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指先の温もり

 祝日の午後、柏村の携帯電話が耳障りな電子音を響かせ着信を知らせた。発信元の電話番号と名前を確認し受話ボタンを押す。 「ねぇ柏村さん、明日デートしませんか?」  柏村に電話をかけてくる人間なんて限られている。家族か会社の人間、さもなければ恋人の黒瀬だ。  通話が繋がった途端、相手を確認する事もなく喋りだした黒瀬に、柏村の頬は知らず知らずのうちに緩んでしまっていた。 「デート? なにしたいの?」 「えーっと……軽く、食事とか」  デートの誘いはいつだって唐突なもので、この日も普段と変わらぬそれなのだ、と記憶の中のスケジュールを確認する。金曜日の今日は祝日で、土曜日日曜日と連なる三連休は暇を持て余していた。 「あー……駅前に新しく立ち飲み屋出来てたよな」  立ち飲み屋で食事というのもおかしな気がしたが、しようと思って出来ない事はないはずで、開店当初から気になっていた店だ。  しかし、柏村の提案は即座に却下される。 「そういうのじゃなくって! 柏村さん相変わらず鈍感ですよね」  鈍感、と言われても心当たりのない柏村は携帯電話を片手に首を傾げた。傾げたところで相手に伝わらない事に気付き声に出してみる。 「うん……?」 「俺、予約してあるんです」  瞼を閉じれば胸を張っている黒瀬が目に見えるようだ。 「予約?」  普段、二人でどこかへ出かける時に予約を要する店に出向く事はあまりない。黒瀬の狙いがわからず、柏村は更に疑問を重ねた。 「明日はクリスマスですよ」 「クリスマス」  黒瀬の言葉を復唱し、記憶の中のスケジュールを曜日だけでなく日付まで引っ張り出してみる。するとなるほど、うっかりしていたが今日は十二月の二十三日で、明日は二十四日のクリスマスイブだ。厳密に言えばクリスマスは明後日になるが細かな事にこだわるような性格ではなかった。 「駅前に特設クリスマスツリーあるの知ってます? さっき言ってた新しい立ち飲み屋の斜向かいなんですけど」  黒瀬の言うクリスマスツリーは十二月に入ったばかりの頃に設置されたもので、否が応でも街のクリスマスムードは高められている。 「知ってる」 「じゃあそこの前に五時で」  約束を取り付ける電話を終え、柏村は部屋の壁にあるカレンダーを見た。  クリスマスを含む三連休を忘れていたなんてどうかしている。そうは思ったが、ここ数年クリスマスには縁がなかったのだから仕方がない。  随分久しぶりに出来た恋人の顔を思い浮かべ、溢れそうになる笑みを噛み殺した。  頬に当たる冷たさを感じて、空を見上げた。  少しグレーの混じる青からは、白くふわふわとした粒が舞い落ち、そしてまた頬を濡らす。冷えた指先に吐息を吹きかけ擦り合わせた。  背後にある、身長の二倍の大きさはあるクリスマスツリーは煌びやかに装飾されており、どこからともなくクリスマスソングが響いている。柏村の視界の隅には行きたかった立ち飲み屋が暖簾をはためかせていた。 「いつ来るんだろう」  思わず声に出してしまった言葉を誰かに聞かれてしまったかもしれない、と思い慌てて辺りを見回してみる。しかし、周囲の誰しもが降り注ぎ始めた雪を指差し連れ立った仲間たちと声をあげてはしゃいでおり、柏村を気にする人間など一人もいなかった。  空は瞬きをする度に闇を深め、それに抗うように街を彩るイルミネーションたちが艶やかに光を飾った。  ため息は空気を白く濁らせやがて消える。  約束をした時間は午後五時で、待ちきれずその二十分前からここにいる事は覚えている。待ち合わせ相手を待たせてはいけない、という思いもあったが、一分でも一秒でも早く会いたかった。  しかし、そんな事を黒瀬に言ってやるような気は毛頭ない。数歳差とは言え年下の恋人に張っておきたい見栄だってあるのだ。  それにしてももう随分と待っているような気がして、約束の五時まであと何分あるのだろうか、と腕に嵌めた時計を確認しかけたところで――。 「っ……!?」  周囲からわぁっと歓声が巻き起こり慌てて顔を起こした。眩い光に包まれ、その光の元は背後なのだと気付き振り返る。クリスマスツリーを彩るイルミネーションが点灯されていた。  色とりどりの光たちは柏村の瞳を宝石のように輝かせる。 「わぁ……」  一人きりだというのに感嘆の声をあげてしまい下唇を噛んだ。  一体、黒瀬は今頃どこにいるのだろうか。二人一組の人混みの中、柏村だけが一人きりで焦燥さえも覚える。 「柏村さん!」  電話をしようかと携帯電話の入ったコートのポケットを探りかけたところで聞き覚えのある声が耳に入った。声のした方向には見慣れた男の顔がある。  もう用はなくなってしまったものの探ったついでに取り出し、時間を確認してみれば五時を二分回ったところだった。  これくらいの遅刻で機嫌を損ねる柏村ではないが、綻びそうになる口元を誤魔化すように両腕を組み、不愛想に黒瀬を睨みあげる。 「遅い」 「すみません! 道、すごく混んでて……。待たせちゃいました……?」  頭をぺこりと下げた黒瀬は眉をハの字にしながらアスファルトを蹴って人混みをかき分け、柏村の目の前で立ち止まった。 「すごく待っ……べ、別に俺も今来たところだけど……」  二十分も待った! 言いかけてそもそも約束の時間は五時ぴったりだった事を思い出す。早めにやって来たのはあくまで柏村の勝手で、待つ事も覚悟の上だったはずだ。  言いかけた台詞はなんだったのかと探るような黒瀬の視線に居心地の悪さを感じ、組んだ腕を解いて寒さにかじかんだ指先を揉む。 「俺が待たせちゃったからですよね、すみません」 「わっ……!」  重ねられた柏村の手の上から黒瀬の手が覆いかぶさり、恋人の体温を直に感じる。 「柏村さん指冷たくなってる」  心臓が一足飛ばしで高鳴ってしまう。寒さを感じていたはずの身体は何故か火照っていた。伝わる黒瀬の体温が重なり、合わさり、そして増幅されるかのようだ。 「く、黒瀬が待たせたからな」  赤くなった顔を見られるのではないかとやや俯く。黒瀬の顔を直視する事が出来ずに視線を彷徨わせた。 「お詫びに俺が温めてあげますね!」  そう言ってにこやかに笑んだ黒瀬だったが、柏村はここは公衆の面前で、数多の人がいるという事を思い出す。 「いいよ恥ずかしい」  温もりから逃れようとしてみるが、黒瀬の力は思いのほか強く逃れる事は出来なかった。 「大丈夫ですよ、みんなツリーに夢中で俺たちのことなんか見てませんから」  黒瀬の言葉に辺りを見回してみれば、皆思い思いの時を過ごしているらしく、自分たち以外の事には興味がないらしい。  見られていないなら抵抗する必要もない気がして、黒瀬に身を任せてみる。身体は火照っていたが指先はまだ冷たく、包まれる手のひらの体温が心地良い。 「暖かい」 「柏村さんって素直ですよね」  素直な感想を述べてみると、黒瀬はどこか嬉しそうに肩を竦めてみせた。 「それにしてもクリスマスツリー大きいし綺麗ですね。俺、イルミネーションあるの知らなかったです」  黒瀬は柏村の手を揉み続けながら、自身が待ち合わせに指定したクリスマスツリーを仰ぎ見る。  二人が落ち合ってからも闇は進み、もう夜と言っても差支えのない程には暗かった。クリスマスツリーの電飾は相対的に輝きを増し、黒瀬の横顔を眩く照らす。 「さっき点灯されたところ」  その横顔に見惚れつつ点灯された瞬間の歓声を思い出し笑みを描いた。 「点灯の瞬間見てたんですか?」 「いや、後ろ向いてて見てなかった」 「もうっ、何してるんですか!」 「点灯時間知らなかったんだもん」  叱るような黒瀬の口調に、年甲斐もなく唇を尖らせ言い返してみる。成人式をもう何年も前に済ませた大人の男がするような事ではないそれに、二人は同時に笑い出し寒さを凌ぐために重ねたはずの指先を絡め合った。  繋いだ手から伝わる体温が愛おしくて心の奥から暖かいものがこみ上げてくる。  一通り笑い終わった黒瀬は、再びクリスマスツリーを見詰め呟いた。 「綺麗、ですね」  電飾たちが視界を彩り日常の続きにある非日常を創り出している。そして、隣には黒瀬がいる。 「うん」  クリスマスとはいいものだ、と改めて感じながら、柏村も首肯した。 「柏村さんみたい」 「なにが?」  よくわからない黒瀬の言葉に首を傾げてみる。 「クリスマスツリーが」 「は?」  けれど、続けられた黒瀬の言葉は柏村の混乱をより深めさせるだけだった。 「そんな怖い顔しないでください」  偶に黒瀬は柏村にはよくわからない話を始める事がある。そんな時は意味を問うてみるのだが黒瀬は言葉を濁すばかりで明確な答えを返さない。  眉間に皺を寄せて言葉の意味を考えていると、黒瀬はもういい、という風に咳払いをし話を切り替える。 「来年は二人で点灯の瞬間、見れたらいいですね」  二人の関係はまだ始まったばかりだ。  クリスマスを過ごすのはこれが初めてで、これからたくさんの時間を共に過ごすつもりだ。 「……うん」  来年も、その先も、ずっとずっと、何度でも過ごせるはずのクリスマスを願い、誰にともなく微笑んでみせた。 「ご飯、食べに行きましょうか」  黒瀬に促され、時間があまりない事に気付く。店には予約をいれているはずで、待ち合わせの時間はそれに合わせたものだ。  絡めた指を引っ張られるが、踏み出しかけた黒瀬を押しとどめるようにその場に踏ん張る。 「黒瀬っ……移動するんなら手、放して」  クリスマスツリーに皆が気を取られているこの場所だけならともかく、手を繋いで街中を歩くのはいくらなんでも憚られる。 「えークリスマスだしいいじゃないですか。それにみんな手繋いでますよ?」  それは男女の二人組の事であろう。柏村はぶんぶんと首を左右に振り黒瀬の誘惑を拒否してみせた。  不服そうではあったが男同士で手を繋いで歩く事への柏村の抵抗も理解したのか、黒瀬は大人しく柏村の手を解放する。 「仕方ないか……」  これならば踏み出せる、と柏村が気を抜いたその瞬間、予約した店とは逆方向の、柏村の方へと一歩を進めた黒瀬との距離が縮まる。  僅かに腰を落とした黒瀬の顔が近付き、鼻先が触れそうだと理解できても動けずにいる間に唇が重なる。  周囲の音が全て消える。温かく柔らかい、少しだけ乾燥した唇はちゅっと音を立ててすぐに離れ、そして黒瀬はにんまりと悪戯っ子の少年のように目を細めて笑った。 「好きですよ、柏村さん」  キスをされたのだ、と気付いた時には全て終わっていて、ない混ぜになった羞恥と怒りが柏村の言葉を阻む。 「なっ……」  何故、今ここでそんな事をするのか、誰かに見られたらどうするのか――そんな事を言おうとしたはずだったのに何から言えばいいのかも判断する事ができず餌を求めた金魚のように口をぱくぱくと開閉させた。 「さ、予約の時間に遅れちゃいますから急ぎましょう」  それなのに、黒瀬は慌てる柏村を気にする様子もなく店の方へ歩き始めていた。首だけで柏村を振り返りにこやかに呼ぶ。  年下の恋人に振り回されている。  そう理解しながら、黒瀬の隣は心地良いのだから離れる事はできない。  それに幸いにして、先程黒瀬が言った通り周囲の皆は自身の事に夢中だ。 「……うん」  頷いて、黒瀬の数歩後を追う。手を伸ばせばまた指を絡められる距離だった。 「俺も好きだよ」  そう呟いた声は黒瀬に届いたのかどうか、柏村にはわからなかった。どちらにせよこれから伝えるチャンスはたくさんある言葉なのだから、今は届いてもいなくても問題ない。  二人分の足音は共にクリスマスイブの夜の街へと消えていく。

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