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第7話

 どうやって城を出たのかよく覚えていない。最後の出口の段差のところで無様に躓いて足を捻ったような気もするが、どうでもよかった。  ――すっごい笑顔だったな。  彼女は知らないのだ。その笑顔で、酷く傷つく人間もいると。しょうがない。そういう世代だ。しょうがない、とくり返す頬を水滴が濡らした。  雨だ。  朝からどんよりと立ち込めていた雨雲が、いよいよ支えきれなくなって抱えていたそれを吐き出した、というように、雨はぽつ、ぽつと埃に汚れたアスファルトを穿ち始めていた。足に力は入らない。今でも奈落の上にいるような気がするのに、椿はずんずんと歩いた。  足を止めたら最後、哀しみといらだちが重くのしかかってきてしまいそうだった。  ここで生きていく以上、慣れなければ。こんなことには。  昼の熱気と埃が雨のせいで舞い上がり、直接肺に張り付くような気がした。息苦しい。 ただ生きてるだけでこんなに苦しいのは、俺だけなのか。 「椿さん」  ずんずんと歩く背中にかけられる声には当然気がついていたが、やはり椿は足を止めることはなかった。頑なに心が閉じていくのに比例するように、雨脚は強くなっていく。 「椿さん、雨ですよ。濡れちゃいますよ」  そんなことはわかってる。    ワイシャツの生地が雨を含んで、重たく、冷たくなっていく。雨が降りそうなのはわかっていたのに、散々そんな話もしたのに、傘を持って出てはいなかった。船着き場は役所からすぐだから。  この田舎を憎いと思いながら、慣れ合ってもいる。そのくせあんなふうに「善意の呪い」をぶつけられると、こんなにも傷ついてしまう。  なんて滑稽な。 「――椿さん!」  熱い、と感じるほど強く腕を掴まれた。 「なにやってるんですか、信号! 赤赤!」 「あ……」  なにもかもが城中心に整えられているということは、交通量の多い幹線道路も城の近くを走っているということだ。引き留められたすぐ目の前を、スピードを出したセダン車が横切っていく。  ぼんやりそれを見送って、信号が青になるのを確かめると、椿は晴臣の腕を乱暴に払った。 「椿さん」 「――職場に戻る」  いまさら晴臣の前でなにかを取り繕うのもひどく億劫で、ぶっきらぼうに告げる。晴臣はめげずに後を追ってきた。 「そんな顔で?」 「――、」  って、どんな顔だ。自分はそんなひどい顔を?   反射で顔を覆うと、その腕を再び掴まれた。 「見て、抹茶と和菓子ですって」  信号を渡り切ったところにある歴史資料館ののぼりを、晴臣は呑気な調子で読み上げる。口調とは裏腹に、掴んだ手は一向にゆるむ気配がない。雨に濡れたせいで、撫でつけた前髪が一筋額に落ちかかっていた。 「俺、ここまだ入ったことなかったな。ちょうどいいから一休みしていきましょう。ね?」  最終的には「こんなところででかい男ふたりがもめてたら人目引きますよ」と半ば脅されるようにして、椿は資料館に足を踏み入れた。     漆喰と黒い下見板張りの塀で囲まれたそこは、何代目かの家老の屋敷だったという場所で、城より詳しい梓の歴代城主の資料が展示されるほかに、茶室なども移築されている。  日本庭園に面した広間を和カフェとして提供していて、城から近いこともあって休日はそれなりに賑わっているのだが、平日の昼下がりという半端な時間、その上雨とあって、他に客の姿はない。カフェの入り口で注文した和菓子と抹茶を供したあとは、店員の気配も遠くなった。空いているのを幸いに休憩に入ってしまったのだろう。 「繊細な仕事だなあ」  晴臣は赤い椿を形どった練り切りの写真を数枚撮ると、おもむろに黒文字を突き立てた。椿も自分の前に置かれた侘助の練り切りを口に入れる。  白小豆の素朴な甘さは緊張をほどいてくれる。  この街のことは嫌いだが、和菓子は別だ。   何代目かの、財政を立て直したとかいう(要するにいつの時代も財政難なのだ、梓は)お殿様が茶の湯に造詣が深く、その為梓は未だ茶道が盛んだ。  当然茶菓を商う和菓子屋も江戸時代からの老舗が何件も残っていた。茶席と密接な間柄ということで、造園業や花屋も多い。  自治体が手掛ける資料館併設のカフェといったら、どこも似たり寄ったりのレベルだが、ここは毎日市内の和菓子店で職人がひとつひとつ丁寧に作ったものを仕入れて提供していて、椿もたまにプライベートで立ち寄る場所だった。  さっきまで感じていた奈落の気配が、上品な甘さの向こうに遠のいていく。それを抹茶がまたちょうどよく引き締める。  椿が落ち着きを取り戻したのを見越したように、晴臣は言った。 「ああいうときはやんわり言っていいと思いますよ。今の時代、別にゲイに関係なくだめでしょ、あれは」 「……おまえだって、へらへらかわしてただろ」 「俺はかわせるからかわしているのであって、嫌な人は嫌ってちゃんと言う権利あります」  二口で練り切りを平らげた晴臣は小さく手を合わせた。 「だいたい、梓市のホームページの冒頭にだってダイバーシティ宣言載ってるでしょ」 「あれは隣の市がやってるからうちもやっただけで……市長がちゃんと今風なこと考えてます感出すためにやったっていうか。見てる市民もいないと思うけど」 「最初はそれでもいいと思いますけどね、俺は。そもそも厳密に言ったら男女雇用均等とかLGBTQSへの配慮だけがダイバーシティってわけじゃないし」 「……課長なんか絶対に東京のお台場のことだと思ってる」  はは、と晴臣は笑う。冗談ではなく、真剣な話なのだが。 「ここいいですね、めちゃくちゃくつろげる。俺好きだな」  ひとしきり笑ったあと、晴臣はシャツの腕をめくりあげ、伸びをすると、畳に足を投げ出した。たしかに清潔な畳のにおいがする広い空間は心地が良かったが、来て数か月の土地でくつろぎすぎだし、椿がゲイである前提で話が進んでいる。実際そうではあるのだが、完全に晴臣のペースであることが気に入らない。  こうなればこちらも遠慮することなどないだろう。椿はかねてからの疑問を口にしていた。 「おまえはなんでこんな田舎の街にやってきた。なにを企んでるんだ?」 「企んでるって」  晴臣は小さく噴き出す。本当によく笑う男だ、こいつは。 「まあ地方創生って都会の悪い業者の食い物になりがちってよく聞くし、用心深いのはいいことですよね。さすが椿さん」  また褒められた。  ここまで来ると逆に高度な嫌味なのかとも思えてくる。 「ぺーぺーだけど一応ちゃんと有資格者ですよ。そんなに心配なら、見ます? 仲人士免許」 「なこうどし?」  かんぱん、と晴臣がくり返したように、今度は椿がくり返す番だった。

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