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episode1-1 蒼すぎた夏

 ――十七歳。恋をしていた。 「(みね)、何読んでんの?」  高校二年生の五月だと、教室の喧騒(けんそう)はこれくらいが普通なのだろう。授業中は全く元気のなかった生徒たちが、休み時間になると、こんなふうに生き生きとしゃべり出す。静かにしているのが好きだけれど、不快な騒然(そうぜん)さだとは思わない。この音の中に自分の椅子がそっとあるのが好きだ。  声をかけてきたのは、北嶋廉(きたじまれん)だ。おとなしい自分を気遣って話しかけてくれているのか。これじゃあ、どっちが転校生かわからない。 「太宰治」  質問にそう答えると、興味があるとは思えないのに、にこにことまたたずねてくる。十センチほど背が高い北嶋は、本をのぞき込む時に、少しだけ長い薄茶色の髪を揺らした。黒に近い濃い茶色の髪をした自分と比べると、なんだか性格を表しているようだ。 「へぇ。走れメロス? 人間失格?」 「斜陽(しゃよう)」 「ふーん。古本? ずいぶんボロボロ」 「新品で買ったけど、けっこう読み込んでるから」 「本、好きなんだね」 「うん。……好き」  この『好き』という単語を発するのは、妙に緊張する。この会話の流れだと、確実に目的語は『本』なのだけれど。 「俺、ずっと気になってたんだけどさ」 「え、何?」 「峰アスカのアスカって、どっちの漢字? 明日(あした)のほう? 飛ぶ鳥のほう?」  ずっと、というのはおかしいだろ。つい数週間前に転校してきたのに。 「飛ぶ鳥のほう」  机の上に置いてある教科書を裏返した。『峰飛鳥』と書いてあるのを見せる。  北嶋は、変な時期に転校してきた。学年の変わり目ではなく、新学期が始まって二週間ほど経った頃だ。けれど、見た目もいいし、明るくて、すぐにたくさん友達ができた。  千葉の海沿いの小さな町。(うわさ)はすぐに、どこからか流れてくる。北嶋の家は母子家庭であるということ、何か訳ありで越してきたのではないかということ。  あまりクラスメイトと交流のない自分の耳にさえ入ってくるのだ。そういう噂を広めるのが好きな人種がいるということがわかる。こうして教室で見ている限り、北嶋はみんなから好かれているように見えるし、近所のスーパーで働いているお母さんを見かけたことがあるけれど――付けているネームプレートでわかった――生き生きと仕事をしていた。 「あ、そうだ。もうすぐ中間テストじゃん?」  北嶋は、そう言いながら、さっき裏返した数学の教科書をパラパラとめくる。 「……これ、これ。この問題、わかんないんだよね。峰、わかる?」  章末B問題のひとつを指した。 「あー、難しいよね。一応解けたけど。答えは合ってたから、これでいいと思う」  教科書の後ろには、答えだけが載っていて、途中式や解説は書いていないのだ。自分で解いたノートを開いて、北嶋に見せた。 「ノート、貸そうか?」 「まじで。ありがとう。放課後に返せばいい?」 「明日でいいよ」  こうしたちょっとしたことを、北嶋はたまに話しかけてくる。北嶋と同じように明るくて、気の合いそうなクラスメイトは、他にたくさんいるのに。 「廉ー、ちょっと来てー」  だいたいいつもこうだ。北嶋にはそういうことは感じないけれど、『自分はクラスの中心人物です』というオーラを出しているやつは、今、北嶋は自分と大事な話をしているかもしれないとか、そういった気遣いをしないことが多い。 「呼んでるよ?」 「ああ。ノートありがと。じゃあ」  五、六人の男女で楽しそうに話している北嶋を見る。そう、そうやって(まぶ)しい場所にいるのが似合う。そこが北嶋の椅子なんだ。  本に目を落とし、没落した貴族の物語の世界に戻った。

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