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第31話

 婚礼舟はいつもの遊覧舟と違い、屋根を取り払って舟底には緋毛氈を敷いてある。 舟が桟橋から離れてゆっくりと水の上を滑り出すと、その鮮やかな緋色の上に、はらり、と舞い落ちる物があった。  雪だ。  朝から、例年の祭りの日より冷えているなとは思っていたが、まさか降るとは。 気配を感じてそちらを見ると、晴臣が持ち込んでいた赤い和傘を手にしていた。  雪の静謐な匂いの中に、油の匂いをかすかにさせながら、ばっと開く。まるで、大輪の花が咲いたように思えた。  晴臣はそれを睦まじく座る王と李の上に無言で差し掛ける。――準備の良すぎる男のことを、もう、気障だとは思わなかった。  緋毛氈の上に、傘の上に、そして堀に浮かんだ椿の上に、はらりはらりと雪が降る。  舟が舟着き場を離れて沿道の目に触れる辺りまで出ると、ほう、とため息のようなざわめきが起きた。 カシャカシャっと芸能ニュースさながらのシャッター音が寒気の中で硬質に響く。  そちらにむかって頭を下げる王と李に合わせ、晴臣も傘を動かす。  婚礼舟に乗ったふたりが男性だと気がつくと、沿道が少し、ざわめいた。  驚いたような顔をしてなにか囁き合う年配の夫婦の姿も視界に入った。  ――想定はしてたけど、万が一にも、罵ったりしないでくれよ。 いっそふたりの目に不快なものが入らないよう、傘でさりげなく隠せないだろうかなどとじりじり考えていると、老夫婦の前にぐいぐい人出てくる人影が目に入った。 老夫婦の迷惑そうな視線はその人物に集中するが、当の本人は意に介する様子もなく最前列に出ると、ぶんぶん手を振ってくる。  街コンのときの彼女だ。 あの街コンからさほど時間も経っていない。  また来たい、と参加者は口々に言ってくれてはいたが―― まさか本当に? わざわざ、自分で手配して? はらはらと降り続ける雪の、冷たく静謐な匂い。それ以外のものが、つん、と鼻腔の奥をついた。 彼女は手のひらを口元にあてがって叫ぶ。 「凄く綺麗!」  その言葉に、沿道で見物していた人々の戸惑うような表情が徐々にほぐれていく。彼女のように叫ぶまではいかないまでも、唇の動きから「綺麗だね」「うん」と囁き合っているのはわかる。 「……很高兴」  嬉しい、と震える声で呟いた李の手を、王がぎゅっと握った。  赤い椿と白い雪に彩られた堀を、婚礼舟はゆったり進む。  やがて雪は止み、椿はそっと傘をたたむとまた舟の端に控えた。大通りからはすでに遠ざかり、あとは街コンのときと同じように脇に伸びた細い水路に入ってカフェに上がり、そこで立食パーティーの予定だ。王と李の関係は家族には秘密だが、親しい友人は大勢駆けつけていた。まさにこれが二人にとっての結婚式だ。  あと少しで彼らの元にふたりを連れて行ける。 ――考えてみれば、婚礼舟に同乗って、もの凄い大役だったんじゃ。 いまさらながらに思ったとき、舟は椿谷にたどり着いた。 斜面に枝を広げた椿の大木は見事で、堀に浮かべた椿も、まるでそこから今も続々産み落とされているように見える。以前夢想した通りの、艶やかな葉の上に、紅の花の上に、宿る雪――目線を上に移せば、それを裾模様に従えて、天守閣がそびえている。外観は四階建に見える、上の二層は白い漆喰。その下は黒板張り。そのおかげで堀から一枚の、切れ目のない織物のようにも見える。  一番は一個もないらしいけど、そんなことは今はもう、どうでもいいな。 旧態依然としたこの街の象徴として、いつも苦い思いしかなかったその景色が、今日は素直に「いいな」と思えた。雪のちらつく曇り空だって、いっそう風情を増すようで、悪くない。  城の公園で、どんよりとした思いを抱えていた頃からは考えられないことだ。  この街が嫌いで東京に出た。  傷ついて戻った自分が嫌いだった。  嫌いだと思いながら、なにも出来なかった。  でも。  ――ん?  視線を感じて物思いから引き戻された。王と李、そして傘をたたんでひっそり控える晴臣もまだ、雪を宿して風情を増した城を見上げている。  と、なると。 自分の顔にすがるような視線を向けていたのは龍介だった。 いつも精悍な眉尻が不安げに下がって、きつく引き結んでいた唇が微かに動く。  エ ン ジ ン。  唇の形が、そう告げた気がした。  ――エンジン?  エンジンが、どうかしたのか――  ――エンジン!?   てっきりふたりに雪景色の城をたっぷり見せるため時間を取っているのだと思っていた。いや、もちろんそれも予定した行程のひとつではある。が。  ――エンジントラブルか。  まなざしだけで問うと、龍介は椿にだけわかるよう微かに頷いた。  結婚式で舟が立ち往生って、そんな。

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