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信じて欲しい
数日後、日勤で少し遅めの昼食を取っている時に、山根に会った。フードコートでぶっかけうどんを購入して休憩室で啜っていたところに、珈琲のカップ片手にやってきて対面に腰掛けたのだ。
「どうも」
バックヤードで挨拶以外の言葉を交わすのは二度目だなと思いながら、誠也は黙って会釈した。たまたま口の中にうどんがあったのだ。
それにしても頬杖を突いてまじまじと見られるなんてどういうことなんだろう。食べ難いことこの上ないんだけど。なんて思いながらも、視線には慣れているからそ知らぬふりを貫いて食べ続ける。
どうやら食べ終えるのを待っていたようで、誠也がどんぶりを両手で持ち上げてつゆを飲んでいるとようやく口を開いた。
「こないだは、申し訳なかった。大体のことは聞いていたんだけど、まさかあんなことになるなんて……それまでは、ごく普通にしていたのに」
生真面目に頭を下げて、本当にすまなさそうな顔をしているから、誠也も大田の時のような不快感は感じなかった。
「いえ、ちょっと込み入っているというか、多分大田さんはちゃんとは知らないですよ。だからそこからしか情報がないなら仕方ないです」
暴行と肝臓破裂の事実しか知らなければ、精神面の後遺症があるなんて思いもしないのだろう。あるとしても、同じように暴力を受けそうになることがなければ表面化しないと。
山根は物問いた気にしているが、こればかりは誠也の判断では簡単に教えることは出来ない。誠也と祐次という個人の付き合いではなく、職場の問題が絡んできてしまう。復帰したとして、その時に改めてふたり、もしくは家族を含めて判断しなければならないだろう。
「なんとなくだけど、察しはつきます」
山根がそう口にした時、背筋を伸ばして真っ直ぐに見つめられて、その意外さに誠也の方が戸惑った。
「重くないですか。木村さんは、それでいいんですか。今ならまだ、ケアを専門家と家族に任せて距離を置くことが出来るのに、どうしてわざわざ毎日通って背負おうとするんですか。罪悪感だけじゃ、すぐに疲れてしまいますよ」
素のままにぽかんとしてしまった誠也に、山根は苦笑する。
「僕がこんなことを言うなんて驚きましたか。確かに僕だってそれなりに市村のことは好きだし、大事ですよ。だけど、もしも同じ立場になったとして、同じようには出来ない。僕にだってもっと大事な人が居ますから、その程度ではこの先の人生を賭けられない」
じっと見つめられたまま、ああ逃げられないなと誠也は思った。
山根は山根なりに祐次のことを心配しているのだ。そして、この先ずっと誠也が同じように出来るのか心配しているのだろう。
今はまだ良い。けれど、もしも祐次の症状が軽快せず、依存が強いままに何年も過ぎてしまえば。縛られ続けて誠也の道も狭まるけれど、その時に荷物を放り出して逃げてしまった場合、祐次はどうなるのか。きっとそれこそを憂慮しているのだ。
そう思い至ると、誠也はふんわりと自然に笑み零していた。その表情には、山根すら見惚れてしまう引力があった。
「ありがとう、心配してくれて。もしも……俺が祐次を放り出すような事態になったら、その時は思い切り殴って罵倒してくれていい。だけど今、俺自身には、祐次以上に大切な存在なんて居ないんだ。それだけははっきり言える」
点けっぱなしのテレビの中では、ドラマ仕立ての愛憎劇が繰り広げられている。それを背後で耳にしながらも、抑えられた声で告げられた内容に、山根は言葉を失っていた。
どのように受け取られても、きっとこの青年は他言しないだろうと確信していた。
同期だ、同僚だ。そう言って軽口を叩き合っていたあの時から、きっと人間的には信頼できると悟っていた。
まさかこんな風に率直に尋ねて来るとまでは思わなかったけれど、今ここで誤魔化して逃げることは出来ないと思った。
「信じていいんですか」
「信じて欲しいです」
互いに真っ直ぐに見詰め合って、すぐ近くには誰も居ないけれど、もしも室内にいる他の誰かが二人を見ていたら、一体何を話しているのかと怪訝に思っただろう。休憩中にするようなものではない真剣な口調で表情で、息を殺して耳を澄ませたかも知れない。けれども幸いなことに、二人の声が聞こえる範囲には誰も居らず、また居たとしてもテレビの音にかき消されて、満足に聞こえなかっただろう。
ふうと息をついて、山根は静かに椅子を引いた。
「信じてみます」
立ち上がり、舞い落ちるように降って来た言葉には、そうさせてくれという願いが篭っていた。
それからまた数日後には、植田が非番の日に見舞ったらしい。勿論、祐次の同僚である水上も一緒だ。妹以外の女性ということで、鮎原も大変興味を示していたらしいが、祐次の応対でどちらにも一線を引いているのが解ったらしく、その翌日に顔を合わせた際にしみじみと見上げられてしまった。
「市村さん、本当に心を許しているのは木村さんだけのようですね」
誠也本人は嬉しいのだが、客観的に見ればそれは悪いことなのだと思う。
奇しくも、山根が指摘した通り、重すぎる感情なのだろう。息が詰まらないように、体調が回復するこれからが正念場なのだと考えた。
通常ならば、もう他の病院に回されてもおかしくない程度に祐次は回復している。
介助なしで、トイレに行くことが出来ること。食事が出来ること。意志の疎通が出来ること。それらの条件はクリアしている。ここまでくれば、家庭によっては自宅療養という場合も多く、リハビリセンターにだけ通うことも可能だ。
しかし、祐次の場合は、まず自宅であるアパートから通うのが困難であり、一人住まいなため食事などの家事をする者が居ない。自宅療養が出来るのは、あくまでもリハビリといえる軽めの運動以外は寝て過ごせることを示しているのだから。
また転院も、多くの場合は費用を考慮して行われると、誠也は知った。高度先進医療など、治療により費用は変わる。入院費も病院によりかなり違うのは当然だが、祐次の場合、ほぼ持ち出しはなしでここに留まり続けることが可能だ。
それに最大の懸念である後遺症が、まだなんとも判断がつかないらしい。脳のことは、どれだけ医学が発達しても、全てが明らかになっているわけではないのだから。それならば設備の整った専門科がある場所が良いだろう。
そんな様々な理由により、祐次はずっとその病院に留まっている。誠也も自宅から近いから助かっていると言えた。
最低でも、一人で日常生活が送れる程度に回復しなければ、退院にはならないだろうという見通しだった。
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