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:絢也《じゅんや)から、帰りは十一時になると連絡はあったが、日付が変わっても絢也は帰ってこなかった。仕事か、もしくは報道された彼女と会っているのだろうか。
また良くない事を考えそうで、葵 は慌てて頭を振った。
考えても仕方ない事だ、自分は家に置いてもらっている身として過ごすだけ。次の居場所が見つかるまで、元々、すぐ出ていく予定だったんだからと、改めて自分に言い聞かせた。
大丈夫、間違えたりしない。顔を合わせても、当たり障りない感じで、決して気持ちを顔に出さないようにする。
よし、と気合いを入れてみたものの、家主は一体いつ帰ってくるのか。
「…このまま待ってたら、鬱陶しいかな…」
家主が帰るのを待たずに寝るのも気が引けるが、夜中まで待ち構えていたら、絢也に変に思われないだろうか。昨夜の絢也の行動を鵜呑みにして、なんだこいつなんて思われないだろうか、からかいをまともに受けて、とか、そんなつもりはないのに本気にして、とか。
「…そんな風に笑ったりしないか…」
なんとなく、そんな気がする。絢也の事なんて、芸能人としてしか知らないけど、何を考えて手を握ってくるのかも分からないけど、本気で心配してくれる人間だというのは分かっている。そこまで酷い人間では、きっとない。
「なら、あれは何だったんだよって感じだけどな…」
壁に向かってひとりごち、葵は溜め息を吐いて立ち上がった。
ひとまず寝床の準備をして、絢也が帰ってくるまでちょっと横になっていよう。色々考えていたから頭が疲れてきた、全力疾走をした反動が体に出始めていて、ふくらはぎもちょっと痛い。玄関の鍵が開いたら音で分かるし、それで起きればいいだろう。
葵はそう思い、リビングから部屋へと向かった。
この家は、玄関からまっすぐと廊下が伸び、玄関を入って左手に、絢也の寝室、その隣に洗面所やトイレや風呂が。右手に、未使用の部屋が二部屋ある。廊下を進むと突き当たりには扉があり、それを開くと、右側にリビング、左側にキッチンがあった。
葵が使わせてもらっている部屋は、未使用の部屋の一つで、リビングに近い部屋だ。未使用の部屋はどちらも荷物を置くだけの倉庫代わりになっており、葵がリビングに近い部屋を選んだのは、朝起きて絢也が寝ていた場合、なるべく部屋の前を通らないようにする為であり、キッチンに少しでも近い方が便利に思えたからだ。
絢也の使っている部屋は、ベッドや棚等が置かれていて、多少部屋っぽくなっているが、葵が借りている部屋は倉庫代わりになっているので、ここでも段ボールの存在は大きかった。今、それらは壁に沿って積まれて置かれ、空いたスペースに、絢也から借りたマットレスを床に敷いた。このマットレスも、そろそろ変えようと思い購入したそうだが、面倒になったのか袋に入ったまま仕舞われていたという。それから、運良く予備があったタオルケットを掛けて、葵はそこに体を横たえた。
暗い天井を見上げていると、やはり気になるのは積まれた段ボールの壁だ。この家に、生活感はあまりない。荷物はそのままだし、食器類もあるのは一人分ばかり、冷蔵庫は空で、調理器具も、段ボール箱の中から発掘した。片手鍋とフライパンと包丁はあったが、どれも包装紙に包まれて新品のようだった。
絢也はこの家に、あまり帰ることはないのだろうか。
「…彼女とか、いない筈ないもんな」
そりゃそうだ、相手はスターなのだから。男だって惚れるくらいの相手だ。葵は自嘲する余裕が出来ている事にほっとして、ごろりとうつ伏せになって顔を起こした。
枕元には、自分の荷物である段ボール箱があり、その上にハンカチを敷いて、昨日買って貰ったウサギのマスコットを置いていた。
このウサギのキャラクターだが、名前をキャロットという。
人参がうさぎの好物だからだろうか、安易な名前だな、というのが葵の感想だ。
葵には、このウサギのキャラクターが女性に人気だという知識しか無かった。その為、昨日の昼食時に、絢也がキャロットについて色々と教えてくれたのだが、その様子を思い出せば、葵は思わず頬を緩めていた。
絢也にとってキャロットは、自分のイメージからはあまりにも遠いキャラクターだったので、公には好きと言えずに歯がゆい思いをしていたという。だから、人に話せることが嬉しかったようで、その生き生きと瞳を輝かせる姿に、こちらまでつられて楽しくなってくるほどだった。
キャロットは、“こぐまのラッキー”という絵本から登場したキャラクターの一つで、CG映画がヒットした事がきっかけとなり、人気を確立したらしい。今では有名なテーマパークにも、仲間入りを果たしている。
葵の買ってもらったキャロットは淡い紫色で、絢也は水色だ。
色によって性格が異なるらしいが、葵はそこまで覚えられなかった。
絢也の部屋に掃除に入った際、恋愛報道に関わる何かは無かったが、代わりに色々なキャロットのグッズが棚に並んでいて、思わず肩の力が抜けたのを思い出す。胸が痛んだらどうしようと思ったが、逆に胸がきゅっと鳴った。絢也にとってはコレクションの一部でも、葵にとっては思い出のウサギだ。
良く見ると、皆、身に付けているものが違う。服を着たり、帽子を被ったり、顔つきも様々だ。
今、段ボール箱の上に座っている葵のキャロットは、ヘッドホンを首に掛けている。オーディオメーカーとのコラボ商品と言っていたから、それが他の子達との違いかもしれない。
布団に入りながら、ぼんやりキャロットを見つめ、それに絢也の顔が重なると、葵は力なく目を伏せた。
これで眠れば、今日は絢也と会わない事になる。もしかしたら、こんな日が続くのかもしれない。
ここに、絢也は帰ってこないかもしれない。
会わなければ、多分、勘違いで済ませられる。優しくしてくれた事に甘えて、恋したように思えただけ。今ならいくらでも言い訳がつく。
「…でも、このままはちょっと寂しいよな」
思わずキャロットに本音を溢していれば、玄関から鍵の開く音がして、葵は肩をびくりと揺らして飛び起きた。
一瞬、躊躇いはしたが、居候が主を出迎えないのはおかしいと自分を納得させて、葵はそっと部屋から顔を覗かせた。
「お、お帰り」
平常心、平常心。と、言い聞かせながら絢也に声を掛けると、彼は疲れきった顔で葵を一瞥しただけで、何も言わずに俯いてしまった。
その素っ気ない態度に、葵はショックを覚えると同時に、堪らず顔を赤くした。
これで、気づいてしまった。絢也は自分の事をからかっていただけで、きっと出迎えられるなら彼女の方が良い筈で。それなのにショックを受けたりして、恥ずかしい。ショックを受けるのは、ちょっとでも期待していたからだ。
「お、お疲れ。その、遅かったな」
もしかしたら、出迎えたタイミングで顔が緩んでいただろうか。それが気味が悪いと思われたり、そもそも出迎えること自体が、やはり鬱陶しかっただろうか。
「えっと、疲れただろ、何か食べるか?あ、風呂入るか?何か飲み物でも、」
だが、今更引っ込めない。ここで逃げるように部屋に引き返したら、余計に変に思われてしまう。でも、何をどうすれば良いのかが分からない、絢也は怒っているのだろうか、だとしたらどうしたら機嫌は直してくれるのだろう。勝手にショックを受けた後では、回る頭も回らない。
とにかく空気を変えなければと、話を続けながらキッチンへ向かおうとすれば、突然背後から腕が伸びてきて、葵は絢也に抱きしめられていた。
「ど、どうした、」
ドッ、と胸が高鳴り、葵は更に落ち着かなくなる。何がどうなっているんだと、パニックになっていれば、肩に寄せられた口元が大きく息を吸い込んだので、葵は思わず体を強ばらせた。
「疲れた…」
そして吐き出されたのは、肩から一気に力が抜けたような声で、葵はきょとんとして目を瞬いた。
「あー…葵さんだー…ようやく帰ってこれた…」
心底ほっとしているような絢也の様子に、葵も、強ばる体から力が抜けたのを感じる。
そうか、疲れていただけかと、鬱陶しいと拒絶されたわけでは無かったと、その事に安心していた。そうでなければ、抱きしめたりはしないだろう。葵のような恋に似た感情が無くても。同居の条件にハグの許可があっても。
葵は、少し躊躇いながら、労うように肩に乗る頭をぽんぽんと撫でた。
「お疲れ様、ずっと仕事だったのか?」
「はい、ドラマ撮ってて、今日は早い方です」
そのままどんどん重みの掛かってくる体に、葵はさすがに焦った。
「お、おい!このまま寝るな!風呂は?」
「明日でいい、」
「せめて着替えろ!手洗いうがい!明日も早いのか?」
「明日は昼から」
「そっか、じゃあゆっくり出来るな」
「はい」
「…じゃ、ほら、とりあえず放してさ、」
そう腕を放すよう促すが、絢也はがっちりと葵の腰に腕を巻きつけて放そうとしない。
「葵さん、なんか気持ちいい」
放さないどころか、猫のようにすり寄る頭に、体をなぞるように抱きしめる腕の熱さに、葵はカッと身体中の体温が上がった気がした。
「い、いやらしいぞ言い方が…!だ、抱きしめるなら……お、女の子の方が良いだろ」
彼女の存在が頭にちらつき、葵は自分で言っておきながら、また勝手に傷ついている。そんな自分にいい加減嫌気がさしてくるが、そんな葵の心も、絢也はいとも簡単にすくいあげてしまう。
「ううん、葵さんが一番良い、他は誰も要りません」
「…え、」
どういう意味だと問いただそうとして、気を緩めたのがいけなかった。葵は絢也に後ろから体重を掛けられた状態で膝から崩れ落ち、ぎゃ、叫びながら、床にうつ伏せに倒れ込んでしまった。
「ちょ、絢也君…!」
葵があわくって床の上でもがけば、背中からは脱力した重みがのし掛かり、同時に、しっかりとした寝息が聞こえてきた。
「…………」
葵の背中の上で、絢也は本格的に寝息を立てていた。
戸惑いと期待とトキメキが、ぐるぐると頭も心も駆け巡り、潰された衝撃も合わせ、葵の心臓は、はち切れんばかりに音を立て続けている。
何だったんだ、今の。
俺をどうするつもりだ、この男は。
慣れない胸の高鳴りは、寝息を立てる絢也の前では滑稽すぎる。
葵はどうにか暴れ出す自分の心臓をなだめ、背中の絢也を起こさないように立ち上がると、絢也を背に抱えたまま彼の部屋に入り、そのままベッドに転がした。
「まったく…」
聞きたい事は色々あれど、今は仕方ない。「おやすみ」と呟けば、絢也の口元が微笑んだ気がした。
良い夢を見てるなら、まぁ良いか。
葵はそっと部屋を出ると、玄関の施錠を確認して、自室に戻った。
なんだか長い一日だった。
再び布団に入り、葵はキャロットを見上げる。その先で絢也の言葉を体温を思い出せば、葵は照れくさそうに頬を染め、頭からタオルケットを被るのだった。
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