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―8月12日火曜日―  台風

「だけど、嬉しかった」 「え?……何て?」 風の音で大介の声が聞き取りにくく、直弥は背伸びをし身を乗り出す。 「…………から」 暴風に乱れる直弥の髪が、大介の長い指で梳かれた。 「え?」 「会社から出てきて、アンタ、いつもオレの事探してくれてたから」 直弥の耳元で囁いた大介の声は弾んでいて、冷たい風雨に晒された直弥の耳は赤く染まった。 「だから、見てるだけで帰れた」 直弥は何か言おうとしたけれど、上手く言葉が出てこない。 不安な面持ちでキョロキョロとしている姿を、遠くから見られていたのかと思うと恥ずかしい。 だけど、面と向かって社交辞令でなく人に ”嬉しい” と言われたのはいつぶりだろう。 一言一言ストレートに貫いてくる大介の言葉。 “探されて嬉しかった”と言う大介の言葉が、穿らず直弥も素直に嬉しいと思えている事が不思議だ。 「今日は会って喋りたかったんだ。当分会えないからな。明日から、休みなんだろ?」 「なんで、知ってるんだ?」 「会社に電話かけた」 大介の癖のある笑い声が風に飛ばされていく。 「ナオヤさん、実家帰んのか?それとも旅行とか?」 「あぁ、多分実家に帰る」 直弥の返答に大介はホッとした表情をみせた。 大介の薄茶けた髪に,精悍な横顔に雫が滴っている。 雨が頬を流れ落ちる様を、直弥はぼんやり眺めていた。 「早く、帰んなよ」 大介の声で我に返った。 「オレはバカだから風邪引かないけど、ナオヤさんデリケートそうだから引かれちゃ大変だ」 雨の染みたスーツの背を、追い風と共にポンと押される。 「じゃあ。休み中元気でな。気をつけて」 「あ、有り難う……」 「また休み明け、見に来るから」 「ダ、ダイスケ君!」 振り向き去ろうとする大介を、直弥は叫び呼び止めた。 「もし、来るんなら……もう、隠れて見なくて良いから! 俺の前に、顔出せよ!」 羞恥心だとか虚栄心だとかも、突風に飛ばされたのだろうか。大介につられてしまっているのか。 直弥は気の衒い無く、今正直でストレートな感情を叫んでいた。 身なりも雨風も気にせず、大介と過ごした時間を直弥は滑稽に感じる。 けれど、叫んだ返事の代わりに見せてくれた大介の満面の笑みが、直弥の心を晴らして去っていった。  

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