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1 序章

 一年生の夏休みだったと記憶しているが、おばあちゃんの家へ遊びに行った時、俺は不思議な体験をした。その内容は、今ではほとんど思い出せない。まるで夢でも見ていたような気がして、だけど当時の俺にとっては確かに現実だった。    おばあちゃんは遠い田舎の山間部に住んでいた。家の周りは田んぼと畑と山と川しかないけど、虫を採ったりザリガニを釣ったり、タヌキやイタチを追いかけたりして、俺は毎日忙しく遊び回っていた。    ある時、瑠璃色の大きな蝶を追いかけていたら、絶対に入っちゃだめだと言われていた山の深い場所まで迷い込んでしまった。森は鬱蒼として薄暗く、昼間なのに肌寒かった。しかも夕立まで降ってくる始末だ。雷まで鳴っている。泥だらけになりながら道なき道を駆け、ちょうどよく見つけた小さなお堂で雨宿りをした。    とても古い建物だった。柱は腐って折れていて、屋根も床も傾いていたし、壁は穴だらけだった。お堂の周りには崩れた石段みたいなものがあったけど、苔がびっしりと生えていた。全てを掻き消すように、大粒の雨が葉っぱを叩く音だけが響いていた。   「こんなところで何してるの」    突然人の声がした。振り向くと、隣に男の子が座っていた。俺と同い年くらいで、赤い浴衣を着ていた。透き通るような銀の髪で、長い前髪が顔の半分を覆い隠していた。   「雨だから」    俺が答えると、その子は笑う。   「どこから来たの。名前は?」 「シュウ。おばあちゃんちはこの近くだけど、ほんとはもっと遠くに住んでる」 「どんな字書くの」 「字?」 「うん。シュウって、どんな字書くの」 「それならもう習ったよ」    その辺に落ちていた棒切れを拾って、地面に“しゆうや”と平仮名で書いた。   「ほんとはシュウヤって言うの?」 「うん。でもみんな、お父さんもお母さんもおばあちゃんも、シュウって呼ぶよ」 「そうなんだ」 「お前は? 名前」    男の子は俺が拾ってきた棒切れを使って、何か難しい字を書いた。   「読めないよ」 「ねぇ、明日もここに来たら? 一緒に遊ぼうよ」  うん、と言ったような言わなかったような。    気づくと雨は上がっていて、綺麗な虹がかかっていた。ヒグラシの鳴く中、長い影を踏み付けて俺は真っ直ぐにおばあちゃんの家へ戻った。    お母さんにこのことを話したら夢でも見ていたのだろうと言われ、約束を破って山奥に入ったことで叱られた。熊にでも出くわしたらどうするの、と言われたがピンと来ず、ぼんやりしていたのでさらに叱られた。お父さんにはゲンコツをもらった。おばあちゃんだけは俺の話を信じてくれたが、危険だからもう行くなと言われた。    だけど俺は次の日も山に行った。道から入ってすぐのところにあのお堂があって、あの子はそこで待っていた。今日は紺色の浴衣を着ていた。森の中はやっぱり薄暗くて涼しく、小鳥がけたたましくさえずっていた。   「やっぱり来たね」 「うん。でも今日は早く帰るよ。遅くなると怒られる」 「そっか。じゃあ急いで遊ばないと。こっち来て」    後ろをついて、どんどん山奥に入る。木々の間を縫って、獣道を上ったり下りたり。途中転んで服を汚した。   「ほらここ、綺麗でしょ」    着いたのはゴツゴツした岩場。青く輝く泉。確かに綺麗だけどここで何するの、と問うと、彼はおもむろに着物を脱ぎ、裸になって泉に飛び込んだ。水飛沫が跳ねて光った。   「シュウも来て。思い切って飛ぶんだよ。冷たくて気持ちいよ」    ぷかぷか浮かびながら呑気に言う。二階のベランダよりも高くてちょっと怖かったけど、彼が飛び込んだのに俺だけできないなんてかっこ悪い。服を脱いでパンツ一丁になり、足場の岩を蹴飛ばして、空に飛んだ。ふわりと体が浮いたが瞬く間に水中に落ち、水底まで沈む。目を開けると、小さな白い体が見えた。    ざばっと水面から顔を上げる。彼はけたけた笑っている。泉の水は冷たくて気持ちよかった。おばあちゃんの家には去年も来たのに、こんな場所があるなんて全然知らなかった。彼はイルカみたいに優雅に泳ぎ、俺はバシャバシャと飛沫を立てながら泳いだ。    水深は深かったけど、潜って底の砂利に触ることができた。水は緑っぽい青色で、透き通っていた。燦々と降り注ぐ太陽が水面で屈折し、水底に光の網模様を描いている。水面の揺らぎに合わせて、水底の模様もゆらゆらと変化する。まるで絵に描いたような光景だった。    しばらく泳いで、水の中を走り回って転げ回って、水中ジャンケンとか息止め対決とかの遊びをして、遊び疲れて岩場に上がった。タオルなんてないのでずぶ濡れのまま大の字に寝転がる。泉を上から見てみると、昨日見つけた蝶の羽の色に似ていた。   「いっつもこんなとこで遊んでるの?」 「夏だけね」 「お家はこの近く?」 「もっと山の方」 「いいなぁ。俺もおばあちゃんちにずっと住みたいんだ。学校行かなくていいし」 「住んじゃえばいいよ」 「だめだよ。学校は勉強以外は楽しいし、お父さんとお母さんが帰るって言ったら、俺も帰るよ」 「いつまでいられる?」 「んーと、明後日まではいるよ」    俺が言うと彼はしょんぼりとして、寂しそうに笑った。   「そんな顔しないでよ。まだいっぱいあるじゃんか」 「うん。明日もあのお堂まで来てよ。また遊ぼう」  うん、とはっきり答えた。木陰は涼しく、そよ風が梢を揺らす。心地よい倦怠感に包まれて、いつの間にか眠っていた。    気づいた時にはおばあちゃんの家の前まで戻ってきていた。早く帰ろうと思っていたのに、結局今日も日暮れ近くなってしまった。濡れたパンツは乾いていたけど、転んで汚したズボンはそのままで、お母さんに叱られた。    翌日、朝ご飯を食べてすぐに森へ向かった。お堂までの道はすっかり覚えた。あの子はやっぱり俺よりも先に来て待っていた。今日は薄黄色の浴衣を着ていた。俺の方から話しかける。   「今日は虫取りしようよ。かごと網、持ってきたんだ」    彼は虫を捕まえたことがないと言うから、俺がやり方を教えてあげた。  セミとカナブンは虫かごに仕舞い、シオカラトンボを指の先に止まらせて遊んだ。トンボのチクチクした足が肌に食い込むのがくすぐったくて気持ちいい。   「あ! あれ、カブトじゃない?」    彼が言って、振り向くと確かにカブトムシらしい黒い影が飛んでいくのが見えたから、一目散に追いかけた。捕まえて、お父さんに自慢してやろう。彼も一所懸命俺の後をついてきた。だけど結局見失ってしまって、虫かごの蓋が開いていたらしくセミとカナブンにも逃げられてしまった。    残念だったね、と彼が息を切らして言う。   「うん。でもどうせ飼えないからなぁ。お母さんがね、虫嫌いだから。庭でコガネムシ捕まえて飼いたいって言ったけどダメだったし、セミの抜け殻集めてた時もお母さんだけ反対したんだ。俺はかっこいいと思うんだけど」 「抜け殻ブローチ?」 「うん。いいよね、あれ。でもお母さんは気持ち悪いって。だから玄関に並べるだけにした。ねぇ、一昨日ここに来た時さ、青いおっきなチョウチョ見たんだけど、知ってる? すごく綺麗でね、あれならお母さんも飼っていいって言うかも」 「わかんないや。もし見つけたら、きっと見せてあげる」    夕焼け空が眩しい。カナカナカナ……とヒグラシが鳴いている。   「そろそろ帰んないと。今日はねぇ、おばあちゃんが天ぷら作ってくれるんだ。お腹空いてきちゃった」 「そう。じゃあね」 「明日もまた来るよ。明日は一緒にチョウチョ探そうよ。あのお堂で待ち合わせね」  彼はこくりとうなずいた。    その日の夕食は殊更においしく、風呂上がりの牛乳もおいしく、蚊帳の中だって全然蒸し暑くなかった。早く明日にならないかなと思いながら、とってもいい気分で眠りに就いた。      暗闇から誰かの声がする。俺を呼んでいる。早く目覚めろと呼んでいる。  ばちっと目を開けた。裸足のまま縁側から庭に下り、玄関へ回る。あの子が道の真ん中にぽつんと立っていた。手に提灯を持っている。   「どうしたの。俺の家、知ってたの」 「いいもの見せてあげる。来て」    手を引かれて走った。真っ暗闇の森の中、頼りない提灯の明かりだけが頼りだった。   「どこまで行くの」 「もう着くよ、ほら」    いきなり視界が開ける。辿り着いたのは、先日来た泉だった。でも前に見た時よりも広々として見えた。ここ見てよ、と彼が指をさす。泉のほとりの茂みに青紫の花が大きく咲いていて、あの瑠璃色の蝶がちょうど蜜を吸いに来ていた。   「これだよ、俺が見たやつ! こんなとこにいたんだ」    捕まえてお母さんに見せたいと思ったけど、パジャマのままで来てしまったから虫かごも持っていないことに気づいた。   「捕まえなくたって、きっとまた会えるよ」 「そうかなぁ」 「うん。今晩はもうどこにも行かないでここにいるって」 「虫と喋れるの?」 「わかんない。おれ、ちょっと泳ぐよ」    そう言って浴衣を脱いだ。今まで暗くて見えなかったけど、今夜は薄紫の着物だった。その下には真っ白い薄手の浴衣を着ていて、それは脱がずに泉に飛び込んだ。    その瞬間、さあっと雲が晴れて、大きな満月が姿を現した。空から落っこちてきそうなくらい大きなお月様だった。泉に映った満月は、彼が泳ぐのに合わせて形を変えた。夜空は青く光り、水も青く光り、蝶の羽もリンドウの花も青く光った。   「俺も泳ぐ!」    立ち上がって、パジャマのボタンを外した。   「シュウはダメだよ。そこにいて」 「なんでよ、泳ぎたい」 「ダメだったら。夜だから風邪引いちゃうよ」 「引かないよ。お前は泳いでるじゃん」 「おれはいいの。それに、お母さんになんて言い訳するつもり? 濡れて帰ったら、きっと怒られるよ」 「うーん……確かに……」    お母さんが赤鬼のようになって怒る様を想像し、俺はボタンを留めた。   「そこに座って、おれのこと見ててよ」 「なんでお前はいいの。お母さんに怒られないの?」 「おれお母さんいないもん。だから誰も怒らないよ」 「えー、お母さんいないの? リコンしたの?」 「リコン? 何それ」 「知らない? リコンって言うのはねぇ……」    とりとめのない話をした。銀色の満月に照らされて優雅に泳ぐ彼の姿は綺麗なんてもんじゃなかった。神様が下りてきたって言っても過言じゃないくらい綺麗だった。彼の体も青く光って見えた。思わず見惚れていた。    しばらくして彼は水から上がり、俺の隣に座った。濡れて乱れた髪が頬に張り付いていた。毛先に残ったたくさんの雫がきらきら光った。真っ白い浴衣もぐっしょり濡れて、体にべったり張り付いていた。体のラインと肌の色が透けて見え、何とも言えず変な気分になって目を逸らした。   「ねぇ、おれのこと、忘れないでいてくれる?」 「わ、忘れるわけないよ。当たり前じゃん」 「本当? でも今日帰っちゃうんでしょ」 「あ、そうだった……でも、来年もきっと来るから。そしたらまた遊ぼう。絶対絶対忘れないよ」 「うん。忘れないで。覚えていて」    彼は俺の顔をじっと覗き込む。至近距離で見て初めて、その瞳の色が普通と違うことに気づいた。あの輝く満月と同じ色をしていたから、俺はきっと月夜の度にこの子のことを思い出すのだろうなと思った。      朝起きると、夜寝た時と同じように布団の中にいた。暑かったから掛布団は蹴飛ばしていたけど、蚊帳はそのまんま吊ってあった。いつの間に夜が明けたのだろう。いつの間に家まで帰っていたのだろう。俺は急いで庭に出た。足は既に泥だらけだった。   「ちょっと柊! 何やってるの!」    俺を起こしに来たらしいお母さんが甲高い声を上げた。   「何してるの、裸足で外に出ちゃダメでしょ!」 「で、でも、あいつが……」 「こんな朝早くからお友達は来ないわよ。それに何、布団までどろどろじゃないの! あんた、お母さんが来るまでに庭で遊んでたのね?」 「あ、えっとぉ……」 「あんたって子はほんとにもう。急いで雑巾持ってくるから、そこから動くんじゃないわよ」    叱られながら足を拭かれ、布団カバーは洗濯行きとなった。  断片的にしか覚えていなかったが、昨晩のことを一所懸命思い出して話しても、お母さんはやっぱり信じてくれなかった。夢に決まってるじゃない、と言われた。   「ほんとなんだよ! 綺麗な湖があってね、あっ、珍しいチョウチョもいたんだ」 「湖? 去年行った五色沼の話でもしてるの?」 「違うよ! あんなんじゃなくて、もっと小さくて、森の中にあって、木が生えてて、岩もあって、花が咲いてるんだ」    おばあちゃんが言うには、確かにこの山には湧き水があるらしいが、ここから歩いていくにはあまりにも遠く、子供の足で一晩のうちに行って帰ってこられる場所ではないらしい。だから、俺の見たものは全部夢か幻だろうということになった。    それでも俺は納得できず、彼にも昨晩のことを証言してもらおうと思ってあのお堂を探したが、ついぞ見つからなかった。  俺と同い年くらいの男の子を知ってるかとおばあちゃんに尋ねたが、集落には若い子がもう一人も残っていない、もちろん子供なんていないよと言われた。    じゃあ、あの子は一体どこの誰だったんだろう。翌年会えることを楽しみにしていたのに、俺はそれっきりあの村へ帰っていない。

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