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漆黒の記憶3

「とにかくそう恐縮するな。怪我はねえというし、身体は悪くねえんだ」 「は……」  真田を宥めて周が病室へ入ると、冰はベッドの上で起き上がって窓の外を眺めていた。 「――冰」  張りのあるバリトンボイスでそう呼び掛けると、くるりとこちらを振り返った。その仕草は鄧の言うようにどことなく子供のようにも映る。  果たして彼は覚えているだろうか。それともまるで見知らぬ他人という意識なのか。  緊張が走る――。  ところが、冰は驚いたように瞳を見開くと、 「あ……! 漆黒のお兄さん……!」  大きな瞳をクリクリとさせながら、嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。しかもこれまた鄧の言った通り、しゃべっている言語は広東語である。 「お前……俺が分かるのか?」  周は安堵とも驚きともつかない仕草で、恐る恐る震える手を差し伸べてみせた。 「あ、はい。あの……前に僕を助けてくれたお兄さん……ですよね?」 「そうだ。覚えていてくれたんだな?」 「はい、もちろんです! えっと、あの時はありがとうございました」 「いや、構わん。それよりお前、身体の方はどうだ? 痛いところとかはねえのか?」 「あ、はい大丈夫です。あの……僕はどうして……」 「お前は強風で飛んできた物にぶつかって怪我をしたんだ。手当ての為にここに連れて来た」 「そうだったんですか……。じゃあまたお兄さんが助けてくれたの……?」 「まあそんなところだ」 「ありがとうございます。あの、それで……じいちゃんは……?」 「黄のじいさんのことか?」 「うん、そうです。じいちゃん、僕がここにいること知ってるのかな……。きっと心配してると思うんです」  まるですぐに会わせてと言わんばかりに真っ直ぐな瞳で見上げてくる。言葉使いは敬語ながらも、節々に感じる言い回しや仕草は子供そのものだ。 (ガキに戻っちまったってのは本当のようだな――)  周はなるべく驚かさないように静かに向き合って彼の手をそっと握ると、穏やかな口調で話し掛けた。 「少し訊ねてもいいか? お前、今は幾つだ」 「えっと……僕の歳?」 「そうだ。何歳になる」 「九歳です」 「どこに住んでいる?」 「じいちゃんのアパート」 「黄のじいさんと二人でか?」 「うん。お父さんとお母さんは死んじゃったから、それからじいちゃんが僕と一緒に暮らしてくれるようになって」 「そうか。じゃあ俺の名は分かるか?」 「うん、いえ……はい! えっと……焔のお兄さん」 「そうだ。よく覚えていてくれたな」 「だってお兄さんがそう教えてくれたから。漢字は難しいけど、”炎”って意味だよって」 「ああ、そうだったな」 「でもね、あの後じいちゃんにお兄さんのお名前の漢字を聞いたから、今はちゃんと書けるようになったよ。”焔”って」  冰は掛け布団の上で焔という文字をなぞってみせた。

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