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第22話
「……ずっと死んだように寝てたけど、一生そうしてるわけにもいかないから、親戚が勝手に申し込んでたこっちの十月の公務員試験を受けた。運よく受かって、今に至る。こんなクソ田舎って思ってるのに、市民の皆様の貴重な税金食いつぶして生きてる」
ぴちゃ、と微かな水音がする。錦鯉が身をくゆらせているのだろう。池に沿って配された灯篭の明かりで天井に映り込んだ水紋が、ゆらゆら揺れていた。
「……椿さんがちょっと人と距離を置くようにしてるのは、そのせい?」
無言を肯定代わりに押し黙る。
晴臣はふう、と息を吐くと「よっ」とかけ声をかけ、おもむろに立ち上がった。
「? どこ行くんだ?」
「決まってるでしょ。さっきの奴一発ぶん殴りに」
「やめろ、ばか! 公務員の暴力沙汰なんて、もし表沙汰になったら、暇を持て余した田舎の連中には格好のネタだ」
観光協会職員は厳密には公務員ではないが、そんなこと、一般市民には区別がつかない。
「心配するとこそこですか!?」
「いったん悪い噂が立ったら、おまえがほんとはいい奴か悪い奴かなんて、他人にはどうでもよくなるってことを言ってんだ俺は!」
事実、椿がゲイだと知った同級生の中には、あからさまに距離を取るものもいた。大学には最低限しか行かなかったが、教室の入り口でわざとぶつかっては仲間たちとにやにや笑いを交わしていく者もいた。
大学生にもなって、ガキか、と毒づいてみたところで、微細なストレスは積み重なる。たいしたことはないと思っていたのにいつの間にかすっかり濡れている小糠雨のように。
それは、正直に言って堪えるものだった。
「……それに、そもそもおまえには関係ないだろう」
消してしまいたい過去の話だ。大げさに騒ぎ立てて欲しくないというのが正直なところだった。
「わかりました」
晴臣は言い、彼にしては乱暴な仕草でどかっと座り直すと、椿のいる布団の上であぐらをかいた。それからはーっと、さっきとはまた違った響きで、深く深く息を吐く。
「って言うと思います? この状況で」
「な、」
てっきり聞き分けてくれたと思ったのに。
「気づいてると思いますけど、敢えてはっきり言わせたいなら言いますけど、俺、あなたのこと好きですよ。今だって持ちうる限りの理性を総動員してるし」
ちら、と気まずげに走らされた視線で、自分の浴衣が随分と乱れていることにやっと気がついた。裾を直して正座し、襟元を直す。
「無理矢理襲ったりはしませんー」
「当たり前だ!」
襲う、なんて言葉に反応して声を上げてから、やっと頭が回り始めた。
今こいつ、俺が好きとか、言った……か?
龍介といい晴臣といい、どいつもこいつも酒の入る前からどうかしている。
「……なんで……街コンのとき、なんとか足を引っ張ろうとしてたのだってわかってるんだろう」
「あんなの、邪魔にもなりませんよ。――うーん、そうですね、そういう、ちょっと意地悪なとこ職場で俺にだけ見せてくれるところ?」
「は? 頭おかしいんじゃないのか」
「それそれ。そういう冷たい声もしかして役所の中で俺しか聞いたことないのかなーと思うとぞくぞくします」
「なんだ、ただの変態か……」
「言ったでしょ。恋愛なんてわかんないもんだって。はい今恋に落ちました! ってわかればいいのかもしれないけど」
それはそうかもしれない、と迂闊にも同意してしまう。自分がかつて佐久間に魅かれた瞬間だってよくわからない。なんの因果か最も苦手とするタイプのノンケと観光バーに行くことになって――なんて、傍から聞いてる分には罰ゲームにしか思えないだろう。
「あーでも、この人ほんと可愛いな、無茶苦茶好きって思った瞬間は、俺、わかるかも」
「え」
晴臣の前で、そんな思わせぶりな態度をとったことなど一度もない。ないはずだ。
「こっちきたばっかりのとき、家電量販店に一緒に行ったじゃないですか」
そういえば、そういうこともあった。
あのときは大学時代から使っていた電気ポットが壊れてしまって、買いに行くかとバス停まで向かっていた。もちろん部屋にコンロはあるのだが、一度電気ポットに慣れてしまうと、やかんに水をくんで、なんて作業すら億劫に思えて。
当然だが、バスは時間通りには来ない。それも織り込み済みの「田舎時間」で暮らすことにも辟易しながら慣れている。地元に残れば当然のように高三の終わりから教習所に通って取る免許も、椿は「どうせずっと東京にいるし」と、取得していなかった。
そこにまだ「田舎時間」に慣れていない晴臣が車で通りかかれば「俺も行くんで、乗っていきませんか?」となるのは当然の流れだ。
またこういうときに限って梓恒例雨が降って来るものだから――仕方なく、やむなく乗せてもらったことが、たしかにあった。
「買い物して宿舎に戻って来たとき、先輩がちょっと変な停め方してて、切り返さないといけなくなって」
思い出した。
「バックするんで座席に腕回したとき、見られてるなーと思った」
「あ、あれは――」
ここだけの話、友だちの少ない椿は、同年代の男が運転する車というものに初めて乗った。後ろに乗ると言い張るのもおかしな気がして助手席に乗っていたから、行って帰ってくるまでの間、実のところ緊張していたのだ、ずっと。
晴臣は今時珍しいマニュアル車に乗っていて、ギアチェンジする度、椿は密かに体をこわばらせていた。それがこちらまで伸びてくることなんてあり得ないのに、めくり上げたシャツの袖から覗く腕に浮かぶ腱にどぎまぎさせられていた。
せっかく日本一のゲイタウンがある東京に住んでいたのに、ゲイの知り合いが出来る前に佐久間たちとつるむようになり、それで満足してしまっていたから、椿は色恋にはほとんど免疫が――ない。
顎の線が綺麗だな。
名前の知られた彫刻家が削り出したみたいだ。彫刻なんて全然詳しくないのに、そう思う。
要するに、もうすっかり人生を「降りた」ような気がして妙に老成している椿の、その実たかだか二十年をちょっと出た程度の人生経験の中で、最適な表現を見つけよと、脳味噌が随分頑張っているのだ。そのくらい、今あり得ないくらい近い距離にある男の骨格は、美しく整っていた。
腕同様、首筋もその造形美を見せつけてくるように浮かび上がって鎖骨を経、なにもスポーツをやってこなかった椿よりはるかに厚い胸板へと自然と視線を誘われる。
まだ空調を入れるような季節ではないのに、薫るような熱を感じた。
熱を持っているのはおそらく自分のほうだと気がついてはっとする。
好きか嫌いかを別にすれば、晴臣は間違いなく美しい男だ。それも、今まで自分の周りにはいなかった、ゲイをカミングアウトして、そのまま周りにあっさり溶け込むようなタイプ。たとえ特別な好意を持っていなかったとしても、存在を意識してしまうのは仕方がないことだ――
「あー、良かったうまいこと入った。マニュアル乗ってると誤解されるけど、俺、別に運転凄く得意ってわけじゃないんですよね。むこうで共用してた親の車が――」
晴臣は幼さの垣間見える様子でぼやきながら腕を戻す。一緒に戻した視線が、椿の正面でふっと止まった。まさかまっすぐ見つめられると思わずその場で射竦められるように固まってしまった椿に、晴臣はふっと微笑みかける。
うわ――
高校の頃、ひとり城公園でしみったれた曇り空の街を見下ろしているとき、ときどき空の気まぐれで光が差すことがあった。
灰色の濃淡で織り上げられた雲の隙間から、地上を照射するように。
こんな街、くそだ。そう思っているのに、その光だけはベンチから立ち上がって、飽きることもなく眺めた。
晴臣の笑みは、そんな光景によく似ている。
「……椿さん、濡れてる」
眩しい光のような男はそう言って、固まったままの椿の顔から、そっと眼鏡を引き抜く。
乗り降りするときについてしまったのか、眼鏡のレンズを濡らす水滴を、晴臣は「すみません、ティッシュ積んでなかった」と言いながら指で拭うと、また元通りそっとかけ直した。
う、わ――
恥ずかしい。美しい男の顔に、体に見とれてしまっていたことが恥ずかしい。おそらくは晴臣はそれを悟ってもいて、それでいてなおかつ何でもないことのように――
「荷物あるけど、椿さん傘させます? なんなら俺」
宿舎はごく普通の古い団地タイプだから、雨の日にも濡れないように張り出した車寄せなんて気の利いたものはもちろんない。先に出て晴臣が傘をさしかけてくれようというのだろうが、そこまでしてもらうのはやばい、と思った。
なにがかはまったくうまく言えないけれど、とにかくやばい。
「い、いい!」
晴臣が最後まで紡がないうちにさえぎる。幸い、電気ポットはずっと膝に抱いてきていた。構わずにドアを開け、そのまま駆け出そうとし、それから車内にもう一度顔を突っ込むと叫ぶように告げた。
「仕事で使うもの買いに行くときは、私有自動車使用経費補助で申請すれば、ガソリン代出ますから!!」
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