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周焔編(氷川編)6

 冰の手には通帳と印鑑が握られていた。亡くなる間際に黄老人から手渡されたものだ。  記されている金額だけ見ても現実味のないほどの額面は、十二年前のあの日から漆黒の男が欠かさず振り込んでくれているものだそうだ。だが、老人はその金には一銭たりとも手をつけてはいなかった。冰を育てる為の生活費はディーラーで稼いだ自らの金で養ってくれていたのだ。男からの援助は冰が成人した時の為にと、すべてきれいなままで貯蓄してくれていた。 「しっかし……すげえ金額……。こんなの持って歩ってるだけでも恐ろしいよ……」  これほどまでに気に掛けてくれるのはどうしてだろう――と、むろんそういった思いもあったが、何より今日この日までずっと援助を続けてくれているその男に会って、直に礼を述べなければ気がすまない。そして、身の丈に合わないような大それたこの援助金も返すべきだ。冰はそう思っていた。  広大な吹き抜けが天高く伸びているロビーに足を踏み入れると、とにかくは受付へと向かった。  都会的な美人といえる若い女性が二人並んで腰掛けているのは、重厚な造りのデスクだ。  そちらへと歩を進める冰に気付いたわけか、彼女らは少々奇妙な雰囲気でこちらの様子を窺っているようだった。  一人は、どちらかといえばおとなしくおっとりとした感じの女性で、冰の容姿に見とれるように頬を染めながら好意的に話を聞こうとデスクから立ち上がってくれている。だが、もう一人の方はそれとは真逆で、何故だか値踏みするような視線をくれてよこす。場にそぐわない格好で来てしまったのかと一瞬不安が過ぎったが、冰は一応スーツ姿で出向いて来ているし、特に悪目立ちするような服装でもないはずだった。 「あの、すみません――。こちらの社長さんにお会いしたいのですが」  冰がそう切り出すと、案の定といったふうに挑戦的な態度の方の女性がますます怪訝そうにして、整った顔立ちに剣を浮かべたようだった。 「失礼ですが、アポイントメントがお有りですか?」  かなりの上から目線で冷たく言い放たれて、冰は一瞬面食らってしまった。聞く耳を持たないとはまさにこのことだ。彼女の隣では、もう一人のおとなしい方の女性が少々ハラハラとした様子で成り行きを窺っている。どうやら彼女は後輩か見習いといったところなのか、口を挟めずにいるといった雰囲気だ。  冰が戸惑っていると、挑戦的な方の女性が更に棘のある言葉を投げつけてきた。 「お客様、お約束がございますか?」  何故か苛立っているようにも感じられる。  確かにアポイントを取らずに押し掛けたのは悪かったかも知れないが、初っぱなから有無を言わさずといった態度に出られて言葉が出なくなってしまったのだ。 「あ、いえ……。特に約束はしていませんが――」 「でしたら申し訳ないのですが、お取り次ぎは致しかねます」  さも当然といったふうにツンと唇を結んだまま、とりつく島もない。だが、冰もここで素直に引き下がるわけにはいかなかった。  生まれ育った香港を後にして、初めて踏んだ日本の地だ。せめて漆黒の男に会って礼のひとつも告げないままでは、おいそれと帰るわけにもいかない。それ以前に、初対面の受付嬢にここまで冷たくあしらわれる理由も分からない。冰は今一度、気を取り直して丁寧に面会を申し入れることにした。

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