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第1章 第3話

「今日はありがとうございました。ごちそうさまでした」 「いやいや、また誘うからさ。引きつづきアシスタントよろしくね」  飲み会は二時間半ほどでお開きになり、皆、駅で思い思いの交通機関を利用して帰路についた。  群司は途中まで坂巻と方向が一緒だったため、おなじ電車に乗り込み、その坂巻の乗換駅にちょうど到着したところであらためて挨拶をした。 「今日はほんと、誘っていただいてありがとうございました。楽しかったです」 「ん~、こちらこそ。また飲もうぜ。気をつけて帰んなね」 「はい、お疲れさまでした」  群司の声に送られて、坂巻が電車を降りる。乗客の乗降を終えた電車のドアが閉まり、走り出した窓の向こうで手を振る坂巻に向かって、群司はもう一度頭を下げた。  知り合いのいなくなった車内で、吊革に掴まりながらぼんやりと夜の街並みを映す車窓を眺めやる。  例の新薬――否、ドラッグについて知る者は、坂巻班の中にはいなかった。おそらくそれは、バイオ医薬研究部全体の認識と思って間違いないだろう。知っている可能性があるのは、部長の門脇クラスか、あるいは創薬の中でも、薬理か化学研究方面のごく一部か。  群司の思考は(くら)く沈む。  やはり回り道になったとしても、正社員として組織の中に入りこむほうがいいのかもしれない。  もどかしさの中で、冷静さを求めるもうひとりの自分が暴走しそうになる気持ちにストップをかける。  若さ、美しさ、健康と並外れた知性。  選ばれし人間にのみ約束される栄華と繁栄。だがそれは、選ばれなかったその他大勢の者たちに暗雲をもたらし、世界を破滅へと導いていく。 《フェリシアン》――『幸福(フェリス)』という名の猛毒に犯された者たちの総称。  世界はいま、大きく変わりつつある。  自分になにができるだろう。自分にどこまで、為すことができるだろう。  脳裡に、ある人物の姿が浮かぶ。  吊革を掴む手に、自然、力がこもった。  どうか見守っていてくれと、群司はその相手に向かって心の(うち)で語りかけた。

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