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謀反53

「じゃあ李さん、今のお取り引きの件を早速周さんにお伝えしてあげてください」  冰は嬉しそうに言いながら、客人に出した茶器などを片付け始めた。 「冰さん、我々だけでいる時は『周さん』でなくて構いませんよ」  周が記憶を失くしてからというもの、いつもの『白龍』ではなく『周さん』と呼んでいることに対する気遣いである。李や劉にしてみれば、冰の辛さが充分に分かっているからだ。冰は毎日のように変わらぬ笑顔を見せてはいるが、胸の内では相当に切ない思いをしているだろうと思うのだ。 「李さん……ありがとうございます。でも大丈夫です。俺、正直なところ『周さん』っていう呼び方も気に入っているんですよ。初めてここへ来た頃のことを思い出すっていうか……懐かしい思いもありますし、それに周さんって呼んでると初心に返れるというか、何だか新鮮で!」  言葉通り本当に嬉しそうにそんなことを言う。 「冰さん……」 「そういえば……あの時もそうだったなぁ」  冰は何ともワクワクとした表情で懐かしそうに笑ってみせた。 「あの時――ですか?」  李と劉が共に首を傾げる。 「ええ、あの時! 俺が初めてこちらを訪ねて来た日です。周さんと話している最中に……さっきみたいにこのテーブルに頭をぶつけちゃったんですよ。あの時はすごく緊張してて、すっかりテンパっちゃってましてね」  あれは確か周が雇ってくれることになったことに驚いて、嬉しさのあまり無駄に力が入ってしまったのだ。 「俺ってホントおっちょこちょいで恥ずかしいなって思ってたんですけど、周さんは面白い男だって言ってくれたんですよ。それに……その後テーラーとお茶に連れて行ってくれて、俺もう夢のようでした」  懐かしむようにその頃へと思いを馳せる表情は穏やかで、愛にあふれているように感じられる。きっと周の一挙手一投足を思い浮かべながら愛しさを募らせているのだろう。李も劉も早くその想いが報われる日の来ることを願ってやまなかった。 「そういえば帰って来てからも周さんに言われたんだったなぁ。李さんが俺の住む部屋を案内してくださった時ですよ。周さんはその後すぐに接待の食事で出掛けると言って、いい子で待ってろよって。俺、とにかくいろんなことが凄すぎて緊張マックスになっちゃってましてね。ありがとうございますって頭を下げたら、周さんはさっき俺がテーブルに頭をぶつけたことも覚えててくれたんですよ。些細なことなのにやさしい言葉まで掛けてくれて……俺、すごく感激したのを覚えてます」 「やさしい言葉……ですか? どのようなお言葉だったんでしょう」 「ふふ、俺がまた勢いよく頭を下げようとしたらね、周さんが……」  その時のことを思い出しながらか、冰が片付けようとしていた茶器を置いて、目一杯お辞儀をするゼスチャーをしてみせようとした時だ。   「おい、今度はぶつけねえように気を付けろよ」  張りのあるバリトンボイスが楽しげに言う声が聞こえたと思ったら、そこには隣の社長室の扉を開けた周が不敵な笑みを携えながらこちらを見つめていた。

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