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第33話

「お疲れ様でした。さあ、どうぞこちらへ」  舟が着き、さすがの同僚もちゃんと仕事モードで愛想良くふたりを出迎えている。彼らがカフェの中に消えるのを見届けて、椿と晴臣はデッキに這い上がった。  同僚が、まるで城下に伝わる幽霊でも見たような顔をする。無理もない。 「――え、ちょ、なにし」 「どいて」  店の人に用意してもらったのか、龍介が大判のバスタオルを手に戻り、頭から被せてくれた。――のだろうが、すっかり体は冷え切って、ずり落ちるそれを自分で押さえることも出来ない。  龍介は唇を噛みしめながらがしがしと乱暴に髪を拭った。 「エンジンが不調で――すみません俺のせいです」 「ちが……俺が勝手に……あのふたりに、いい思い出だけ残して欲しくて……せっかくの晴れの日に……」  それだけ紡ぐのがやっとだった。唇さえもう自分の意思で思うように動かせない。  同僚が、龍介同様晴臣の頭をごしごし拭いてやりながら言った。 「――大丈夫よ、椿くん。あたしお堀のほうから回ってきたけど、ちゃんと綺麗だった」  どこか迷いのある口調だったが、一度そう切り出すと、なにかが吹っ切れたかのようにまくし立てる。 「厳かっていうの? あのふたり本当に仲良く寄り添って――見てるあたしたちにもにこっとしてくれて、……とにかくなんかいいなあと思ったの。素敵だった。追い返されたりなんかしなくて本当に良かった。……早坂君も、微妙な立場になっちゃったでしょ、ごめんね。これからあたしたちちゃんといろんなこと勉強するから」 「いえ、僕は別に、なにも。――それより、椿さんの唇が真っ青で」  真っ青? そんなに? どこか他人事のように晴臣の言葉を聞く。それさえもう、きーんという耳鳴りの向こうにかき消されそうだ。 椿のそんな様子に、同僚が勢いよく叫んだ。 「そこのスポーツセンターのシャワー借りて! 電話しとくから!」  他ならぬ祭りの交通規制のせいで車は使えない。ともかく早く早くと急かされて、タオルをひっかぶったまま晴臣に抱きかかえられるようにしてスポーツセンターに向かった。  祭りの期間中解放されている駐車場と裏腹に、施設の中に人影はまばらだ。おかげで瀕死の濡れ鼠のまま市民の皆さんと遭遇するという事態は免れたわけだが、ロッカールームで我に返った。  ――こいつのまえで脱ぐ、のか。  ともかくさっと脱いでさっとシャワーブースに駆け込むしかないだろうと思ったが、いかんせん指先がかじかんでシャツの釦がうまくはずせない。特に襟元はきつい。  とにかく王と李の婚礼舟をつつがなく終わらせたい一心でやったことだが、今頃になって随分無茶をしたのかな、と思えてきた。 「――椿さん」  苦心しているうちに晴臣が声をかけてくる。  びくっと体がこわばったのは、きっと晴臣にもわかってしまっただろう。濡れてセットの乱れた前髪の下から、覗く眼差しがほんの少し傷ついたように見えた。 「あ……」  なにか言わなくちゃと思うのに、なにひとつ形にならずかろうじて呻きのようなそれを漏らすと、晴臣の指が伸びてくる。そして器用に襟元の固い釦を外してくれた。 「……やりにくそうだったから」 「あ、りがと」 「いえ」  晴臣は素早く自分のものを脱ぐと、背を向けてシャワールームに向かう。あとに続こうとしたとき、ロッカールームの扉が開いて、どやどやっと人が入ってきた。  どうも空いていたのはトレーニングルームだけで、彼らはシニアの水泳教室のメンバーらしかった。そもそも水着姿だから、それだけ脱ぐと、入ってきたときと同様にどやどやっとシャワールームに消えていく。 「この後どうする? 城行くかい?」 「いやあ、人が多いしなあ。あの階段がなあ。ほら俺、膝があれだからさ」 「毎年そう代わり映えしないしなあ」 「でも今年は四百回記念だから、店が多いらしいよ」 「うちは女房連中の踊り観に行くって言っちまったからなあ。行かないとあとでへそ曲げられるから」  まるで女子高生並みのかしましさに圧倒されて、気づくのが遅れた。  ――シャワーブース。  田舎で土地が余っているからといって、金のかかる水回りの設備は無尽蔵に増やせるものではない。 案の定、元気なじじいどもでそこは埋まって、空いているのは最後のひとつになってしまった。 「早坂さん、先に――」 「なに言ってんですか」  怒ったような声と共に手首を引っ掴まれ、ブースの中に押し込まれる。同時にシャワーコックがひねられて、お湯が降ってきた。

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