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3 大学編 5 晩夏‐① 温泉に行った

 七月末からテスト週間、加えてレポートの提出に追われ、慌ただしく日々が過ぎた。八月もアルバイトや親戚の集まりなどがあって忙しく、本当の意味で夏休みが到来したのはお盆を過ぎてからだった。    九月某日。早朝五時。洗面所を占領していたら、母さんが起きてきた。   「ちょっと柊? こんな早くから出かけるの?」 「昨日そう言ったろ。遠いんだから早く出ないと」 「ふぅーん。お友達と温泉旅行ねぇ。あんたがねぇ……」    何だその含みを持たせた言い方は。こっちは急いでるんだから邪魔しないでほしい。ばたばたと廊下を走り、リビングで荷物の最終チェックをする。   「悪かったよ、急に車使いたいなんて言い出して。事故んないように気を付けるからさ」 「やぁね、そんな小言が言いたくて起きてきたわけじゃないわよ。ただまぁ、事故にはせいぜい気を付けなさいね。遠出したことないんだから」 「わかってるよ。安全運転だから早く出るんじゃん」 「はいはい――じゃなくて、お小遣いあげようと思って来たのよ。はいこれ」    一万円札を裸のままぽいっと渡される。こんなことって初めてだ。   「大した足しにはならないけど、これでおいしいものでも食べてきなさい」 「い、いいよ別に。俺だって一応バイトしてるんだから」 「馬鹿ねぇ、もらえるもんはもらっときなさい。お土産に温泉饅頭でも買ってきてくれればいいから。ほらほら、約束の時間に遅れるわよ。荷物積んであげるわ」 「い、いいって。わかった、自分でやるから……」    もらったお金はとりあえずポケットに突っ込み、リュックを背負って玄関を出る。なぜか母さんもついてくる。   「昨日パパがガソリン入れてくれたから。満タンでしょ?」 「うん、ありがとうって言っといて」 「ナビの使い方わかるわよね? ETCは専用のレーンを通らないと使えないからね」 「大丈夫、わかってるから。何回聞かされたと思ってんの」 「疲れたらちゃんと休むのよ」 「わかってるよ。行ってきます」    窓越しに軽く手を振り、ようやく家を出た。    母さんは何も言わなかったが、妙な事を勘付かれているような気がして恥ずかしい。友達って言ってるけど本当は彼女なんじゃないの? なんてわざわざ言葉にしなくても、思考は案外伝わるものだ。何しろ親子だから。    アパートに寄って瑞季を拾ったらいよいよ出発である。瑞季は今日も着流し姿で、深い青緑色の着物に明るいグレーの羽織を着けている。色味は落ち着いているが、着物の方は全身に麻の葉文様が描かれているので、ぱっと目を引く華やかさだった。   「まさかお前が運転できたなんてな。特別な訓練を受けた人しかできないと思ってた」 「俺も受けたよ、特別な訓練」 「そうなのか!」 「わざわざ教習所通ってさぁ……」 「車の学校? そこ行ったら運転できるようになるのか」 「いや、その後試験受けて、受かったら免許がもらえる」    無駄話をして余裕ぶっているけど、実は結構緊張している。高速道路に入ったからだ。アクセルを踏んでスピードを上げる。シーズンじゃないせいか幸い道は空いていて、焦らずに走ることができた。   「酔いそうとかトイレ行きたいとかあったら早めに言えよ。あ、音楽聞くか?」 「ううん。歌とかよくわからないし」 「じゃあ適当にラジオでもつけとくか」    ハンドルに付いているボタンでピピッと操作する。   「高速道路って初めてだ。信号がないんだな」 「だからスピード出せるんだ。今百キロ出てるぜ」 「速い?」 「下道だったら六十キロしか出せねぇもん。速いよ」    一時間ほど走ったところで、サービスエリアに立ち寄った。埼玉の北西部まで来ていたから周囲は畑ばっかりで、のどかな風景が広がっていた。時間が早いので閑散としていたが、フードコートのラーメンとカツサンドはおいしかった。    そこからさらに北へ三十分ほど。高速を降りて下道を行く。何もない山道だ。一応国道らしいけど目立った店や建物もない。奇跡的に見つけた道の駅で休憩を挟み、一時間半ほどでやっと目的地が見えてくる。にわかに街は活気付き、歩行者も増えて道は狭くなる。景観を壊さないためか、コンビニの外観が渋い。   「そろそろ着くから起きて」    助手席でうとうとしていた瑞季ははっと顔を上げる。   「ごめん、寝てた」 「いいよ、長旅だったもんな」 「でもお前の方が疲れただろ。ごくろうさま」    家を出て四時間弱ってところか。確かに疲れたけど、お楽しみはまだこれからだ。ホテルの駐車場に車を停め、早速街を散策する。スキー場が近くにあるくらいだから標高が高く、思った以上に肌寒い。上着を一枚持ってきてよかった。   「どこに行く?」 「やっぱりまずはあそこだろ」    街の中心部にある巨大な湯畑。大量の温泉が湧き、滝のように轟々と流れ落ちる。立ち込める湯煙、匂い立つ硫黄。これこそまさに温泉地。心が浮き立つ。エメラルドグリーンの変わった色合いの湯を、瑞季も真剣に見入っている。   「これって、どうしてこんな風に川みたいにしてるんだ?」 「確か、熱いお湯を冷ましてるって聞いたことがある。源泉そのままだと熱すぎて入れないんだと」 「へぇ。よく考えたもんだな。この中には入れないのか?」 「駄目だろ。あっちに足湯あるから入ろう」    贅沢にも湯畑を望む位置に、東屋のような造りの足湯がある。他の客はおらず、貸切状態だ。瑞季は足袋を脱ぎ、着物の裾を捲って足を浸ける。   「あちっ」    ほっそりとした白い足が赤く色づく。俺も靴下を脱ぎ、爪先を浸けた。   「あっっつい」 「だろ」 「ううー、じんじんくる」 「でも慣れると気持ちいいな。あったかい」    機嫌よく笑ってぱしゃりと湯を蹴る。   「この湯葉みたいのは何だ」 「湯の花じゃない?」 「温泉にも花が咲くんだったか」 「いやその花じゃなくて……ほらここに書いてある。温泉の成分が固まったやつらしいよ」    足湯の後、ぶらぶらと食べ歩きをした。木組みの建物、風情ある街並み、こういうのも温泉地っぽい。温泉饅頭屋が何軒かあって、いくつかはしごして食べ比べた。   「俺はやっぱりこしあん派かな。口当たり滑らかだもん」 「いや絶対つぶあんだろう。こっちの方が良い小豆を使ってるんだぞ」 「でも粒々が苦手なんだよなぁ。ほら、こっちの白あんも美味いよ、食ってみ」 「ん……どれも皮がふかふかでうまい」 「うぐいすあんもあるからな」    俺の手から饅頭を一口齧る。頬を膨らませてもぐもぐ頬張る。変わり種で揚げ饅頭ってのも買ってみたけど、衣の塩味があんこの甘さを引き立ててなかなかおいしかった。饅頭以外にも煎餅や温泉卵、昼食代わりに焼き鳥や鮎の塩焼きなんかも食べた。足湯に浸かって茶を飲めるという、この場所ならではの喫茶店もあった。    土産物屋も見た。お菓子の他には、ガラス細工やファッション雑貨が売っている。母さんへのお土産に化粧品を買っていってもいいなと思いながらぶらぶらと通りを歩いていたら、瑞季がふと立ち止まった。つられて俺も足を止める。   「どうしたの」    ぼんやりと店の看板を見ている。   「射的やりたい?」 「……射的?」 「今見てただろ。入ってみようか」    雑多に飾り付けられた狭い店内。棚にずらりと景品が並び、手前のカウンターにはコルク銃が並ぶ。瑞季はきょろきょろと店内を見渡し、銃を手に取ってしげしげと眺めた。   「射的やったことない? お祭りとかで」 「ない。噂には聞いたことあるけど……これがあの銃か。思ったより軽いな」 「そりゃ玩具だもん。やってみるから見てろよ。ここにコルクを入れて、こうやって……撃つ!」    カウンターから身を乗り出し、狙いを定めて発射した。軽い音を立て、狙った的がうまいこと倒れる。瑞季は手を叩いて喜ぶ。   「すごいな。お前、射撃の才能もあったのか」 「“も”? 俺って他にも才能ある?」 「うん、剣術とか」 「剣術……剣道のこと? 確かにずっとやってたけど……」    そのことを瑞季に話しただろうか。小学生の頃から近所の道場に通っていたのに怪我をしてあっさりやめたなんてかっこ悪くて話せないな、とずっと思っているから話していない気がするけど、俺の記憶違いだろうか。瑞季が知っているってことは、やっぱり俺から話したのかな。自分の記憶が当てにならない。   「お前もやってみる?」 「いや、お前がやってるとこ見てる方が楽しい。様になっててかっこいい」 「そ、そうかな」    そんな風に褒められたら照れるし気合が入る。   「じゃあ景品取れたらお前にやるよ。ほしいのある?」 「じゃあ、あのクマのぬいぐるみがいい。茶色いやつ」 「あー、テディベアね。いいよ」    とは言ったものの、あれはたぶんこの店で一番メインの景品だ。棚の一番上の一番目立つ場所にどんと置いてあって、交換に必要な点数も高い。なかなか高難度のおねだりをされてしまった。    高得点の的ばかり狙って撃つがなかなか倒れず、玉をもう十発買ってようやく目標の点数に到達した。約束通りクマのぬいぐるみと交換し、瑞季に渡す。抱っこにちょうどいいサイズでかわいい。   「ありがとう」 「でもなんでクマ? 好きだっけ」 「別に、あそこにあった中で一番かわいかったから」 「そんな理由かよ。取るの大変だったんだぞ」 「うん。だから大事にする」    ぬいぐるみを胸に抱いて嬉しそうに微笑むから、細かいことなんかどうでもよくなってしまう。兎にも角にも射的が得意でよかった。

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