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第24話

 遠慮する山鳩を引っ張り、咲桜(さくら)は風呂に入った。薬湯が傷に染みる。背中にも擦傷があったらしく、縫傷の薬を飲み忘れたことに気付いた。 「傷が染みるよぉ、山鳩クぅン」  乱暴に身体を洗う山鳩の後姿を眺めながら湯に浸かり、身体中が溶けていきそうだった。そのまま寝たくなってしまう。巴炎と入ったときはこうはいかない。ひとつひとつの洗い方が執拗で、身体に力が入るのだ。傷に障るといって湯舟に入ることも許されなかった。 「えっ、だいじょぶですか、?」  泡にまみれた健やかというより少し痩せた身体が大きく捻られ咲桜を向いた。 「早くこっち来て~」 「もうすぐ、終わりますから!」  傷んで跳ねた髪の濡れた姿が慌てている。リスみたいだった。青藍の存在は彼にとって脅威であり、火子との関係を左右する枷ではあったようだが、彼の中にしっかりと結ばれて根付いた相手ではないらしかった。見る者によってはそれを薄情と捉えるかも知れない。しかし咲桜にとっては真っ当な反応だった。稲城長沼だけでなく、この少年の肉にも焼き痕がしっかりと目立っていた。青藍が昏睡状態にある時まで怯えている必要はない。また、蹴られ犯され罵られておきながら、弱り切っているときに寄り添う必要もない。 「こっちおいで」  泡の消えた少年が湯舟に入り、咲桜は彼を捕まえた。幼い兄弟みたいにじゃれあった。軍役中も仲の良い年少者を見つけては人懐こく戯れたものだった。明日にはどうなるのかも分からない命は、不思議と内気で根暗な彼を人好きにした。腫物になるまでは。  陽気で人好きのする弟とは離れていた。それもひとつの理由だったのかも知れない。それがふと閃いた。山鳩を後ろから抱き締める。果実のような肩を齧りたくなった。 「咲桜様?」 「翠鳥クン。翠鳥かな。やっぱちょっと照れるから慣れるまで翠鳥クン」  薬湯の匂いが鼻を占める。淡い緑色を帯びた乳白色の雫がはりのある肌を滑り落ちていく。両腕の外側の瑞々しい皮膚に爪痕が引いてある。生々しくも乱暴な情交の痕だ。何者かが彼を抱く時に、左右に交わされた手で描いた線に違いない。瘡蓋になり、所々剥がれている。自分ではないかと疑った。 「咲桜さん……」 「ん?」 「いえ。おで、咲桜さんが無事に帰ってきてくれて、嬉しいなぁって」  屋敷の者がひとり寝たきりの状態にあるというのにこの2人は呑気なものだった。風呂から上がると稲城長沼が立ちはだかり、無表情無言のまま山鳩に迫った。咲桜は真横のそれを見ていた。両肩を握り、後退する少年を押しこくる。山鳩は稲城長沼を不思議げに見上げ、稲城長沼は無表情を崩し、己は被害者だとばかりの顔をして少年を見下ろしていた。互いに口を開かない。 「どしたの」  第三者にされている咲桜が訊ねた。稲城長沼は薄い目蓋を下ろした。恋慕と嫉妬の苦痛に討ち打ち(ひし)がれた哀れな惨敗狗(まけいぬ)の様相がそこにある。 「色悪のもとに入り浸るのはやめてほしい」  場が凍り付いた。突飛な台詞は発言者が誰であるのかも分からなくなった。懸想している少年を壁に追いやっている忍びの言葉だ。 「おい菖蒲馬(あやめ)」  縁側で話していたのが悪かった。よく手入れされた垣根が蠢く。咲桜は頭を抱えた。厄介な人物が乱入したのである。この屋敷に滞在していることを忘れていた。客人ゆえにすでに一番風呂を愉しんだこの者は三河安城(みかわあんじょう)だ。片足ずつで地割れ地響きを起こすような羆みたいな大男は無遠慮に縁側へ半分腰掛け、片脚で胡座をかいた。 「そが洟垂れ坊主にホの字、レの字け?」  まだ聞き取りやすい訛りで巨体に比例した目は稲城長沼を射し抜いた。 「結婚(けつご)し。結婚(けつご)し。(わて)三河安城(みがわあんじょ)が祝うたるけんね。菖蒲馬よ、探り士なんぞの阿保漕(あほうこ)ぎみてな生業(なりうぇ)は辞めちめ」  すでにこの場は稲城長沼の種違いの姉の夫によって制されていた。 「お()さん何地方(どご)の子さ」  巨熊男の獲物を狙うような爛々とした目が小鼠を捉えた。 「おでは、ここの村で生まれました……」 「どごの家さん」 「わ、分かりませんです……」 「するってぇと親無し児け。ほなら、お前()さん、菖蒲馬と三河安城(みがわあんじょ)になれば良かんとす」  満足したように家名の分大きな顎で頷いた。稲城長沼は押され気味で、山鳩も事態を良く呑み込めていない様子だった。 「ちょっと!勝手に話決めないでくださいよ」  咲桜が喚く。 「この子は心に決めてる人がもう居んの!横から家柄に物言わせて掻っ攫うんじゃないよ」  三河安城は色落ちしたような海苔のような眉を片方持ち上げた。 「はったりかも知れんよ」  大きな手が逞しい顎を撫で、舐めるように咲桜を見るとあからさまに彼は訛りを抑えた。 「はったりなものかいや」  大男は咲桜に興味を失い、また義弟の婿御に品定めするような眼差しをくれた。 「あ、あ、おで、陸前高田様のおっしゃるとおり、心に決めた殿方が、ございます、ので…………」  殿方、という表現に咲桜は肩を竦める羆男から目を離した。 「寝取るち()うんもまた醍醐味っちゃきねぃ。(わて)は野州山辺さんとこの次男坊が起きんなさるまでここに居ますけん、気ぃ変わったらいつでも言ってくんろ」  彼は膝を叩いてまた垣根のほうに行ってしまった。どうやら猫を探しているらしい。義弟を可愛がる結果、その義弟は自ら壁に押し付けた年下の想い人から怯えと疑いの目を向けられていた。山鳩が怖がっている点を除いては咲桜にとって愉快極まりな情景だ。 「何?どゆ、こと……?ごめ、おで無学(バカ)で…………よく分かんない…………」  山鳩は第三者の野州山辺の寄食男に頼ろうとはしなかった。冷汗をかいているらしい忍びをその身長差から見上げている。青藍に嬲られ甚振られた日々がこの少年をあざとくさせた。 「…………心に決めた相手というのは、」 「ふ、深い設定(イミ)はないよ…………おで、火子(あかね)ちゃんと一緒がいいから、誰とも………………」 「隠し事をしないでくれ。君が………山麓の私娼窟に入り浸っていると聞いた」  この発言に答えたのは咲桜だった。 「誰が?」  稲城長沼は黙った。 「お宅ほどの人が発生源調べもせずに突撃しないでしょ」  長い睫毛で覆われた双眸が不用意な色気とともに山鳩へ戻る。 「あ、何!今その真偽を本人から確かめようって算段なワケ?ンなこと訊いたら気にするじゃん。大体山鳩クンってここの次男坊が一人占めしてなかった?」 「その話ではまだ庭番をしていた頃だと言うんです。まだ住み込みも許されていない頃……夜間に外出したという目撃情報も上がっております」  それはすべて事実であることを床を泳ぐ目が認めていた。意外だった。咲桜もすぐに呑み込めなかった。しかし尋問官の前に割り入った。 「なるほどね。ちなみにこれはオレの単純な疑問なんだけんども、オレの翠鳥が私娼窟に出入りしてるって、何か問題なワケ?」  稲城長沼は目を見開いたかと思うと切なげに目蓋を伏せる。ひとつひとつの仕草が余計なほど妖艶である。 「私娼窟でよからぬ患いを持ち込まれることを危惧しております」 「それはオレもだね?オレから彼かも知れないよ。オレだって外地の、しかも享楽人、女遊び師なんだから」 「誰しもが持ち得ていることは大前提でございます。そのうえで、さらに可能性を高める行いをすることに問題があります。陸前高田様はとにかく彼は…………庭番の頃から若様の伽役も兼ねていましたから」  辿々しく稲城長沼の傷の治りかけた唇が動いた。 「しかし(わたくし)は、そんなことよりも、一個人として真偽を知りたい……」 「ホントだよ」  稲城長沼は眉根を寄せ、目を閉じ、沈痛に浸る。 「でも、何もない。(やま)しいこと、なんもしてない。読み書き教わって、足が悪いから、おうちのお手伝いしてただけ……」  落胆を見せる年上の友人に、山鳩はわずかばかり強気になって出た。そしてそのまま拗ねた、誰しもが敵というような表情をして少年は咲桜のことも睨んだ。 「それが罌粟朱(けしあか)郡の寺子屋です。おで、ホントに疑われるようなコト、なんもしてません。ホントです。だから、相手の人に迷惑かけたりしないで」 「分かった。それならその話は否定しておこう。山鳩さん……おれは貴方を疑ったりしていない。ただ、苦しい」 「どうして?やっぱりホントのホントは疑ってるから?」  稲城長沼は首を振った。少年はそれを困惑して見終え、次にはやはり困った様子で咲桜を見る。 「でも、なんで今になって……?おで、もう行ってないのに」 「稲城くんの耳が遅かったんでしょう。気にしなさんな。若旦那があんな状態で、ちょっと好き放題になってるんじゃない?」  最後は稲城長沼に対する嫌味だった。鬼雀茶衆が中弛みしてやしてないかと。しかし恋慕の爆炎に身を焦がしている若者には通じていなかった。 「失礼します」  忍びは深々と礼をして去っていく。山鳩は彼の背中を消えるまで見つめていた。 「山鳩クン 」 「庇ってくださって、ありがとうございました」 「そんなの別にいいよ。湯冷めする前に行こうか」  茫然としている肩を抱く。彼の小さな頭が頷いた。中紅梅の壁がある部屋へ帰る。文机の前に火子が立っていた。開け広げた襖の奥の陰に彼女は肩を跳ねさせて驚いた。咲桜も何をしているのかと問おうとして口を噤む。 「あたくし、もう何がなんだか……」  山鳩は彼女の傍に飛んでいった。幼い姉弟のようでいて並ぶと弟みたいなのはしっかり姉貴分よりも背が高かった。  文机は無惨にも真っ黒い液体で汚れていた。中紅梅色の壁にまで飛んでいる。液面は鏡のようになって光っていた。 「何これ?」 「分かりませんが、おそらく墨のようです。あたくし、墨なんて持っていませんわ……」  彼女は汚された机の脇にある抽斗(ひきだし)の3段あるうちの真ん中を引いた。横長で撫で肩ような曲線を描く薄い異国墨(インク)瓶を確かめる。黒い液体はその瓶の中から出たものではないらしかった。 「陰湿だな」  咲桜は火子を山鳩に預け、文机から遠ざけた。黒い液体を間近で眺める。天井板を仰いでも、雨漏りしているということもない。壁への跳ね方や畳への飛び散り方からいっても、故意か事故か文机の前から零している。量からいうと故意的を疑った。 「これは、ちょっとこのままにしておこう。こういう変なこと、これが初めて?」 「それが……実は、」  少女の唇が震えた。幼馴染と身を寄せ合って咲桜に縋るようだった。 「花が置かれていたり、この前は、簪が……」 「ほぉ!」  思い当たる節がある。土瀝青(どれきせい)―アスファルト―色の取り澄ました双眸が眼球裏に留まっている。 「けれど、この前はカラスの羽がありましたの。お風呂から上がって、すぐです。脱衣所のところに…………羽だけだったのですけれど、猫の仕業だと思いました。聞いたことがありますから。猫が生き餌を持ってくるというのは…………」 「いやぁ、とんでもない飼い猫がいたもんですわ」 「あ、あ、あかねちゃ、だいじょぶなの?」 「だいじょうぶ」  幼馴染に呼応して背伸びをしている娘もあどけない喋り方をしてからまた背伸びをする。 「お兄さん、このことは内密に……お父様にはただでさえ悩みの種が多いものですから…………」  機嫌を窺うような目の意図が分からず、咲桜は首を傾げた。何か伝えようとしているのなら、あまりにもその手掛かりは薄い。 「ああ、うん。あの人はいつも悩んでるからね。でもあんまり酷いようならすぐ言いなさいよ。どんな悩みよりも娘の身の危険が一番の重要事項なんだからね」 「あの、本気なんですの?それとも、その……とぼけていらっしゃるだけ?」 「え?何が?」  栗色の毛が揺蕩う。 「いいえ。あたくし、何か勘違いしてたみたい。お父様のお悩みをお兄さんが知っているものと思っただけです」 「村のことでしょ、弟とのこと、君のことでしょ、あとはその他諸々、大きな家名(いえ)の主としてのなんかそういうの」  指折り数えていく様を火子は真剣に眺めていた。そして小さく肩から力を抜いた。 「そうなんですの……」 「うん。だから本当に、あと1回こういうことがあったらお父様に言いな?」  彼女は拗ねたように唇を尖らせながらも素直に首肯した。少年は元気付けているのか令嬢となった幼馴染の細い肩を軽く叩いた。馴れ馴れしいその仕草が許されるまでの関係に戻っている。そこにすっかり、寄生虫みたいな生活者は気を奪われていた。 「あ、あの、咲桜様。お屋形様は、多分、咲桜様のことも、お考えです、きっと……」 「まぁ!」 「ああ、なるほどね。大丈夫、前にも言ったけどオレ全然あの件は怒ってないから。強いて言うならせめて塩でもいいから魚には何かかけて。小骨まで取らなくていいから。あとお茶飲むときもいくら旦那でも自分以外にフーフーされるのはちょっと気が引けるってことね。」  2人が固まっていることにも気付かなかった。 「さ、次のお風呂はお嬢ちゃん?お父様?とにかく、1人になったらいけないよ」 「じゃ、おで、脱衣所で見てます」 「えっ、さすがに――」 「翠鳥なら信用できます。ありがとう、お兄さん。お願い、翠鳥」  意外な展開に咲桜は行ってしまおうとする山鳩の腕を掴む。彼は何故そうされるのか分からんといった不思議な顔をする。 「それはちょっと、君たちの仲は素敵だけど、はたから見たら(まず)いって。お()さんの立場的にここは止めさせてもらうよ。周りに与える誤解が君たちを傷付けたり引き裂いたりしちゃうのは、ちょっとお()さん、悲しいから」  幼馴染たちは顔を見合わせた。火子はおかしそうに微笑する。 「分かりました。それなら使用人に頼みます。ありがとう、翠鳥」 「う、うん。気を付けてね……」  火子が部屋を出て行く。咲桜は文机の上の黒い液面を凝らした。 「悪く思わないでおくれよ」 「全然思ってないです!」 「お()さんの昔話だけんども……女の子ってのは、不貞が許されないんだよ。男もまぁまぁ後ろ指を差されるけれども、女の子はもうその界隈じゃ生きていけないんだよ、事実無根でも、証明できなきゃ」 「ここの村も、まだそうですよ」  きょとんとした表情はまだよく分かっていないことを十分に伝えた。 「そっか。でもな、女の子の不貞は、もうね……何ていうか、最悪、家族が消しにかかるんだよ。たとえ噂程度の、確証のないものでも。君は女の子じゃないけどさ、稲城くんのさっきのあの言い様はちょっとカチンときたね。お()さんも、君たちみたいな幼馴染の女の子がいたんだけんども、そんな疑いをかけられちゃってね……、それが原因じゃないんだろうだけど、それもひとつの要因になって、もう会えないような遠いところにイッちゃったんだよな」  弟と仲が良かった。弟を選ぶと思っていた。その娘が兄と結婚した。兄が兵隊にとられているうちに身籠った。その兄と夫婦の契りは確かにあり、月日からいっても不自然はない。そして家の不正が起こる。家の不正は家人個々の不正、不貞とまで話が広がり……爆撃機と共に散った弟を見たという女の一言が、さらに波紋を広げ、彼女は川になった。  山鳩は遠いところを所在なく望んでいる咲桜を気にした。 「そんなふうになって欲しくなくて、お()さん、ちょっとムキになっちゃった。稲城くんだって君のことを根っから疑ってるわけじゃないことくらいオレも分かってるし、君とお嬢ちゃんがそういうんじゃないってこともちゃんと分かってる。いけないね、ろくな人生歩んでないと、こんな爺むさいことになる」  気紛れに彼は一度両手を打ち鳴らした。 「じゃあ、オレはこれを片付けるから、寝床のことは任せるよ、翠鳥クン」  使用人に頼めば、口止めをしても巴炎(ともえ)の耳に入るだろう。天井板にも口止めを要請するが、あとは鬼雀茶衆の判断次第だった。ついでに火子の守備の強化も求めた。それでいて、この汚され様はおそらく鬼雀茶衆の仕業に違いなかった。  指に付けてみる。異国墨と区別がつくほどこういう道具に造詣は深くなかったが、何となく苦手な臨書の墨のような感じがある。指の間で広げる。火子は性格上、反感を買いやすい。彼女自身の悪意でないにせよ、野州山辺や最近は山鳩についても癪に障れば感情的になって怒る。しかしこれは怨恨によるものだろうか。先入観が邪魔をする。隣の間では山鳩が布団を敷いていたが、考え込んでいる咲桜に手を止めた。繊維の掠れた音が耳から消えて咲桜も隣に首を曲げる。 「おで、火子ちゃんが誰かにそういうことされてるの、全然知らなかった」 「なかなか人に言いづらいことだからね。言ったら、自分だけじゃなく翠鳥きゅんも不用意に人を疑うことになるの、お嬢ちゃんはヤだったんでしょう」  雑巾をもらいに行くと言って咲桜は部屋を出た。暗い廊下を歩く。女の排斥行動は陰湿というが男の排斥行動もまた苛烈であった。示威(じい)行為に結び付きもした。その輪に参入することの認定試験にすらなる。爆死役を弟と代わった時、仲の良い同僚というものはほぼいなくなった。呼ばれて殴られ、殴るよう誘導されては上官から叱責が飛び、事務作業に回される。『お国様に君の命は捧げられない』という理屈で。 「ご存知なんですか」  不意を突かれ咲桜は後ろに吹っ飛びかけた。耳元で聞こえた。幽霊に違いない。ちょうど柳の木を後ろにしているのである。囁きの主は背が高い。5尺7寸と少しある咲桜の耳元より上から降ってきている。 6尺以上もある者はこの屋敷に於いて4人に限られる。しかし消去法を用いずともすでに特定していた。 「たまげるからやめてよ」 「陸前高田様は、ご存知なんですか。山鳩さんの想い人を……」 「はったりじゃないの?はったりじゃないならオレだと思うけど」  稲城長沼のほかにいなかった。まったく使い道のない色香を漂わせ、咲桜はうんざりとした。興味はないがその色気に惑わされる蜂ども蝿どもの気分とやらを理解してしまう。 「(わたくし)は何も聞いておりません……」 「お宅よりオレと翠鳥きゅんの仲のほうが深かったんだよ。残念だね」  俯いた顔が凄まじく歪んだのが分かった。 「好きだからって何でも知ろうとするんじゃないよ」 「知りたくもなります。知りたくなる。すべてを知りたい……」  そういうことが咲桜にも無いでもなかった。 「曖昧にしといたほうが、怒ったり妬いたりしなくて済むよ。それにお宅みたいなのに言っちまったら翠鳥に何してくれるか分からない」  鼻で嗤った。まるで聞いていないらしかった。固く拳を握り締め震えている。 「言わないからって翠鳥をカワイガルのやめてね?」  咲桜の頬に乾いた音を響く。呆れたように目動(まじろ)げば、張り手を喰らった側より喰らわせた本人が驚いている。 「こりゃオレが正解だね」  彼の姻戚兄よろしく大仰に肩を竦めた。乱暴者はまるで被害者だとばかりの面で目を瞠る。 「ちなみにオレも本当のことは知らな~い。あの素直で純朴ご丁寧な山鳩クンが話したがらないってことは、踏み込まれたく無い領域なんでしょうよ。そこのところ、好きとか愛してるとか言ってるやつが踏み荒らしていいの?」  目的はこの恋愛狂とくっちゃべることではない。雑巾だ。山鳩の心に決めた相手の有無、存在していたとすればそれが誰であるのか。咲桜にもある程度の関心はあった。だが山鳩は、話す時機があったにもかかわらず、この話題に自ら触れることはなかった。 「おれは訊きます」 「好きにしたら。オレは止めたよ」  訊いて、知って、どうするのか。稲城長沼のような粘着質な偏執な者は嫉妬に身を焦がすに決まっている。そして自身を苛み腐らせるどちらか、或いはどちらも始末せずにいられなくなる。さらにそうしたあと、愚者なりの賢さを取り戻し罪の意識かはたまた想い人のいなくなったことに絶望して首を括るなり毒を飲むなりするのだ。咲桜からすれば稲城長沼はそういう男のように思えてならなかった。  雑巾を求め長い廊下を行く。使用人たちのいる場所を通過して、離れ家に出た。明かりが点っている。戸の前には醤油漬けにされた油揚げみたいな四つ足が繋がれていた。尻尾を振り、咲桜の気付くより先に人の気配を察知しているようだった。可愛子ぶりながらきゃんと短く鳴くと、戸が紙切れのようになって開いた。 「()ん?」  咲桜は鬼という架空の生物を見たことがなかったが、そこには鬼みたいな羆みたいなのがいた。

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