかの如く、ほんの少し開いた穴に、ぺろりと舐めただけの人差し指は第一関節まで簡単に押し込むことが出来た。   「もう、これ以上は……」  オラシオは立派な太腿を一度開き、きゅっと閉じた。狼藉者の肩にふくらはぎがぶつかり、それ以上の防御を阻む。  指一本で引っ張るようにして開いて、縁から地続きの粘膜を唾液で濡らされ、丸っこい膝が耳元を掠める。  オラシオを抱いた男は皆口を揃えて、あれ以上の快楽を味わうためには天国か地獄へ行かねばならないと請け合った。生まれ持った敏感な身体は、すぐに男を取り返しがつかないほど興奮させてしまう。    見えておらずとも、ピーターは今オラシオが浮かべる表情を簡単に想像することが出来た。薔薇色をした口腔の粘膜を見せつけるよう、あえかに口を開き、忍び笑いを思わせる密やかで燃える喘ぎを放つ。事実、楽しくてたまらないのだろう。男が性欲の峠を越す中年期を迎えても、その貪欲さは留まることを知らないようだった。  それともこれは、自らと同じく「君だから」の一言で片付けていい類のものだろうか? ならば僥倖。昔は歳を取ることを馬鹿にし、同時に恐れていた。だがいざ経験すると、案外この生き方も自らの性質に合っているのではと思えてくる。偉そうな顔をして、質の良いものだけを選り好みするのも、悪くはない。  直腸から少し入り込んだ先、微かに皺の凹凸を感じる粘膜を伸ばすように指の腹で揉んでやり、ゆっくりと滑り込ませる。それからワインのコルクを抜くように少し捻りながら引き戻し、またもう一度。粘った腸液が温かく指を濡らす。いや、もしかすると、洗い流されたのは表面だけで、まだ中に昨日の残滓が居座っているのかも。  伸びをして身体をシーツから出せば、火照った頬を冷風が撫でる。カーテンを開けず薄暗い室内でも、見上げるオラシオの面立ちが、一日ゆっくりと噛みしめていたいくらい美しいと知った。 「本当に、するつもりだったなんて」  傾げられた小首の中、瞳を輝かせるのは窘めと、熱と、そして毛細血管から滲み出る血。荒くなり始めた呼気ごと唇を一度吸い、ピーターは不規則に瞬く長い睫を陶然と見下ろした。 「さあ、どうだと思う?」 「私に、言わせるのか。そうなんだな」 「まあまあ」  剥き出された歯が示す闘争心は、この場において余りにも場違いで、だからこそ子供っぽい焦れとは無縁でいられる。  彼には悪いが、もうしばらくは離してやれる気がしなかった。1日や2日、ワインは逃げたりしないのだから。  何度かしごいて勃起状態に持って行った性器へ、手早く避妊具をつける。あとは手を添え、ゆっくりと押し込むだけだった。  しばらくの間はオラシオも唸ったり文句を言ったりと渋っていたが、半ばまで拡張されると、集中し始めた。短くなりがちな息を長く吐くよう努力することで、少しでも身体の緊張を解こうとする。  このひたむきさと従順さは、初めて抱いた時と変わらない。どれだけ淫蕩に嗤っても、いざとなれば少し苦しげに眉間へ皺を刻みながら、人体構造上無理のある行為へ真剣に取り組んでくれる。これが男心をくすぐらずにいられる訳がない。  時に性器へ手を伸ばして気を逸らしてやり、時に唇の感覚が無くなりそうなキスを繰り返す。じっくりと時間をかけて全て納めきった頃、オラシオの頬にはすっかり血の気が上っている。彼はわざとらしく息を付いて、幾らか白いものの混じる、ピーターの赤銅色をした髪に手指を潜らせた。 「確かに、このみっともない顔で行くのも、面白くないか」 「サングラスを掛けてたら、分からないんじゃ?」 「言っておくが、計画を台無しにしたのは君なんだぞ」 「明日行けばいいよ」  何度か首を傾けたり、目を細めたりして、サイドテーブルに転がるロレックスの文字盤を確認してから、ピーターは言った。 「10時にここを出る、12時半にワイナリーへ到着して、昼食を食べながら大体4時間、こっちへ戻ってきた頃には小腹も空いているだろうし、軽く食べてまたセックス。完璧だろう?」 「理由は、説明できないんだが」  軽く揺すられる腰の動きに、うっそりと目を細めながら、オラシオは唸った。 「行く気が失せてきた」 「どうして。楽しみにしてたのに」 「子供の遠足じゃないんだ。予定を定めない、気ままな旅ってものが」 「なら明日は時間割を無視して、一日中ベッドの中かな」 「イギリス人に殺されるって、フロントに通報してやる、っ」  先端がいいところを掠めたのだろう。一度言葉が詰まった後、しばらくはその快楽を手繰り寄せようとしているのか、瞼が薄く落とされる。んん、と鼻声が可愛くて思わずかじってやれば、「見えるところに痕をつけるな」と案外しっかりした口調で叱られた。 「申し訳ないが却下する」 「息子にどの面下げて会えばいい」 「アクセルが来るのは明後日だろう。その頃にはきっと薄くなってる」    成金2世の持ちうるコネを総動員しても、息子をニューイングランドの学校へ入れることに失敗した父親の見栄。スイスの寄宿学校へ送り込まれている少年は彼の最初の妻が産んだ子供で、今現在オラシオにとって、たった一人の血を分けた存在だった。  哀れで、だからこそとても可愛い子供。自らのどうしようもなく情けない息子とは大違いの。 「君のところの息子は真面目だから助かる。間違っても二人、特大のマリファナ煙草をくゆらせながらリッツのラウンジへ突入してくることはなさそうだ」 「ブレントが来るのか?!」  驚愕に自然と声量は跳ね上がる。顔をしかめつつも、オラシオの表情には確かに不審の色が浮かんでいた。 「聞いてない? ル・ロゼまで迎えにきた彼と合流して、ジュネーヴを案内してから、ヒッチハイクでここへ来るとアクセルが」 「ヒッチハイク? 冗談だろう……」  本気で顔色を変えるピーターに、オラシオは何とも気まずげな咳払いを一つしてみせるーー傍若無人なこの男が、特にベッドの中で遠慮するなんて、天変地異だと呼んでも差し支えない。 「君が、そこまで息子と没交渉だとは思わなかった」 「寧ろ君のところが、親密すぎるんだ」  皆まで言わせる前に、オラシオはふっと、あからさまに小馬鹿にした笑みを口元に刻んだ。 「そりゃあ、努力してるから」  欲しくもない子供を作り、別れた妻達へ金と共に押し付けた人間とは根幹から違う、と言いたいのだろう。オラシオは今なお熱心に父親業へ努めるふりをし、少し浅ましさを感じる程だった。  話を聞かされるたびに胸焼けを催させるのは、恐らく嫉妬の感情だーー一体何に対しての? ピーターは未だ答えが分からない。何であったとしても、みっともないものであることは知っている。 「そもそも、ブレントとアクセルがそんなに親しいなんて……」 「同い年だろう」  狼狽が性的な空気を徐々に押しやるのを眺めているように、オラシオはどこか虚空へ視線を漂わせている。 「それに、ここへ着いてからも何度か話題に出したぞ」 「記憶にない。君とやりたくて堪らなかったから」  咄嗟に飛び出る軽口は、逆にうろたえを立証する。ベッドサイドからスマートフォンを取り上げると、ピーターは着信履歴を下までスワイプした。 「放っておいても、何かあれば連絡してくるさ」 「息子じゃない、シーラに連絡する……一体何を考えてるんだ、今の時代にヒッチハイクだなんて」    この時間だと、幾ら重役出勤の彼女だとしても、オフィスに出ているだろうか。或いは自らと同じく、夏季休暇の真っ最中かも。コールは10度。じりじりと待つ間に、オラシオもスマートフォンと、傍らの電話を取り上げる。別に英語でも通じるのだろうが、フロントへ向かって話されるのは、下手くそなフランス語だった。 「あー、1時間後にこの、シェーブル? 山羊のチーズとオムレツを……ついでにワイン、カベルネ・フランか……もういい、任せる」 『なんなの』  気が立っている時、彼女の声は夕方のように暗く、尖りが隠されることもない。朝の始まりの調和を乱されたことを、今日一日、忘れてもくれないだろう。その御し難い気性が好きだった、指輪を交換するまでは。 「ブレントはそっちに帰ってるのか」 『嘘でしょ、あの子言ってなかったのね』  そう転調した声から察するに、どうやらわざとではなさそうだ。膝で軽く太腿の裏を蹴ってやれば、オラシオは肩を竦めた。 『ちゃんと連絡しなさいって話したのに』 「一切聞いてない」 『聞くつもりが無かったってことね』 「こっちは幾らでも聞く用意がある」  べたべたするもので濡れたままの指で眉間を揉み、ピーターは呻いた。 「難しい子だ、あの子は」 『理解しようとしないからよ』 「とにかく、来るならば電車の切符位、こっちで用意したのに」  皮肉を含ませたつもりはない。だが彼女の身に燃え上がった怒りは、一瞬の静寂を走り抜けてスピーカー越しに鼓膜をきんと打つ。 「可愛い子には旅をさせろ、だろう」  そうぼやきながら大欠伸を一つ。枕を頭の下へ据え直してから、オラシオは手にしていたスマートフォンを差し出した。 「見たところ、それなりに楽しんでるらしいな」  表示されるSNSは、どうやらアクセルのアカウントらしい。投稿されている写真の数は若者らしく膨大で、液晶の上でなおざりに指を滑らせただけで、十分うんざりさせられる。  ここ数日の記事を占める少年はとびきりのモンロー・スマイル。そして所々に、彼の配慮で辛うじてはみ出さず画面に映り込んだ、おたおたした表情を浮かべる自らの息子がいる。過保護な元妻とそっくりな、神経質極まりない頬の引き攣り方。この子は彼女にとても良く似ていた。 「この女の子はアクセルの同級生か、彼女か」 「乗せて貰ってる車の持ち主じゃないか」 「何にせよ」  電話口の向こうから、誰と話してるの、と不機嫌を増した声で問いかけられる。答えるより先に、ピーターは喉の奥で蟠りかけていた言葉を吐き出した。 「普通は驢馬を旅に出しても、驢馬のまま帰ってくる」 「自分の息子を驢馬だなんて」 『あのね、ピーター。私を責めるつもりで当てつけてるなら』 「責めてない。ここにいるのはオラシオだ」  まただんまり。張りを失った代わりに、長年手入れされながら着続ける革のコートのように、気持ちよく手へ馴染むオラシオの太腿に手を這わせながら、ピーターは反対の手で、耳に押し当てたスマートフォンを指先で叩いた。 『替わって』 「お望みとあらば」  スマートフォンを突きつけられても、オラシオは動揺しなかった。ただ気怠げな上目を一度ピーターに押し当て、とっときの猫撫で声で応対する。数え切れないほど身体を繋げた自らにすら、こんな声が投げかけられることは稀だった。しかもこれが、心からの誠意を込めた結果作られたものであるとなれば。 「いいや、シーラ。イートン校ではヘロインなんか出回ってないと思うよ。一夜漬け用の合成麻薬位は、やってる人間もいるかも知れないが」  彼女の方も、元夫へ向けていた怒りはさっさと脱ぎ捨てていた。漏れ聞こえる語調は平穏なもので、時々ころころと笑いすら上げてみせる。 「彼女、いい女性だな」  オラシオの口ぶりからするに、離婚の際、電話越しに何晩も愚痴られた事など、すっかり忘れているらしい。いや、基本的に彼は、いつでも女性の味方だ。 「あの子のことを気にかけてる、心から」 「そうだと思うよ」  液晶の暗くなったスマートフォンが、マットレスの上で数度跳ねる。 「それは勿論分かってる」 「どうだか」  もう一度欠伸をすると、オラシオはピーターの胸の中心に足をつけ、軽く押した。まだ体内に収まるものの固さは十分だと、彼も分かっていただろう。けれど避妊具を外す手つきは威勢が良く、同時にそのまま、70パーセント程勃起した性器に屈み込むまで淀みがない。  70パーセントはすぐ100パーセントへ。柔らかく水気の多い舌が焦らすように括れへ当てられると、もういても経ってもいられない。  ずるずると、何か酷く下劣な物でも食べているかのような音が逆に興奮させる、しかもお互いを。けれど自らも尻を時折震わせ、もぞつかせている癖に、オラシオはこのまま完結させてしまう気らしかった。  まだ往生際も悪く、日帰り旅行を狙っているのだろうか。いかにも彼らしい。  この男が持つ忍耐とは、受動ではなく能動の形を取る。相手がうんざりして白旗を掲げるまで、強弱の攻勢を掛け続け、決して諦めない。  この感情は敵だけではなく、愛する者にも向けられる。  脅迫まがいの情熱で数多の愛人達を骨抜きにし、妻を諦めさせ、息子に納得を強いた先で、オラシオは後悔もせずに笑う。己が悪かったのだろうか、と首を傾げ、時に罪悪感すら覚えて問いかける相手に、彼はきっとこう答えるだろう。「そうだな、でも私は許すよ」    けれど、僕は知っているんだぞ。眼下の頬に触れることでより深く飲み込むよう促し、乱れ髪を耳元へ掻き上げてやりながら、ピーターはにんまり目を細めた。観察ならばこちらも得意だ、何より、責任転嫁と偽善についてイギリス人に勝てる人種などいない。  初めて抱いた男を、最後に抱く男にしたいと願って何が悪いと言うのだろう。先行きは分からないが、漠然とした計画は頭の中に描かれつつあった。後は、相手に自分のプライドが傷付けられないと思い込ませたまま、手の中へ収めなければ、  今やオラシオは、ペニスの先端が咽頭を擦るほど喉を開いていた。口の中の粘膜と言う粘膜がうねる。熱く肉厚な弾力に、思わず身を少し丸めた。  伸ばした手で右肩を掴めば、一瞬だけ顔が顰められた。やはり灰皿は、ここを痛めつけたのだろうか。この禁煙運動盛んなりし時勢に、あんなものを置いておくなんて。大体、この部屋を取った時、禁煙室かどうか秘書はコンシェルジュに確かめたのでは無かったか。  薄ら汗を掃き、掌へしっくり馴染むようになった背中を撫でてやりながら、ピーターは沸き上がった憤慨を胸の中で弄んだ。そうやって気を逸らさないと、今すぐこの気持ちいい口の中に射精しかねない。 「まあ、来るとなったものは、仕方ないな」  ほんの少し舌を口の中で躓かせながら、ピーターは首を振った。 「こっちに一人で残るつもりなのか。私は連れて行けないぞ」  喉を凶暴に圧迫されているにも関わらず、オラシオの表情が崩れることはなかった。彼は拒絶しない。不明瞭な発声へ合わせ、ちらちらと複雑に竿を叩く舌、掠める歯に、ピーターが腰を引くまで平然と待つ。 「リッツに追加の席を取るよう連絡しないと」  ペニスを吐き出しざま、言葉は繰り返される。 「今からなら間に合うだろう」 「それは招待の申し出と受け取っても?」  ピーターが出したのは面白がっていることを表明する声だったが、頬がだらしなく緩んでしまうのは隠せない。 「自惚れるんじゃない。息子の友人と、その父親だからだ」  じろりと剣呑な目付きに、指で膨れ上がった鬼頭を弾くおまけ付き。いい歳した大人が、こんなあざとい真似をして良いと思っているのだろうか。いや、寧ろピーターが歓迎していると知っていて、わざと演じている節がある。 「こちらに到着したら、ジャケットとネクタイを買いに連れて行くよ」 「君のを貸してやればいいだろう」 「少なくとも、上着は丈が合わない。もうあの子は、僕より1インチ以上は背が高いはずだ」 「そうか」  唾液や様々な分泌液で汚れた口を拭い、オラシオは首を振った。溜息は手の甲にぶつかって殆ど押し殺されたが、残った分だけでも十分くたびれた音色を室内に響かせる。 「そんなに大きくなったんだな」  もし自らがアクセルと直に顔を合わせた暁に、今のオラシオと同じ気持ちになるのだろうか。ピーターの胸中に、ふとそんな危惧がよぎった。  こんな事は望んでいない。見つめ合った途端、お互いの中に芽吹いたものを読み取る。  無邪気な若々しさなど、とうに捨ててしまった。確かにあれは味があったが、そこまで良いばかりのものだったとも思えない。  負け惜しみにしか過ぎないとしても、とにかく今、彼らに力がある事は事実だった。痛みに泣くしかない無力さを卒業し、手に入れたのは庭で芝刈り機を転がす平穏さ。自らの手で掴み取ったのだ、誇るべきだ。  それが他者の痛みの上で成り立つものであっても後悔してはならない。鈍感さは大人の必須項目なのだから。  結局、再び本気を出したオラシオは、10分もたたずにピーターをいかせた。  瓶の底へ最後に残っていた赤ワインで口の中を洗い流すと、そのまま汚れたシーツに滑り込む。来ないの? と赤い目が肩越しに問いかけるので、いそいそと彼を背後から抱きしめた。 「ああ、君は温かいな」 「いい子だから冷房を消してくれよ」 「それだと熱中症になる」  腕に力を込めれば、もたれかかる身体から徐々に力が抜けてくる。呼吸が穏やかになり、四肢の末端にまで温もりが行き渡って来たのを見計らって、ピーターは相手のこめかみに頬を押し付けた。 「あと数年したら退役するつもりだから」 「ああ……」 「本気で考えてくれるね」 「うちのタンカーは君の大好きな空母と違って、英語だけじゃ生活出来ないぞ」  むにゃむにゃと怪しい呂律で呟きながら、オラシオは益々くったり、背後に身体を預ける。 「役員の椅子なら、まあ、何とか他の連中を説得して……」 「ちょうどいい、もう船はこりごりだ。南米とアフリカ航路の海賊対策について助言できる役員は魅力的じゃない?」 「悪い奴だな、色仕掛けなんて……」  色仕掛けだろうが、ごり押しだろうが、幸せな未来の為ならば何なりと。最終目標を立ててた後、現在との間を埋めていくのがピーター好みのやり方だった。ならば、次は何をすべきか?  ワインとオムレツとチーズを運んでくるボーイを可能な限り程よく追い出し、料理が冷めないうちに眠気でむずかるオラシオを起こして食べさせる。壊れたテーブルの弁償金を宿泊料に上乗せするようフロントに電話で命じてからは二度寝を。午後からは少し外を歩いてもいいし、またのんびりセックスしてもいい。  きっちり組み上がった予定によると、そろそろ身体を起こして服を身につけ、ボーイを待ち構えていた方がいい。分かっているのに、穏やかな寝息を立てるこの男はやはり離しがたいのだ。  無計画な休暇の、何と愉しい事だろう。結局ピーターは、シーツを肩まで引き上げ、瞼を落とすことで、最初の一歩をふいにした。 終

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