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『IS』――雪虫――

 なにを調べてるんだ。  昼飯の菓子パンを食するのもそこそこにスマートフォンの画面を見つめている俺へ、江森が話しかけてくる。前方へ視線を移すと、彼は今まさに二つ目のパンの袋を開封しようとしているところだった。左右の手で袋の端をつかんだまま制止している格好は、なんだか可笑しい。  ふふっと漏らした声がこもっていた。急に気温が下がったせいか、ここ数日、ずっと鼻が詰まっている。まだ冬が始まったばかりだというのに、もう風邪をひきかけてしまっているらしい。  「雪虫のこと。こないだ、江森の話を聞いてからずっと気になっててさ。詳しい情報をネットで見てたところ」  「へぇ。俺の話、そんなに佐倉の印象に残ったのか。それは嬉しいな」  喜ぶ理由がいまいち分からない。印象に残ったのは雪虫のことで、江森の話は特に……と、意地の悪い態度をとってみようかと思いかけたが、やめておく。小さい子のように唇をとがらせるのは目に見えているからだ。  「で、何か分かったか?」  「色々と書かれてるけど……。アブラムシ科の虫で、トドノネオオワタムシっていうのが正式な名前らしい。飛ぶ力が弱くて風になびく姿が雪に見えるから雪虫って呼ばれてるんだって。俳句では冬の季語として使われるとか。冬の訪れを告げる虫って言われてて風物詩でもあるみたいだけど、初雪が近くなると見かけるようになるから、なのかな」  「俺の実家でも、十月の中頃からよく見かけてたな。その二週間後くらいには初雪が降ってたっけ。虫の身体についてる、あの……白くてふわふわしたやつって、なんなんだろうな」  「えっと……、分泌物で(ろう)に近い物質……だって。分かる?」  「うん、分かんねぇ」    分からないのに何故うなずいたのだろう。短く返答を済ませ二つ目のパンを咀嚼する江森を見ながら、ため息を吐く。  食べかけのクリームパンを一口かじり、俺は再びスマホの画面に視線を落とした。  「雪虫の寿命って、短いんだな。一週間くらいしか生きられないんだって。熱に弱くて、人間の体温に触れただけでも弱る……、繊細な生き物なんだな」  「え、そうなの? 知らなかった。実家で見かけた時は捕まえようと奮闘してたけど、触れもしなかったなぁ」  「その雪虫たち、必死で逃げてたんだろうな。短い一生を人間に捕まって終えるなんて、あまりにも浮かばれないよ」  雪虫の立場で考えてみると、たまらない気持ちになる。一週間なんて、人間にしてみればあっという間に過ぎ去るものだけれど、短命な虫たちにとっては貴重な時間に違いない。  風に流されながらも力強く羽ばたき、子孫を残そうと懸命に生きる。いじらしくて、少しだけ切ない一生だ。  「……佐倉って、雪虫にも優しいんだな」  穏やかな声がした。  顔を上げると、江森がこちらを見つめていた。垂れ気味で、人懐こい子犬みたいな瞳が細められ、蛍光灯の明かりを受けて淡く光り輝いている。  俺は江森に見つめられると、言動がぎこちなくなってしまう。時々、胸が締めつけられるように苦しくなって、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。よく知らないけれど、きっとこういうのが〝恋煩い〟の症状なのだろう。  「にも、ってなに……。俺は別に、親切でもないし優しい性格でもないよ」  「色々と自覚ないよな、佐倉って。自分には無頓着っていうかさ。美人だし物腰やわらかいし、女子の中に隠れファンだって持ってるのに。女に興味があれば、得したと思うんだけどな」  「余計なお世話。そういう江森こそ、大損してると思うけど」  「損してるって……、俺が? それはない。だって俺、今すげぇ幸せだもん」  真正面から太陽のような笑顔を向けられ、俺は「うぐっ」と喉を詰まらせた。咀嚼している最中だったら、思いきりむせていただろう。  頬が熱を持つ。  好きな人から笑いかけられた時、自然と笑い返すものだと思っていたけれど、何故だか今は悔しかった。口元にコロッケパンの食べかすがついているのに、江森の笑顔に秘められた力は少しも衰えることがない。子供っぽさに拍車がかかっている顔にも関わらず、思わず赤面してしまった自分が悔しくて仕方がない。  「……よ、よかったな。幸せで」  「佐倉は幸せじゃないのか?」  「うっ……、よく分かんないけど、多分……幸せ?」  「幸せついでに、同棲でもしちゃいますかー」  「却下」  「即答だな。なに、俺と一緒に住むのそんなに不安?」  「現状じゃ、できっこないだろ」  「あ、嫌なわけじゃないんだ。ならよかった」  「なに一人でほっとしてんだよ。別に俺は、江森と同棲したいわけじゃ……」  「なんの話?」  背後から急に話しかけられ、俺は思わず身をすくませた。  勢いよく振り向いた先には、司書の小木さんが立っていた。いつからそこにいたのだろう。彼女は今の今まで、読書をしていたはずだ。本の虫と評するに値するほど読書が好きで、なにかを読んでいる途中で話しかけても熱中していてなかなか気づいてくれないことも珍しくない。彼女曰く、読書に集中していると周りの音声が聞こえなくなるのだという。  なるべく声量は抑えて会話していたつもりだったが、騒がしかったのだろうか。  「なんだか、同棲がどうとか言っていたみたいだけど」  「い、いやっ、そんな話、してないよな?!」  思わずあわててしまう自分が情けない。とりあえず俺は、江森に同意を求めることにした。  「ああ。同棲するなら部屋はどのくらいの広さがいいのかなーって、話してたとこなんすよ」  江森に助け船を要求したのが間違いだった。  全身に緊張が走り、筋肉が強張る。おかしな誤解を招く前に、彼を止めなければ。そう思うのに、半開きになったままの口が動かない。  「ほら、こないだテレビで大物女優と一般男性の熱愛報道をやってたじゃないすか。で、いずれは一緒に住むことになるんだろうけど、二人暮らしするならどんな部屋で暮らすのがベストなのかって佐倉と色々話してたんですよ」  「ああ、あの話ね。まだ結婚もしてないのに、男性ファンの間では既にロスが始まってて大変そうよね。そっか。あなたたちも、彼女のファンってわけね」  そうそう、と江森が笑顔でうなずいてみせる。  「あ、佐倉くん。私ちょっと職員室に用があるの。悪いけど、一年の委員の子たちのこと頼んでもいいかな。なにか困ってたら助けてあげて」  「はい、分かりました」  「お願いね」  清楚な細面に笑みをのせ、俺に断りを入れると小木さんは図書室から出て行った。  安堵し、大きく息を吐き出しながらうなだれる。友人同士の会話だとはとても思えないような内容を聞かれていて、勘ぐられたらどうしようかと思った。  「……よく咄嗟にあんな嘘つけたな」  しれっとした態度でコロッケパンを完食している江森へ言う。  「嘘っていうか、誤魔化しだろ。俺があの女優のファンなのは本当だし」  「え、そうなのか」  「演技上手いし、なんと言っても美人だよな」  「…………」  やっぱり、興味を持つなら女性のことだ。男ならばそれが当然のはず。なのに、何処となく残念な気持ちになるのはどうしてだろう。  スマホを机に置き、昼飯を食べることに専念しようとする。  「美人と言えば、佐倉もだけど」  やっと一つ目のパンを食べ終え、ストローでコーヒー牛乳を飲んでいた時。妙に静かで落ち着いた声が正面から聞こえた。  江森は頬杖をついて、こちらをじっと見ていた。  目を合わせたままではまた動けなくなりそうで、俺は机上に視線を移す。  「こうやって近くで見ると、ほんときれいな顔してるよな。うつむいてる時とか、すげぇきれい」  「は。なに人の顔じろじろ見てんの」  「だって、あまりにもきれいだからさ。ずっと見てても飽きないな、これは」  「ひ、人の顔なんて、見飽きるに決まってる」  「赤くなった。佐倉って色白だから、顔色が分かりやすいよな。耳まで真っ赤」  「うるせぇっ。もうこっち見んな、バカ」  鼓動が騒がしい。せめて江森の目から逃れようと、椅子の上で身体を回転させて横を向く。見るなと言ったのに、それからもしばらく江森の視線を横顔に感じた。

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