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孤高のマフィア39

 一歩、また一歩と歩を進めるごとに冰の目つきは仄暗い事情を背負った飢えた獣の如く鋭さを増していく。歩き方ひとつにしても次第に下品な仕草へと変わっていく。フロアを半分進んだ頃にはすっかり圧を伴った危ない若者といった雰囲気を纏っていた。  驚いたのはその変貌ぶりを間近で見ていた里恵子だ。数分前までとはまるで別人のような危険な匂いが掴んでいた彼のベルトを通してビリビリと伝わってくるのが怖く感じられるほどなのだ。  里恵子が一番最初に冰と出会ったきっかけといえば、唐静雨と一緒に周と鐘崎に復讐を企てていた鉱山での拉致事件だ。あの時も周を助ける為に一大演技をかまして見事に窮地を切り抜けた手腕を目の当たりにしたわけだが、その後里恵子自身も改心して彼らと交流を深める中で、冰本来のやさしい性質に触れていき、彼がどんな人間であるかはよく理解したしたつもりになっていたものだ。  今もきっとあの時と同じように何らかの演技でこの場を切り抜けようというわけなのだろうが、それにしても一瞬と言えるほどの短時間でこれほどまでに纏うオーラを変えてしまえる資質には驚きを隠せない。 (冰ちゃん……? 本当に冰ちゃんよね?)  思わずそんな言葉を掛けたくなってしまうくらいに変貌を遂げた彼の傍らで、里恵子は逸り出す心拍数を抑えるだけで精一杯であった。  そんな中、とあるテーブルの側を横切った時に冰は突如として歩をとめた。そこではカードゲームが行われていて、賭けている客の一人が悔しげに歯軋りをしているのが目についたからだ。  無精髭を生やし帽子を目深に被った、いかにもな風貌の男である。歳は分からないが、若者には見えないから四十代くらいだろうか。 [クソ……ッ! またヤられた……! いったいどうなっていやがる!]  チッと舌打ちと共に男が漏らしたひと言は日本語ではなく、彼の左右にいる客たちにはその意味が分からないようである。男がしゃべっていたのは広東語だった。 [こうまでツキがないとは信じられねえ……! シャングリラでもここまで追い込まれた試しはねえってのによ!]  焦れた態度から察するに、おそらくはえらく前から挑んでいるものの負けが詰んでいるといったところか。それより何より彼が口走った”シャングリラ”というひと言だ。広東語を話しているところから見ても、おそらくは周ファミリーが持つカジノの名であることは明らかと思えた。冰はしばしそのテーブルを窺った後、さりげなくその男の背後に忍び寄ると、早口の広東語でこう囁いた。 [三枚です]  男が驚き、思わず振り返ろうとしたのを咄嗟にとめてもうひと言を付け加える。 [振り返らないで! いいから三枚交換したいと言うのです]  そっと肩に置かれた掌から圧が感じ取れたのか、まるで操り人形のように男は言われた通りに三枚を交換したいとディーラーに告げた。

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