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第10話

 全行程を順調に終えて、残すは夕日の沈む湖だけになった。  分乗するときもたつくことを予想して椿が手配していたのは、ミニバン型のタクシーだ。  本来なら助手席、二列目の二席、三列目の三席と分かれてしまうところを、二列目と三列目だけを使って二組ずつ乗ってもらう。  ――という配慮の結果、自分は晴臣と二人きりで乗る羽目になってしまった。 「ええ、はい、今のところ予定通りです。女将さんに宜しくお伝えください」  先に宿に回ったスタッフへの連絡電話を終え、晴臣は言う。 「乗車、すんなり行ってよかったですね。椿さんの提案通りミニバンにして良かった」 「だって、どう考えても助手席に当たった人が地獄だろ、こんなの。運転手さんだって気を遣う」  駅から湖の夕日スポットまでは車なら三十分程度の道のりだが、他がかりそめにもカップル成立しているのに自分だけ運転手さんとツーショットなんて、密室なだけに地獄観は倍増だ。   コミュ力があればそんなハンデもどうということはないのかもしれないが、そもそもコミュ力のない人間の気持ちしか想像できない椿である。 「はは。我々にまでお気遣い頂いて有難うございます」 「椿さんそういうとこ最高なんですよね」  またそういうことを、よその人にまで。  いや別に身内じゃないけど。断じて違うけど。  工程表を広げ、このあとのことに気を取られているふりで聞き流す。  しばらくして、運転手がハンドルの上で指先を弾きながら呟いた。 「ちょっとまずいな……」 「まずい、とは?」 「いつもなら渋滞なんかしないんですけどね。事故でもあったかな」  面を上げれば、なるほどいつのまにか自分たちが乗っているタクシーも、周囲の車両も動きが鈍くなっている。  まずいな、とは「日没に間に合うかな」の意だろう。  もちろん今日の日没時間はちゃんと調べてあって、今のところ予定通りに進んではいるのだが、ここで渋滞となると話は違ってくる。せっかく空が晴れたのに、到着するのがすっかり日が沈んだあとでは興ざめだ。 「難しい感じですか」  晴臣がごくさらりと訊ねる。晴臣が訊いてくれて良かった。自分なら、焦りが声に出てしまったかもしれない。 「……うーん……」  運転手は唸るだけだ。昨今なにがクレームに繋がるかわからないから、こういうとき明言は避けるようマニュアルがあるのだろう。  運転手はハンドルを短く持ってフロントガラスを覗き込んだ。いくら睨みつけたところで車は流れない。一方で空の青色は色濃くなっている気がした。夕暮れに向かって。  ここまで来て、間に合わないのか?  夕日の鑑賞は天候や進行に左右されます、とは街コンのリーフレットにちゃんと書いてある。   というか、椿の提案で入れた。  運転手が明言を避けるのと同じように、当然のリスクヘッジだ。相手は自然だし、間に合わないことは人間の責任ではない。  そんな大失敗があれば、次回開催は見送り間違いなしで、それこそ椿の望むところだ。  でも。  いつの間にか、自分と同じように不器用な、彼女のことを思い出していた。 『勇気出して参加してみて良かった』 『夕日のとき、渡せたらいいな……』  せっかくあんなに嬉しそうにしてくれたのに。  ――ここまで来たら間に合え。  間に合ってくれ。最高のタイミングに。  適度に失敗してくれなどと思っていたことも忘れ、いつの間に行程表を挟んだクリップボードをぎゅっと握りしめる。  必死で祈っていると、運転手がバックミラーごしにちらりとこちらを見たような気がした。  おもむろに無線を手に取る。どうやら他の車両と連絡を取り合っているようだ。ぼそぼそと早口のやりとりは、なんと言っているのかはっきりとは聞き取れない。 「――了解」  どこか懐かしい響きのノイズを残し、無線は切れる。 「……私はなんかはね、失業してたまたま運転手になった口ですけど、やっぱりよその地方から若い人がたくさん来て乗ってくれるっていうのは、ちょっと嬉しいもんですよね。――飛ばしますよ」  言い置いて、運転手はそれまでの柔らかな物腰とは対照的に荒々しく急ハンドルを切ると、カーナビの指示にない細い道に車を滑り込ませた。  湖畔に到着したのは、あと数分で日が沈み始めるという、まさに絶妙のタイミングだった。  無線で全車に連絡してあったのだろう。分乗した参加者も全員いる。 「ありがとうございました!」  椿は運転手に礼を述べると、車外に飛び出した。間に合ったら間に合ったで、やるべきことがある。 「水の中に入らないでください。昨日までの雨で砂浜濡れてますから長いスカートの方は汚れないよう気をつけてください。交通量ありますので突然車道側に出ないでください――」  大人に向かってくどくどとこんなことを言うのは野暮だとは思うが、これが仕事だ。案の定、参加者たちは気ままにばらばらと散らばっていって、椿の話など聞いてもいない。 「あまり遠くまではいかないように――」  それでも負けじと張り上げていた声は、頬を照らす光に吸い込まれるように消えた。  西の空が茜色に染まり始めていることにはもちろん気がついていた。それが突然ぐっと濃くなって、いつのまにか空全体を覆いつくしている。  秋の入り口の薄い雲が、沈もうとする太陽に追随するようにたなびき、うす紗の隙間から紫紺の夜の片鱗をうかがわせている。  まるで金属が熱せられ溶解される様子のように、輪郭を柔らかくしながら強い光を放ち水平線に沈む太陽が、水面に映り込んで光の道を描いていた。  微かな風が湖面を誘うように撫で、小さな鱗のようにその道をきらきら輝かせている。  ほどよく失敗すればいい、なんて考えていたことも忘れ、椿はしばらくその場を動けずにいた。  学校終わり、家には帰りたくなく、かといって他に行きたいところもなく、ただ雲が重く蓋をする空をなす術もなく見上げていた空とは違う。  ――綺麗だな。  素直にそう思うと、自分の中にいつの間にか蓄積され凝り固まっていた澱のようなものが、ふわっと少しだけ軽くなった気がした。  もちろん、この夕日は梓の貴重な観光資源だから、市や観光協会のサイトに載せていて、その写真は毎日のように目にする。  きっと遠足で連れてこられて幼いころに見たこともあるだろう。でも大人になってから、自然の美しさというものを理解できるようになってから見るのは初めてだ。  そういえば俺、遠出なんてずいぶんしてなかった。  タクシーでたった三十分。遠出なんて言えるほどの距離ではもちろんないのだが、そもそも前回こんなふうに空を見上げたのはいつのことだったのか―― 「聞きました? カメラマンさんの話」  いつの間にか隣に立っていた晴れ男の声で我に返った。  仕事をしろ、と咄嗟に心の中で毒づいたが、見れば、参加者は皆椿同様水辺に立ち尽くし、神々しく燃える夕日を眺めている。それ以上遠くへ勝手に行ってしまうということはなさそうだった。ちらっと目の端で確認したあの彼女も、ひとりではなく数人で固まって、全身に茜の光を浴びている。 「前日に雨が降ったほうが夕日は赤く染まるんですって」  空気中の水分量とか、屈折率とか――難しいことはよくわかんないんですけど、と晴臣は告げた。 「つまり雨の多い梓市だからこそ、この美しさがあるってことですよね」  また。  そうやって。  こいつは、俺の見ていなかった世界の反対側を見ている。見せてくる。  鬱陶しい雨雲の向こうに晴れ間があると、導くように。  いや、雨さえも演出でしかないみたいに、あっさり。  どうです? 世界はまだ生きるに値するでしょう――とでもいうように。

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