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『ME』――回想――

 俺が初めてあいつを認識したのは、二年生に進級して二か月が経つ頃だった。  確か梅雨時期で、その日も雨が降っていたと思う。本来、北海道に梅雨はないはずだが、六月の終わりになると決まって雨の日が続く。じめじめとした天気は好きじゃない。なにより、外で野球の練習ができないから、俺は物心ついた時分から雨の日が嫌いだった。  「あんたって、どうしてそう落ち着きがないのかしら」  彼女と廊下で立ち話をしていたら、いきなりそんなことを言われた。意味が分からず、俺は薄くメイクが施された彼女の顔をじっと覗き込んだ。  「見た目は男らしいのに、中身はまるで小さな子供みたい。雪の中を駆けまわる姿なんて、子犬とそっくりだったし」  雪を話題にしていたから、冬休みの終わりに行ったスキーの話でもしていたんだろう。彼女と、あと何人か友達もつれて山にあるスキー場まで遊びに行ったのだ。とても楽しかったはずなのに、今となっては当時の光景や感情をよく思い出せない。  とにかく、何か月も前の話を持ち出してまで、彼女は俺の落ち着きのなさを指摘してきたのだった。  当然、急にそんなことを言われた俺はなにか反論した。  だけど返り討ちにあった。女はどうしてか口の達者なやつが多い。俺がつき合っていた彼女は、おしゃべり好きで演劇部に所属していたから、そこいらの女よりよっぽど活舌がよくてボキャブラリーも豊富だった。  「あのC組の佐倉って男子を見習いなよ。私、ああいうのが男子高校生の鑑《かがみ》だと思うのよね」  廊下の先を指さし、彼女が言った。  目を向けた先に、一人の男子生徒の背中があった。黒髪から覗く首筋が妙に白く、女みたいだと思った。  小脇に本を抱えたそいつは、俺たちがいるのとは反対の方向へ歩いて行く。  「……誰だよ、あれ」  「だからっ、C組の佐倉くんだってば。彼、積極的に周りとは関わろうとしないタイプだけど、女子からの評判はいいのよ。話しかけても素っ気ないらしいけど、そういう控えめなところが却って女子の好感度をあげてるわ。密かに、だけどね」  「ふーん。お前ら女子って、ああいう大人しいのがいいのか」  「みんなじゃないわよ。私はうるさいくらいに明るい江森のことだって好きだし。でも彼、何処となく影があるっていうか、ミステリアスだから。女の子はそういうのに惹かれるのよ」  「ミステリアスなぁ……」  別クラスの男子のことを、よくもまあここまで詳しく知っているものだ。俺は佐倉という名前の男子より、情報通な女どもに感心した。  その日の放課後。また佐倉を見かけた。  予想していた通りに部活動がなくなって帰ろうとしていたら、出入り口に佐倉が立っていた。肩に通学カバンを掛け、手にはビニール傘を持っている。  彼は一人で外の様子を眺めていた。    なにが楽しいんだろう。  気がつけば、下駄箱から取り出した靴を履くのも忘れて、後ろ姿を見つめていた。  同学年の男にしては、華奢な身体つきをしている。背はそれほど低くもないけれど、線が細いから後ろ姿はやっぱり女みたいだ。色も白いから、少し髪を伸ばして化粧でもすれば誰も男だと気がつかないかもしれない。  いや。なにを考えてるんだ、俺は。  馬鹿げた想像をしてしまった。自分自身に呆れながら、靴を履く。足の裏に硬い感触。見ると、中に小石が入っていた。朝、登校している最中にでも転がり込んだのだろう。  せっかちな俺は、石が入っている靴を逆さまに持ったまま片方の足で移動した。  靴を履き直した位置は、ちょうど佐倉が突っ立っている真横だった。何気なく、相手の顔が目に留まる。  伏せられた瞳。黒くて長いまつげが風に吹かれて微かに揺れている。  文句なしの美形だ。女子たちが関心を持つのにもうなずける。じっと眺めなくとも分かるほどに、佐倉というやつは整った顔立ちをしていた。これで社交的なタイプじゃないなんて、なんだかもったいない。  男相手に見惚れたのは、これが初めてだった。  「おー、江森。今帰り?」  声をかけてきたのは、隣りのクラスの友達だった。サッカー部に所属しているやつだけど野球も好きらしく、俺たち野球部の試合にも足を運んでくれる気のいい男だ。うなずくと「駅まで一緒に行こうぜ」と俺の隣りまで来て傘を広げた。  「おう。あ、部活なくてひまだし、バッティングセンター行かね?」  「行く! つっても、あんまし金ないからほとんど見るだけになりそうだけど」  「じゃあ、今日のお前は俺のバッティング見て褒め称える係な」  苦笑いを浮かべて言い返してくる友達の声を聞きながら、俺も自分の傘を広げた。  佐倉は、俺たちから少し離れた位置にまだ立っていた。傘があるのに、どうして帰ろうとしないのだろう。  「なにしてんの江森。早く行こうぜ」  友達はもう外にいた。焦れた様子で俺を振り返っている。  地面に向けていたままだった傘を頭上に差して、一歩、踏み出す。駅へ着く頃には、佐倉という男子生徒のことなんてすっかり忘れていたし、その後も思い出さなかった。  翌月、静まり返った図書室で彼と再会するまでは。

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