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3 大学編 5 晩夏‐⑤

 翌朝、朝食の十分前に起きた。一緒に寝たはずの瑞季はもう起きていて、縁側の椅子に座って景色を眺めていた。昨晩の淫靡な雰囲気から一転、朝の高原にふさわしい楚々とした横顔。俺が起きたのに気づいてこちらを振り向く。   「おはよう」 「先起きたなら起こしてよぉ。遅刻しちゃうじゃん」 「だって気持ちよさそうに寝てたから」 「もー、いいから早く行こう。場所どこだっけ、二階?」 「その前に着物、直した方がいいな」    着付けが雑だったか寝ている間に崩れたか、ほとんど裸の状態だった。親切にも瑞季が手ずから着させてくれる。   「へへ、なんか新鮮かも。一緒に住んだら毎朝こんな感じなのかな」 「も、ばか言って……今日だけ特別だ」    照れつつも丁寧に帯を結んでくれた。鍵を持って部屋を出る。   「朝飯、バイキングだって」 「ばいきん?」 「バイキング。すげぇ楽しいよ。色んな料理がいっぱい並んでて、好きなものを好きなだけ食べ放題なんだ」    会場は既に混み始めていた。瑞季と二人で連れ立って、料理を取る列に並ぶ。   「とりあえず一周しよう。ほしいのあったら、自分で皿によそうんだよ」    それにしても、バイキングってどうしてこう楽しいんだろう。料理を選んでいるだけでわくわくする。何を食べようかな。スクランブルエッグとソーセージは絶対だけど、和食や中華のおかずも多いし、焼き立てパンも数種類並んでいて目移りする。   「ねぇ」    くいっと袖を引かれる。   「あそこ、すごく混んでる」 「気になるの? 行ってみようか」 「うん」    そこは、シェフが目の前で調理してくれるスペースだった。トッピングの具材を選ぶとその場で溶き卵と混ぜて焼いてくれ、出来立てのオムレツを出してくれる。おいしそうなのでもちろん並んだ。    こういうオープンキッチンのスペースは他にもあった。フレンチトーストとパンケーキ。その場に行って一枚とか二枚とか注文するとすぐに焼いてくれ、熱々の状態で食べることができる。メープルシロップなどのソースも自分で掛けられるし、トッピングでアイスやクリームを載せることもできた。   「でもカレーは必ず食べちゃうよね」 「そうなのか?」 「そうそう。ホテルごとの味が一番よく出るのがカレーらしいよ。お前はとにかくうどんが好きだねぇ」 「この地方の郷土料理らしい。結構おいしいぞ」    他には漬物や佃煮が並ぶ。なかなか渋いラインナップであった。    朝食を終えて少し休憩した後、帰る前にもう一度露天風呂に入った。男湯と女湯は毎日交代制らしく、昨日は檜風呂だったけど今日は岩風呂だった。夜と比べて景色もがらりと変わる。初秋の山々を遠くまで綺麗に見通せる。   「朝のお風呂もいいねぇ」 「もう朝ってほどでもないけどな」 「細かいことはいいんだよ」    そこまで賑わっているわけじゃないけど、昨日の深夜よりは確実に混んでいる。帰る前にもう一回と考える人が多いんだろう。   「そういえば、体大丈夫なの」 「体? なんで」 「いや、だから、昨日の……」    自分から話を振っておいて恥ずかしくなった。起きた時から元気そうだったし、ごはんもよく食べていたから気にならなかったけど、昨晩の行為で瑞季に多大な負担を強いてしまったのは事実であって、だから急に心配になったのだ。   「何を赤くなってるんだ。のぼせたか?」 「ちが……いやほら、腰とかさ、痛くないのかなって。でも何ともないならそれでいいや。お前、案外丈夫なんだな」 「腰?」    瑞季は首を傾げてするりと尻を撫でる。その手付きさえ艶めかしく感じてしまう。そんなつもりはさらさらないってわかってるけど。   「ああ、昨日のことか」 「やっと伝わった?」 「全く、こんな場所で何て話をしてるんだ。というか、それで言うならお前の方がたくさん動いてたわけだし、お前の腰の方が心配だぞ」    瑞季は今度は俺の腰を撫でようとしてくる。純粋に心配してくれてるだけってわかっているけど焦る。   「いやいや、いいから。俺だって別に平気だし」 「本当か?」 「ほんとほんと。でもちょっとのぼせたから先出るわ」 「えっ、じゃあおれも」    連れ立って風呂を上がった。脱衣所の外に麦茶コーナーがあり、少し休憩してから部屋に戻った。    それにしても、あんなに小さい体で案外丈夫だ。腰だけじゃなく……本来の用途とは百八十度違う使い方をした場所だってあるのに、痛いとか怪我したとかならないものなんだなぁ。人間の体は意外と汎用性が高い。    さて、名残惜しいがそろそろチェックアウトのお時間だ。荷物をまとめ、フロントで鍵を返し、ホテルを後にした。今日の瑞季は藍色の着流しに昨日と同じグレーの羽織という出で立ちで、昨日と同じ仲居さんにまた褒めてもらっていた。    帰る前にもう一度街へ出て、軽く観光をした。湯畑付近のお店でお土産を選ぶ。温泉饅頭を箱で買い、バウムクーヘンもおいしそうだったので何となく買ってみた。母さんのために、美肌になるという洗顔石鹸も買った。   「自分用には何も買わないのか」 「あー、考えてもなかったな。お前こそ、何も買わないの」 「おれにはくまちゃんがいるから」 「車に置いてきちゃったけどね」 「だって汚れたら困るだろう」 「大事にしてもらって、くまちゃんもきっと喜んでるよ」    お昼に蕎麦と天ぷらを食べ、午後二時頃出発した。旅行もいよいよ終わりに近付いているのだと思うと寂しくて、無駄にサービスエリアへ立ち寄り、お腹も空いていないのにソフトクリームを食べ、長々と休憩してしまった。    四時間ほど運転してほとほと疲れ果てた頃、ようやく瑞季のアパートへ到着した。すっかり日が暮れ、黄昏時と呼ばれる時間帯に入っている。行きと同じく、瑞季は道中ほとんど眠っていた。膝にはぬいぐるみを抱えている。   「着いたよ。起きて」    揺するとはっと目を覚ます。   「ごめん、また寝て……」 「いいよいいよ。荷物、ちゃんと持った?」 「う、うん」    瑞季は慌ただしく車を降りる。俺は運転席の窓を開けて顔を出した。   「じゃあ、えっと……今日は付き合ってくれてありがとう?」 「何だよ、そんなにかしこまって」 「だってほら、わざわざ遠出して一泊なんて、まだちょっと早いかなぁって思ってたからさ」    窓越しに無駄話を続けて時間を稼ぐ。   「だから、お前が来てくれて嬉しかったっていうか。楽しかったし」 「おれの方こそ、誘ってくれて嬉しかったし、運転してくれたのもありがたかった」 「なら、来年もまた行こうか。他のとこでもいいけど……」    ああ、帰りたくないなぁ。思わず溜め息が出る。胸が切なく痛む。この二日間ずうっと一緒に過ごしてきたのにまだ足りない。もっともっと一緒にいたい。どうしても別れがたい。でもいつまでもこうしているわけにもいかない。   「じゃあ……そろそろ帰るな。親の車だからいつまでも占領してちゃ悪いし、きっとお土産待ってるだろうし――」    車を発進させようとしたが、待って、という瑞季の声に遮られた。何事かと尋ねる間もなく、唇に優しい温度を感じる。   「っ……ごめん。なんか、寂しくなっちゃって」    瑞季は照れくさそうに笑い、そわそわと髪の毛を弄る。  瞬間、愛しさが抑えられなくなって爆発した。窓から腕を出し、瑞季の手をぎゅっと握る。瑞季はわずかに目を見開き、驚いたような顔をする。   「だったらいっそのこと、もう一泊しちゃおうぜ。今夜泊まってもいい?」 「い、いいけど、いいのか?」 「全然いいよ。実は俺もちょっと寂しくってさ」    俺が言うと、瑞季は破顔してうなずいた。    車と荷物を置くため一旦家に帰ると、真っ先に犬が出迎えてくれた。久しぶりの我が家はやっぱり安心する。見慣れた風景、嗅ぎ慣れた匂い、肌に馴染むソファやカーペットの感触。父さんはまだ帰らないが、母さんはちょうど夕飯の支度を始めるところだった。   「あら柊、おかえり」 「ただいま」 「車、擦ったりしてないでしょうね?」 「してないしてない。安全運転だったかんね」    お土産を渡すと大いに喜んでくれたが、封を開けるのは父さんも来てからにしようということで、箱ごと仏壇に飾った。友達の家に泊まることになったと伝えると、ずいぶん仲がいいお友達なのねと揶揄われたが、ダメとは言わずに送り出してくれた。犬の散歩は今夜も明朝も俺の当番だったが、特別に交代してくれた。    自転車に乗って駅前まで寄り道をする。コンビニで買い物をし、ツタヤで映画を借りて、瑞季のアパートに戻る。夜風は秋を感じるが、あちらと比べればまだまだ暑い。半袖で十分過ごせる。    その晩、一応やることはやるつもりで準備していったのだが、お互い疲れていたせいか結局何もしなかった。ジュースと菓子を片手に映画を見ながらうとうと微睡んでいるうちに、すっかり眠ってしまったらしい。瑞季の部屋もほとんど我が家みたいなもんだから、そこに染み付いた匂いや慣れたクッションの肌触りに安心し、気が緩んだのだと思う。

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