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――元日の朝、ベッドの中――
身近に人の温もりを感じた。
手を伸ばした先にやわらかい感触がある。指先でそっと触れてみたら、微かに身じろぎをした。起こしてしまっただろうか。それとも、たった今俺が目を覚ます前からすでに起きていたか。
顔を覗き込み様子を見る。まぶたは、まだ堅く閉ざされていた。
美人は寝顔もきれいだ。
眠っている恋人の頭を、俺は慎重な手つきで撫でた。乱暴に扱うとすぐに壊れてしまいそうな儚さは、出逢った時からずっと変わらず彼の美貌の引き立て役を担っている。
「……んん」
眠っている恋人の身体を後ろから抱きしめる。すぐに、くぐもった声が聞こえた。小さくても、抜群の色っぽさがある声。
艶やかな髪に顔を近づけると、ほのかにシャンプーの香りがする。
いつ見てもいい髪質だ。うねり一つない、まっすぐな黒髪。俺は実家の祖母が大切にしていた日本人形を思い出した。やっぱり癖一つない黒髪で、白い肌をした人形だった。姉貴は「きれいなお人形さん」と褒めていたけれど、興味がなかった俺は人形をただの家財道具の一部としてしか見ていなかった。
控えめな美しさ、そして何処か無機質なところは佐倉と少し似ている。
どちらにより惹かれるかなんて、今の俺には考えるまでもないが。
「……起きてるか? なあ」
ううん。と、「はい」か「いいえ」か分からない答えが返ってくる。声が眠たそうだ。ところで今は何時なのか、半身を起こして佐倉の枕元に置いてある腕時計を見てみる。八と四と二が、デジタルの数字で表示されているのがかろうじて見えた。八時四十二分らしい。
登校日であれば遅刻は確定の時間。だが今は冬休み中であり、しかも今日は一月一日――元日だ。佐倉のアルバイト先は四日まで休業、そして俺も三が日は部活が休み。だから急いで起きる必要はない。
なのに、一足先に目覚めてしまった俺は、もう少し眠っていたい様子の恋人へちょっかいを出さずにはいられなかった。
「朝だぞ。まだ寝るの?」
「……んう」
「起きて朝飯、食おうぜ」
「……」
「おーい、起きろってば」
声をかけるほどに、返事がなくなっていく。
無視を決め込んでいるのか。また眠ってしまったのか。どちらにしろ、俺にとっては退屈な展開だ。
昨夜は隣りの叔母さんの部屋でおせち料理とオードブルと寿司、という豪勢な食事をごちそうになって、年が明ける瞬間を見届けてから自室――この部屋に移動して、それからは年始のバラエティー番組を二人で見まくって……、気がついたら三時を過ぎていた。隣りで佐倉が舟を漕がなかったら、さらに遅くまで起きていたかもしれない。
眠いのも当然だ。休みなのだから、いつまで寝ていても構わない。……が、やっぱり起きて欲しい。
なにか、一気に目が覚めるようないい方法はないものか。
ふと、頭の中に絵が浮かんだ。確かあれは、いとこの美郷が読んでいた少女マンガのワンシーンで――。
部屋の中が薄暗いせいか、青白く見える佐倉の耳。先の方を唇でくわえてみる。
「……!?」
声にならない声、というものを俺は初めて聞いた。というか見た。佐倉はビクッと首をすくめて、俺の腕の中でしばし暴れた。すねの辺りを蹴飛ばされて痛いのに、痛みよりも笑いの方がよっぽど勝った。
「おはよう。目ぇ、覚めた?」
「な、なんっ。耳、なにして……」
こんな意味不明の呟きを繰り返されたら、もう笑うしかない。
黒髪に顔をうずめて笑っていると、やがて「なにが、目ぇ覚めた? だよ」と剣呑な声。状況を把握するまでにかかった時間、およそ九秒。いつもより頭の回転が鈍いのは起きて間もないせいだろう。
「ごめん。伊織があまりにも気持ちよさそうに寝てたから、いたずらしたくなってさ」
「は。なにその理由。気持ちよさそうに寝てるやつを無理やり、……しかもこんな起こし方で起こすなんて、思いやりの欠片もないな」
「悪かったって。お詫びに、後で肩揉んでやるから」
「別に凝ってないから、いらない」
傍目には冷たくあしらっているように映るだろう。けど、これが佐倉の優しさだ。侘びなんて無用、許してやる。彼のツンと澄ました横顔にはそう書いてある。
「っていうか……、なんで俺は抱きしめられてるの」
「んー。なんとなく? 寒そうだったし」
「別に寒くないんだけど」
「そうか」
言い訳が通用しなくてもなお、俺の腕は佐倉を抱きしめたままだった。
「離してよ」腕の中で窮屈そうな声がする。
「ずっとこっちばかり向いて寝てたのか、身体が痛い」
望み通りにしてやると、華奢な身体がくるりと寝返る。狭い場所だとちゃんと心得ているのか、動きは小さかった。小柄だと小回りが利くから便利だ。
佐倉の寝返りでずり落ちた布団を引っ張り上げてから、背中に手をまわす。しつこい、とでも言いたげに黒い瞳がこちらを見上げた。よだれの跡すらないけれど、表情はまだ何処かおぼろげだ。
知らぬ間に俺は含み笑いをしていた。
「……なんだよ。なにがおかしいの」
「いやな……、伊織の寝起きの顔、初めて見たなって思って。こないだ一緒に寝た時は、俺の方が起きるの遅くて残念ながら見られなかったんだけど」
「見られなくて残念がるほどのものじゃないだろ……。というか、俺は……見られたくなかった」
腕の中で佐倉が目を泳がせている。恥ずかしがっているようだ。
「今さらなんだよー。お互いに、すべてさらけ出した仲じゃないか。なのにまだ照れるの?」
「変な言い方するなよ」
「本当のことじゃん。まあ、昨日の夜はそういうことしなかったけど」
「一部を強調するのやめろ。しかも朝っぱらからそんな話……」
「エロいこと想像した?」
「してない。お前じゃあるまいし」
「いや、朝からエロい想像するのは俺だけじゃないだろ。男ならして当然」
俺はしたことない、と佐倉がため息混じりに呟いた。目を閉じて、今にも二度寝を始めてしまいそうだ。そうはさせない。背中に軽く触れていた手を下に滑らせ、脇腹をくすぐってみる。
またビクッと華奢な身体が震えた。
「や、やめっ、やめろ……! 小学生かお前は!」
「一応、高校生にまで成長したはずだけど」
「……誤魔化してるんじゃないの、歳」
「こんなにデカい小学生がいるかよ。お前と同い年の高二で間違いない」
「身体は、な。早く精神年齢も見た目と同い年になって欲しいもんだよ」
「でも、伊織は俺のこんなところも好き……、だろ?」
後ろ髪を撫でながら問いかける。指通りがよくて、すぐに指の合間から抜けていってしまう。すくい上げた砂をわざと両手の合間から落として遊ぶように、黒髪を指の間に絡めて先端でするりと逃がしてはまた最初から……を何度も繰り返した。
撫でるごとに想いが募る。返答があってもなくても、佐倉に対する俺の気持ちは変わらない。
「そりゃあ……、好き……だけど」
「ん? だけど、が付くのか」
「……好き、だよ。江森の、正人のぜんぶが……好き」
手の力が、抜けた。
一瞬。全身に電気が走ったみたいな、変な衝撃があった。背筋がくすぐったくなったかと思うと、しびれはやがて脳にまで行き渡る。この感覚は、なんだろう。
前にもこんなことがあったような。あれはいつだったっけ。
そうだ。確か、出逢って間もない同い年の男からキスされて、険悪な雰囲気で別れた後もその時のことが忘れられなくて。彼はどうして俺にあんなことをしたのか、考えている内に何故だかそいつにまた逢いたくてたまらなくなっている自分がいて。それが恋かもしれないと気がついて……。
相手への恋愛感情を自覚した瞬間だ。
ふいに見かけた笑顔を思い出すのと同時に、違和感が全身を駆け巡った。言葉で例えるなら、身体の中を電気が通り抜けた……と、やっぱりこんな表現の仕方を俺はするだろう。感電した経験なんて、ないけど。
ああ。そうなんだ。今さら、改めて自覚するのもおかしいけれど、俺は本当に。
心から。
「うん。俺も、伊織のぜんぶが好き。大好き」
何度目か分からない愛の告白をしながら佐倉を抱きしめる。強く、けれど痛みを感じないように優しく。佐倉は、今度は暴れることもなく身を委ねてくれた。背中に腕をまわされると、このまま死んでもいいなぁ……なんて冗談半分に思う。
温かいせいか、それともあまりにも幸せなせいか。うつらうつらしてきた。
「なんか……、俺まで眠くなってきた。どうしよ」
「もう少し寝ていようよ。今日は予定もないんだし」
「やだ。眠いけど、起きて伊織といちゃいちゃしたい。……あっ、いっそこのままベッドの中でいちゃいちゃしてもいいけどな、俺は」
「起きる」
ベッドの中で、という言葉に反応し、佐倉が身を起こした。こうなるだろうと予想した通りの行動だったが、少し残念な気持ちになる。さっさとベッドから降りて隣室へ行ってしまう背中を引き戻したいくらいだ。
「なぁ。やっぱり俺、もうちょっと寝ててもいいかなーって思うんだけど」
「あ、そう。じゃあ正人は寝てろよ。俺は朝飯食うから。お雑煮、お前の分までしっかり完食してあげる」
「一人で寝るんじゃ意味ないんだよっ。伊織も一緒に、」
「絶対、いやだ」
「じ、じゃあ! 後で昼寝しようぜ! 朝飯食ったら初詣に行って、昼飯食ったら昼寝する。よし、今日の予定はコレにしよう!」
「ええ、初詣? ……面倒くさい」
外、雪降ってるよ。気だるそうな声に窓の外を見れば、大粒の雪が大量に降っていた。俺の予定は、立てた十秒後に狂い始める。
まあ、どんな一日になろうが、好きなやつと一緒にいられるだけで充分に幸せなんだけど。
「お餅、何個入れる?」
雑煮が入った片手鍋をコンロの火にかけている恋人に向かってピースサインをしてみせる。まるで新婚生活みたいだ。喫茶店で見たエプロン姿を重ね合わせてにやけていたら。
「鍋見てるから、先に顔洗ってきていいよ」
「了解。未来のお嫁さん兼ダンナさま」
洗面所へ辿り着く寸前、ガシャンという大きな音が聞こえた。後退して「大丈夫か」と声をかける。
「ご、ごめん。なんでもない」
ちらりと目に入った耳が、先の方まで赤くなっていた。
ずいぶんと照れ屋な恋人を持ったものだ。苦笑いしながら、蛇口をひねる。手ですくった水があまりにも冷たくて、俺は元日の朝っぱらから素っ頓狂な声を上げる羽目になった。
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