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第4話
港町ヨコハマにいくつもある移民街でも一番規模が大きくてなおかつ一番有名なのが【中化街】だ。
観光名所としてこれも有名なヨコハマ港に面したヤマシタ公園のすぐそばにぎっしりと料理店や雑貨店がひしめき、行き交う人たちはそれぞれの故郷の言葉で話す。
大陸の各地方からヨコハマに移り住んできた人々がそれぞれの縁故によって小さなコミュニティを作り、それが寄り集まって大きな【中化街】を形作っている。
僕は【中化街】の北の隅っこにある古いビルの屋上にいた。
このビルのオーナーは世界大戦の前からヨコハマに住み着いたタイワンの茶商の一族で、僕は高校に入学するかしないかの頃からここの茶葉販売店に出入りし、いつのまにか社長と茶碗を並べてヒナタぼっこをする関係になっていた。
社長が本当の上得意を接待するときにしか人を通さない3階建てビルの屋上庭園は10坪に満たない広さではあるものの、精緻な彫刻を施した黒檀のテーブルを東屋が覆いフェンス際にベンチがあるだけのこじんまりとした調度を社長自ら丹精した植栽に囲まれていて、猥雑な【中化街】のなかにあるにも関わらず心地よい静けさを感じられるので僕は時間を見つけるとできる限り通うようにしている。
黒檀のテーブルに茶器一式を並べて、携えて来た文庫本を読みながら茶碗を傾ける。
午後の風は肌に心地よく軽い眠気を感じるほどだったのだが、それが油断を誘ったのかもしれない。
目を落としていた文庫本のページにうっすらと影が差す。
「こんにちは。ご一緒させてもらいますね」
背中から声をかけてきた人物は、滑らかな動きで僕の正面に回ると腰を降ろした。
「気持ちのいい庭ですね。萬金楼の社長が絶賛するだけのことはある」
「同感です」
「凍頂烏龍ですか。こんな午後にはぴったりだ」
「申し訳ないのですが自分以外の茶碗の用意がありませんでして…」
「お気遣いなく。ご挨拶が終わればすぐに失礼しますから」
さて、そつなく会話を進めるこの人物は何者だろうか。
磁器のように白い顔貌に切れ長の目が涼やか、柔らかそうな髪をすっと後ろに撫でつけている。
ジョンブル顔負けのガチガチに決まったブリティッシュトラッドのスリーピースのスーツを一部の隙きもなく着こなしている。
薄い桃色の上品な光沢を放つシルクのネクタイがとてもいやらしい。
カマをかけてみるとするか。
「日本語お上手ですね」
口の端をすっと上げて男は答える。
「ずいぶん苦労しましたからね。この国のビジネスパースンは英語も苦手な方が多くて。特にご年配の方々は」
「同感です」
ふむ。
若いのだろうが年齢を感じさせない。
肌艶はティーンも真っ青ながら、周りの空気すら動くことを許さないような威圧感を隠そうともしない。
何者なんだろう。
「しばらくこの辺りで暮らすことになりましてね。知り合いを頼って隠れ家を探していたらここを紹介されました。確かに、ここは長居をしたくなる」
「ははあ。そりゃけっこうなことで」
「今後もご同席することがあるでしょう。よろしくお願いしますね。ヨコハマ市警みなと分署管理課の後藤カズマさん」
「こちらこそ」
「確か、管理課総務係長、兼、ヨコハマ市警本部監察室特務監察官の後藤さんであってましたか?」
「よくご存知で」
あらあら。
分署でも分署長と副署長しか知らないことをあっさりと言いやがる。
「そろそろお暇します。これ以上お寛ぎのところを邪魔するわけにはまいりません」
「はあ、お構いもしませんで」
「申し遅れました、私はワン。ワン・ホァンユエと申します」
「月の王様のわりには冷たい感じがしないですね。偽名にしては出来過ぎですもん。えーと、王煌月さん?」
「いやはや、それは女王のほうですね。私は義理と人情を優先させる一介の商人です。今後ともなにとぞ」
「はあ、こちらこそ」
「後藤警部補、ジン・シンってご存知です?」
「なんすかそれ」
「いや、ご存知ないならけっこうです。忘れてください」
そう言って王煌月は音も無く立ち上がりすたすたと階下に繋がる階段を降りていった。
「まいったな」
思い出したようにくちに運んだ茶碗の中身はすっかり冷え切っていた。
ドタドタと足音がして還暦を迎えた恰幅のいい体を安物のポロシャツに包んだこのビルのオーナーが庭園に入ってきた。
「カズマ、天気悪くなるってよ」
「あれ、ていうか社長。いますれ違った人、だれ?」
「は?誰ともすれ違ってなんかいないですよカズマ」
え、そうなの。
「えーと背広姿の男性が降りていかなかった?」
「店から階段あがってきたけど誰ともすれ違ってないね。カズマ昼寝でもしてたですか」
あらまあ。
どういったことか、王煌月と名乗ったどこからどう見てもただのビジネスマンには見えないあの御仁はすっかり消え去ってしまったらしい。
「カズマ、古くなったクコの実をたらふく食わされたみたいな顔してる」
むー。
分署に戻るころにはすっかり雨模様になってしまった。
スーツの肩に落ちた雨垂れを手で払いながらデスクに戻る。
「後藤くん、どこ行ってたの?」
奥のデスクから管理課長の坂本警視が鼻メガネを通して上目遣いでねっとりと訊いてくる。
「管内の不定期巡察であります。地勢把握の基礎中の基礎であります」
上の空で返答しながら端末で王煌月を検索する。
インターネットの検索エンジンにヒットなし。
もちろん市警本部のデータベースにもヒットなし。
あの出で立ちで本当にカタギと考えるほど僕も暢気な人間ではないけど、むしろ有能なビジネスマンなら少しくらいヒントが得られそうなものなのに。
どうせそんなところだろうと頭では考えていたものの、
「まいったなあ」
思わず声に出してしまう。
後藤くん何か厄介ごとじゃないだろうね君はいつもなにかしら隠れてゴソゴソと…とブツブツ言う課長に構わずデスクを離れて喫煙所に向かう。
「さてねえ」
タバコに火を点けたけどロクに吸い込みもせずに、喫煙室の窓を濡らす雨垂れを死んだ魚の目で見るともなく眺める。
ジン・シン。
なんのことだろう。
あんな胡散臭いヤツがそういうことを言うときの腹積もりは大体二種類に分けられる。
世間話に見せかけたこちらの持つ情報に対する探りか、何の気なしを装った告げ口。
問題は、特に警察にマークされてる痕跡のない人物が何故僕をターゲットに接触してきたのか?というところ。
僕があの屋上庭園で過ごすことを知っている人は非常に少ない。
どう考えても僕とコンタクトする目的以外にあそこに現れる人物などいない。
そこらへんの事情を認知できるだけのリソースを持った組織の構成員なのか、単に個人的な能力で嗅ぎつけたのか。
いずれにせよ厄介なヤツに目を付けられたということには変わりはない。
「まいっちゃうんだよなあ」
思わず言葉がくちに出る。
吸い差しになる前にほとんど燃えカスになったタバコからぽとりと灰が落ちた。
オフィスに戻ると坂本課長はデスクにはおらず他の課員たちは熱心に業務に打ち込んでいた。
デスク上の警察電話の受話器をとりあげて外線発信のボタンを押し込む。
きっちり2回のコール音のあとに回線が繋がる。
「ホテルネオグランド客室担当、前田が承ります」
【中化街】にほど近い老舗のホテルの従業員は受け答えも一流だ。
「わたくしヨコハマ市警本部のゴトウダと申しますぅー」
さて、この程度で何かが釣れるとは期待してはいないけども、なにもやらないよりはマシだろうと思えることをいくつかこなしていくことにしよう。
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