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第35話

「……です」  ぼそりとした呟きは、流しっぱなしのシャワーにさえぎられて聞き取れない。 「は?」 「母ですよ! あんときの電話の相手は!」  今度は椿が濃茶を飲まされた顔をする番だった。 「東京の下町育ちじゃなくて、ほんとは欧米人?」 「違います。――ああもう」  晴臣は濡れ髪をわしゃわしゃとかく。 「いつか同性同士の婚活コンサルタントが必要になるから修行に来たっていうのは嘘じゃないんですけど、……ほんとは母親とちょっともめたっていうのもありまして」  晴臣は担当の会員には自分がゲイであることを話していたが、母親には黙っていた。特に口止めはしなかったため、それはやがて母親の耳にも入ったという。  母が再婚するまでは、見えない前父の影に怯えて寄り添うような暮らしだったから、晴臣と母の結びつきは強かった。 「別に悪いことしてるわけじゃないし、いつか話してもあっさり受け容れてくれるだろうって、甘えがあったんですよね……」  母はまず、長年秘密にされたのが許せない、と罵り、今の父にも謝れと迫り、彼から宥められると、いよいよ興奮してこう言った。  仲人士の息子が結婚できないなんて――!  「……それは、」 「一番言っちゃいけないですよね、うん。それはあっちもわかってて。でもいまさら謝れないし、仕事は立て込んでるしでちゃんと話し合わないまま俺はこっちでの仕事を決めちゃって――俺が未だに傷ついたり怒ってるんじゃないかって、気にしてたけど、こっちにきたら毎日楽しいし、離れてみたらそりゃまあつい言っちゃうよなって冷静にもなって、俺はもう怒ってないよって言ったら、じゃあ愛してるって言えって」 「……仲人士の話したとき、そんなこと、言ってなかった」  どこでもありのままに振舞って、許されてきたみたいな顔をしていたくせに。 「そりゃ、あのときはまず椿さんをなだめなきゃって思ってたから」  そんなふうに気遣われていたなんて、思いもしなかった。都会のオープンゲイで、ずっと自分を偽ることもなく伸び伸びと生きてきたのだろうと思っていた。そんな存在が疎ましくて、重箱の隅をねちねちつついてみたりしたのだ。 「それに」と、晴臣は続けた。 「好きな人に言えないでしょ。……おかーさんともめて逃げてきました、なんてかっこ悪いこと」  気がつくと、幾重にも重なったシャワーの音は小さくなっていた。 わあわあとやってきたじいさんたちは、またわあわあと去っていったらしい。密室というほどではないにせよ、狭い空間にふたりきり。それも全裸で向き合っていることに改めて気づいた。 「あ、空いたみたいだから、あっちのブースに」 「椿さん」  手首をきつく掴まれて、行く手を阻まれた。 「焼きもちやいてくれてたってことでいいんですよね」 「――知るか」 「知るかって、もー。ほんと俺の前だと口悪いな。……こっち来て。もっとちゃんと暖まらないと風邪ひいちゃいますから」  言いながら、晴臣は手首の戒めを解いた。  わかってる。「風邪をひいてしまう」なんて、口実を与えてくれてるだけだって。  おずおずと、それでも間違いなく自らの意思で、椿は一歩踏み出した。 「……、」  自分の行動に心が追い付かないまま、抱き寄せられる。シャワーに打たせながら、再び口づけられた。 さっきよりもゆっくりと、数倍やさしく、深い口づけ。  さっきとは打って変わった、祈りのように静かな感情が伝わって来るから、押し返すことはもうできなかった。

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