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第16話

 まだなにも入れていないはずの腹の底がかっと熱を持つ。  同性のためのコンサルタント修行なんて言ってはいたけれど、本当は違ったのか。電話の相手が恋人なら、勝手に移住を決めたということだろう。  それは喧嘩になるだろう。それとも、揉めて、別れ話になって、半ばやけくそで逃げてきた?   そんな行動は晴臣らしくない。いや、らしくないと語れるほど自分は晴臣のことを知らないだろう。知りたくもないと思っていたはずだ。  心の中の水面は、いつでも凪でなければいけないはずなのに。  ざわめきの正体を掴み切る前に、椿がそこにいることなど知りもしない晴臣は「――は!?」と頓狂な声を上げ大げさに上体を折った。 くしゃっと歪んだ顔に乗るのは乾パンのことを知られたときよりも無防備な笑みだ。 「なに言ってんの。やだよ、言えるか。やだって……嘘泣きやめてほんとに」  何の話をしてるのかさっぱりわからないが、ぞんざいな口調には、それが許されるだけの間積み重ねてきた時間が見える気がした。  親密な会話を盗み聞きしている。  早くやめなければと思ったとき、晴臣は諦めを孕んだため息と共に髪をかき上げ、隠れるように廊下の端に身を寄せた。廊下の角と角、ちょうど死角になって見えないだろうが、椿のいるすぐそばにだ。  ますます出ていきにくくなって、必死に息を潜めていると、晴臣が観念したように電話の向こうに囁いた。 「――愛してるよ」  あいしてるよ。  ばらばらに飛び散った言葉がもう一度形になったとき、椿の足は震えた。 日常どころか、絶対に聞いてはいけない人の秘密を盗み聞いてしまった。震えるのはそのせいだ。  震えは椿の体をその場に縫い留めてしまった。晴臣が苦笑と共に壁を離れ、椿の姿に気がつくまで。 「え」  照れ隠しだろうか。電話をしながらしきりにかき上げていたせいで、髪が乱れている。額に落ちかかる前髪は、晴臣をいつもより幼く感じさせた。大きく目を見開いていたせいもあるかもしれない。  硬直していた顔に徐々に表情が戻る。そこに書いてある「しまった」の文字が見えたとき、さっきまで動こうと思っても動かなかった足が、勝手に踵を返した。 「椿さん、待って」  待つか。  心の中で言い捨てて、すたすたと歩く。どこを目指すかも決まっていないのに、足が止まることはなかった。  しかし実際のところはスリッパだ。いつもと違ってそう早くは歩けない。すぐ背後に晴臣の気配を感じて廊下を急いだとき、死角から飛び出してきた人影とまともにぶつかって、椿は無様に尻もちをついた。 「……! すみ、ません!」  なんなんだ。今日は厄日か!  珍しく空が晴れているかと思えば、雨の代わりに次から次へと災難が降って来る。  とにもかくにも相手が怪我をしていないか確かめなくては。転がったのは自分のほうだが、そんなのちゃんと確かめなければどうかわからない。大事になって、市役所の名前が出ようものならまた山ほどの「ご意見」が寄せられてしまう。 「あの、大丈夫ですか」  ぶつかった相手の、気遣わしげな声が降って来た。どうやら無傷なようなのは幸いだ。おとなしく差し出された手を借りる。  ――ん?  ふんわりとした違和感があって、椿は眉をひそめた。夏の雨が降り出す前、どこからともなく立ち上る、埃に似たにおいのような。   微かなそれを覚えつつ立ち上がったとき、相手の唇から戸惑うような響きが漏れた。 「月森……」  ぶつかってしまった見知らぬ誰か。  見知らぬ誰かではなかった。この声この上背、この――気配。  ぶわっと、突然冷水を浴びせかけられたかのように、表皮が粟立つ。 「さ、くま」  その名が唇を震わすと、叩かれたり押しつぶされたりした心臓が、今度はきりきりと引き絞られた。 「椿さん、大丈夫ですか」  後ろから追いついてきた晴臣の声で我に返った。とっさに佐久間の手を振り払い、揺らいだ体を支えようとした晴臣からも逃れ、立ち上がる。  乱れた浴衣を直した。それでも一分の隙も無くスーツを着こなしている佐久間と対峙するには、髪も濡れたままであまりに貧相な自分が恥ずかしい。 「どうした、佐久間くん」 「あ、はい、大学の友人とばったり会って。すみません、すぐ行きますので」 「了解。あちらも錦鯉に夢中だから、しばらく大丈夫だろ。適当に言っとくよ」  ありがとうございます、と佐久間が頭を下げると、中年の同僚らしき男は椿たちにも会釈して去っていく。 「えっと……月森、今眼鏡なんだな。一瞬わかんなかった」  佐久間があらたまり、そんなことを言う。佐久間も、なにを言ったらいいのかわからないのだろうと思った。ああ、とだけ応じると、ほっとしたように表情がほどける。 「地元に帰ったって噂では聞いてたけど……元気そうで良かった」  元気そうで良かった?  椿はぎゅっと手のひらを握りしめた。注意深く、こみ上げる衝動を押さえつけるように。  ――どの面下げて。 「……おかげさまで。そっちも仕事?」 「ああ。関西のコンベンションセンターで展示会があって、今日は接待。カナダのお得意様が、あんまり知られてない温泉地に行ってみたいって。日本通で注文がうるさいから、大変だったよ。適度に綺麗で適度にさびれてるとこ探すのさ。今あっちの金持ちの間で錦鯉がブームだから、ここの譲ってくれって言われるかも」  さびれたところを探して、と地元民の前で悪気なく口にする。もちろん椿だってそう思っているが、人に言われると身勝手にもいらだつ。だが佐久間はこちらのいらだちに気がついてもいないようだった。  なにごとも臆することのないその姿勢が、ただただかっこよく見えていた時期も、あった。  佐久間くーんと廊下の向こうから呼ぶ声がする。 「悪い。もう行かなきゃ。じゃあ、おまえも色々頑張って。元気でな」  気安い調子で追い抜きざま椿の背中から腕を回すと、浴衣の二の腕をぽんぽんと叩いては去っていく。  あの頃と同じだ、という気持ちと、おまえが言うのかよという気持ちが、高校時代城の公園から眺めた曇り空のように、白銅色と鈍色のまだらな模様を描いている。  抜け出したのに。  抜け出せたと思ってたのに―― 「椿さん――」  誰かに名前を呼ばれた気がしたが、意識をつなぎ留めておくことはできなかった。

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