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獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
小学校の歴史の授業では、人間の祖先は"猿人"、獣人の祖先は"犬"という生き物だと教えられていて、課外学習で博物館の見学に行った時に見た「犬」と記されているパネルの奥にあった凛とした立ち姿は、四足で地を踏んだ、確かに猫や馬のような動物らしい見た目だったけれど、遠くを鋭く見据える視線は成程確かに、獣人の面影があるような気がした。
家に帰って母を見上げて、猶更リアリティを感じたものだ。
人間に地域や見た目によってある程度の種族の区分けがあるように獣人にも種類があり、例えば母はハスキー種という種族で寒い地域に住んでいた犬の末裔なのだと聞いたことがある。
そしてそんな母と、純正の人間の父との異種婚によって産まれたのが、一之瀬まこと。性別は男。
平凡に大したイベントもないまま小学校から大学までの学生生活を終え、就活に特に苦労することもなく、あまり大きいとはいえないが同僚も上司も優しい人たちばかりの会社に就職してかれこれ二年になるけれど、入社時と変わらず今日も会社の営業事務を担当している。
◇ ◆ ◇ ◆
「まーこと! ランチ食べに行こー!」
鈴が跳ねるような元気な声が飛び込んできて、ふいと顔を上げた。
もうそろそろ一区切りつきそうな資料が表示されたモニターの向こう、ふわふわの顔に時折動く小さな耳がぴょいと顔を出す。可愛らしく結わえられた三つ編みと桃色のリボンが跳ねた。
目が合ったポメ種の彼女の目がくしゃりと可愛らしく細められる。
「桜花、ちょっと待ってね。区切りがいいところまでやっちゃうから」
正面のデスクの彼女は同期の東 桜花 。
もうかれこれ二年もの付き合いになる彼女はパーソナルスペースが狭く、人懐こい性格だ。
最初は距離感が近すぎて少し苦手だったのだけれど、お互い唯一の同期であることもあり誘いなどを断り切れず交流を進めていくと意外にも面倒見が良い面があったり物怖じしない芯がある姿勢だったりが見えてきて、いつしか苦手意識は消えてなくなっていた。
今では何でも相談できる良き友人となった彼女はいつもこうしてランチに誘ってくれる。
編集していたデータを保存してデスクを立つと、待ってましたと言わんばかりに桜花も勢いよく立ち上がった。まん丸い尻尾が忙しなく揺れているのが見える。
早く早くと彼女に急かされながら、身軽に財布だけを持って桜花と共にオフィスを出た。
「今日は何にしようかな~? パスタ? ハンバーグ? ラーメン? ちょっと奮発して焼肉っていうのもいいよね~」
彼女の言葉に相槌を打ちながらふいと隣でスキップ気味に歩く小さな姿に視線を向ける。ポメ種は基本的に小柄で、隣にいる彼女も例にもれず身長僅か百四十七センチ。
小さなふわふわの手から適度に伸びている爪に乗ったピンク色のネイルが真上にある太陽の光を浴びて輝いていた。
「まことは何か食べたいのある?」
「うーん……僕は特に」
「もー! そういうこと言ってるからまことはいつまで経ってもガリガリのもやし君なんだよ! よしっ、じゃあ今日のお昼は焼肉に決定! 桜花ちゃんが奢ったげる! いっぱい食べなさい!」
「えっ? いいよ、そんな。自分で払うよ」
「いいからいいから! ほら、レッツゴー!」
ぷに、と柔らかい感触と、きっと毎日綺麗に手入れしているのだろう、ふわふわの綿毛のような感触とが手首を包んだ。
この獣人特有の肉球と、彼女の体を覆うふわふわの可愛らしいベージュの体毛は自分にはない。
だからこそ羨ましくなることがある。
そう彼女に素直に言うと恥ずかしそうに笑いながら、人間のすべすべのお肌も触ってて気持ちいいし羨ましいよ、といつも返してくれるのだった。
獣人。
文字通り、獣の形をした人。
歴史上は平安時代とかその辺から人間とは似ても似つかない二足歩行の文明生物が現れたのが獣人の始まりだと言われている。
桜花に手を引かれながら見慣れた景色を見渡すと、人間も獣人も関係なく交流する平和な世界が広がっていた。
祖父母の時代は何やら人間と獣人との間には蟠 りがあったそうなのだけれどそんな面影を感じさせない、いつもの穏やかな風景。
「まこと? どしたの、ぼーっとして」
「ううん。なんでもないよ」
彼女の大きくてまん丸い瞳に、自分の顔が反射した。
濃いグレーの髪と瞳。
ハスキー種である母譲りのそれらを携えているのはどこか頼りなさそうな人間の男。
自己主張が少なく、地味で、根暗。
目の前にいる桜花とは正反対な自分に嫌気が差す。
こんなことだから想い人に気持ちの一つも伝えられないんだなあ、と一人勝手に肩を落とすのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
肉が鉄板の上で踊る音が鼓膜を揺らし、香ばしい匂いが鼻孔を撫でる。
やはり肉食動物として産まれた以上、目の前で肉が美味しく調理されていく様子を眺めている瞬間は心躍るものだ。
ランチセットの卵スープを啜りながら食欲をそそる赤みがゆっくりとその身を焦がしていくのを今か今かと待っていると、正面に座って同じく鉄板と睨めっこをしていた桜花が我慢ならないとでもいうように赤みが残った……というか殆ど赤いままの肉を持ち上げ、八重歯が覗く口にぽいと放り込んだ。
「まだ赤くない?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
肉をゆっくりと味わうように噛みながら、恍惚の表情を浮かべる桜花。
くそう、羨ましい。
あまり体の強くない人間に対して、獣人は本人たちが自負する通り生命力が強い。
ちゃんと血抜きなどの処理をすれば基本的には火の通っていない生の肉でも食べられるらしく、居酒屋なんかにいくと確かに真っ赤な肉を食いちぎってビールを流し込んでいる中年の獣人男性なんかをよく見かける。
人間が食べられるように丁寧に処理をされた新鮮なもの(馬刺しとか)もあるのだけれど、自分はあまり好きではない。
生臭いというか……。
彼女たち曰く、その生臭さがいいそうだが。
「まこと、その辺のお肉、もういいんじゃない?」
桜花に言われて鉄板に視線を落とすと、程よく焦げ目のついた香ばしい匂いを放つお肉が自分を見上げていることに気が付く。
零れ落ちる肉汁が勿体ない。
少し焦りながらしっかり焼けたそれを箸で摘んで甘めのタレにダイブ。
タレを絡めたらご飯の上でちょっとタレを落として、と。
「いただきます」
甘い肉汁が舌の上でじわりと溶け出してタレと絡む。
すかさず白いご飯も投入。
甘じょっぱいタレのおかげでご飯の甘みが際立ち、なんともいえないこの幸福感。
ううん、生きてるって感じ。
焼肉最高。
自分も目の前にいる桜花も、基本的に食事中は食べるのに夢中になってあまり会話をしない。
そういうところも彼女と友人で居たいと思う理由の一つだ。
「あ、ところでさ」
デザートのスアイスまでぺろりと平らげ食後の煎茶で一息ついていたとき、桜花がふと顔を上げた。
食後だからか少し眠そうだ。
かくいう自分も、この後の業務のことを考えると溜息が漏れる。
このまま帰りたい。
「いつ部長に告白するの?」
突然の爆弾投下に啜っていた煎茶を吹き出す。
飲み下しかけていた分の煎茶は進路を変えて気管に飛び込んでいった。
激しく咽る自分を尻目に、桜花は小さく呆れたように息を吐いて目を細める。
「まことから部長が好きだって聞いてからもう二年近く経つよ? いつまでウジウジしてるの」
「う、……だ、だって……」
「もう。まこと、いつも"でもでもだって"しか言わないじゃない。部長みたいなタイプは言わないと気付いてくれないよ? あの人、鈍そうだもの。まことのこと、きっと可愛い後輩ぐらいにしか思ってないよ」
「それは……そうなんだけど。自信が……」
「いつもそればっかり。言っとくけど、まこと、レベル高い方なんだからね! 顔可愛いし華奢だし。でも歩くときも座るときも猫背気味だからそれは直した方がいいと思う」
からん、と解けた氷がグラスの中で崩れた。
薄い烏龍茶が少しだけ残ったそこには弱々しい自分の姿が映っている。
「兎に角、あの手のタイプはガンガン攻めてこそよ! ってことで、どうせこのままじゃ進展なんてしないだろうから、部長と飲み会セッティングしといたからっ♪」
「…………え?」
いつもと変わらない可愛らしい笑みを浮かべる彼女が、今回ばかりは悪魔のように見えた。
◇ ◆ ◇ ◆
営業部部長、朝桐 伊墨 。齢四十二歳。
純正柴種の獣人の彼からはいつもコーヒーとタバコとの匂いがする。
昨今は喫煙者への風当たりがきついからか小さくなっている様子をよく見かけていた。
物腰が柔らかく、穏やかで落ち着いた大人な姿勢に十年来の顧客も少なくはない。
それでいて時折、営業事務担当である自分や桜花に営業先で買ったお土産を差し入れしてくれたり、労いの言葉をかけてくれたりと、彼がいる営業部に配属されて挨拶をしてから、彼に憧れるようになるのに時間はそう掛からなかった。
というか今思えば、配属されて初めて挨拶をしたときの彼のくしゃっとした笑顔にもう惚れていたような気さえする。
「戻りましたー」
元気に片手を上げて営業部オフィスに飛び込んだ桜花に続いて、入り口で頭を下げてから自分の席に腰を下ろす。
座りなれたオフィスチェアから伝わってくる優しい揺れが、空腹を満たした昼過ぎという魔の時間帯の手助けをした。
今日を乗り越えようと頑張る社会人の意思を崩さんと睡魔という名の悪魔が手招いている。
ストレッチも兼ねて体を伸ばし眠気に退場を願うが逆効果……あー、ぼんやりしてきた。やばい。
パソコンのモニターの向こう側で桜花が大きく口を開けて欠伸をしているのにつられて自分も小さく欠伸を零した。
「眠そうなところ申し訳ないけれど、急ぎの案件をお願いしてもいいかな?」
視界の端からタバコの匂いが滑り込んできて肩が跳ねる。
心臓が口から飛び出てしまうかと思った。
振り返ると優しく見下ろしてくる円らな瞳と目が合う。
「あ、す、すみません……」
「はは。大丈夫だよ。この時間は眠くなってしまうよな。私もこの後の会議で寝ないか不安だよ」
部長はからからと笑いながら、よいしょ、としゃがみ込んだ。
ふわりとタバコとコーヒーの香りがする。
次いで、ちょっとだけ武骨な石鹸の匂い。
噂が正しければ百九十センチぐらいの彼……少し態勢がきつそうだ。
「それで急ぎの案件なんだけれど、共有フォルダに入れてあるのを開いてもらえるかい? 今日付けのフォルダ」
「はい。えっと、…………あ、これですか?」
「そうそう。一緒に資料を入れてるから、過去十年分のデータをグラフ化しておいてほしいんだ。今日十七時に約束してるクライアントから急な要望変更があってね……十六時半までにお願いできるかな? 今日の他の業務はアポにまだ期間があるものばかりだから月曜日以降でも大丈夫だし」
「わかりました。このくらいなら間に合うと思います」
「本当かい? ありがとう、頼むよ」
安心したように小さく息を吐いた彼は姿勢を戻す。
ぽき、と膝から音が聞こえた。
運動不足かな。
「急な変更だったからさ。すまないね、手間をかけて」
「いえ。大丈夫です。すぐやりますね」
どうせもう週末だし、あと数時間仕事に真剣に打ち込むくらいなんてことない。
それに部長に声をかけられたことで眠気が吹き飛んだし、部長直々にお願いを受けたとあっては頑張らない他もない。
よし、と資料を開いたところで頭の上に包み込まれるような重みを感じた。
ぷに、という柔らかい感触と高めの体温。
「え、っと。部長?」
「それじゃ、よろしく頼むよ」
……撫で、られた?
頭に手が乗っかっただけみたいな感じだったけど、十分顔が熱を持つ理由になった。
真っ赤になった顔を見られないよう小さく縮こまる。
正面に座った桜花はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべているし。
ふるふると首を振り、デスク脇に置いていた飲み物を飲んでクールダウンしてから改めて画面に視線を戻した。
しかし急な要望変更とは、随分と迷惑な話だ。
これが週末じゃなければ内心はイライラしていたに違いない。
「おっと、そうだ。東くん、一之瀬くん。今日の夜だけど、私は営業先から直接向かうから駅で待ち合わせにしないか?」
今日の夜?
首を傾げていると、桜花が花の咲くような笑顔を浮かべて元気よく立ち上がった。
「はーい! 了解です!」
なんだなんだ。自分のあずかり知らぬところで一体何の約束がされているというんだ。
ぽかんとしている間に彼は名前が書かれたマグネットを"会議"の欄に移動させ、何やら色々資料を抱えて営業部オフィスを出ていった。
今は他の営業の人もご飯だったり営業だったりに出ていて不在。
自分と桜花との二人だけが残されたオフィス内はがらんとしていて、静寂が頬を撫でる。
「えっと……桜花?」
「んー?」
「今日の夜って……?」
「言ったじゃん、飲み会セッティングしといたって」
「いや、言ってたけど……まさか今日なの?!」
「今日だよ? あ、ちなみに、あたし今日仕事終わりそうになくて残業の予定だから二人で行ってきてね!」
…………んん?!
◇ ◆ ◇ ◆
急展開だ。
予想だにしていない急展開だ。
まさか何の心構えもないまま行き成り部長と二人きりだなんて。
桜花のお節介には今まで何度も助けられてきたけれど……今回のは有難いようなそうでもないような。
残業とか言いながらネットサーフィンをしつつお菓子をつまんでいる桜花をオフィスに残して定時に上がり、電車に乗った。
いつもの帰り道とは逆方向、仕事終わりのサラリーマンで賑わう車内が揺れるたびに心臓の鼓動が大きくなっていく。
待ち合わせの駅に近付くにつれて現実味が増していき、同時に不安が背筋を駆けた。
少しでも気を紛らわせようと聴いていた音楽に紛れて、チャットアプリの通知音が鳴る。
ふとスマホを見ると、桜花の名前が表示されていた。
{ やっほー! 守備はどう? )
可愛らしいスタンプと一緒に送られてきた一文。
守備って……。
{ まだ電車だよ )
{ ありゃ? まだそんな時間? )
{ 桜花、仕事終わったの? )
{ うん。今上がったー )
{ お疲れ様 )
{ ありがとー! まこともお疲れ! )
本当は今からでも合流してほしいがそれでは彼女の気遣いが無駄になってしまうし、なんて理由を適当につけて、今からでも、まで入力したメッセージを消した。
{ じゃあ頑張ってねー! 月曜日、成果聞かせてね )
ハート形のスタンプが送られてきたのを最後に、彼女からのメッセージは途絶える。
小さく息を吐いた次の瞬間、次の停車駅のアナウンスが流れた。
持っていた鞄を抱え直してドアの近くに寄る。
いつの間にか窓の向こうは武骨にビルが立ち並ぶオフィス街からネオンばかりの煌びやかな街並みにお色直しをしていて、これからそんな華やかな場所に飛び込もうとしているとは思えないほど不安げな顔をしている自分と窓ガラス越しに目が合った。
何を話せばいいんだろう。
そういえば部長と仕事以外の話したことないかも……どうしよう、大丈夫かな……。
不安で押しつぶされそうになっていると、再び手に握ったままのスマホが震えた。
通知は…………。
「ぶ、部長……っ?!」
思わず出てしまった声に、はっとして口を塞ぐ。
周囲を見渡したら一人のサラリーマンと目が合った。
小さく頭を下げて目を逸らし、今にも口から出ていってしまいそうな心臓を宥めつつスマホの画面と向き合う。
配属時、緊急連絡用にと登録した部長のアカウント……基本的に仕事関係は社内メールあるいは電話で連絡をくれていたからトーク画面は真っ白だった。
たった先程までは。
{ すみません。商談が長引いて、少し遅れます )
恐る恐る開いた真っ白なトーク画面に浮かんだメッセージに拍子抜けする。
なんで敬語なんだろう。
{ わかりました。僕はもう着くので、駅で待っていますね )
{ 了解。どこか入っていていいよ )
目の前で電車のドアが開く。
人の波に少しだけびくびくしながら改札を抜けた。
流石、華の金曜日。
繁華街の最寄り駅だということもあり人通りが多い。
とりあえず邪魔にならないよう脇に避けたが、さてどうしたものか……。
部長の言う通りどこかに入っていたほうがいいのかな、なんて思いながらとりあえず人込みを避けるために駅を出て、駅の目の前に設置されている少し高めの花壇の淵に腰を下ろした。
土と葉との青臭さに交じって花の蜜の優しい匂いがする。
もう春だ。
流石に夜は時折吹く風が少し冷たいけれど。
「日没の時間も遅くなってきたなあ……」
時刻は十九時半。
紺色と橙色とのグラデーションを背景に喧騒がネオンの海を漂っている様子をただぼうっと見つめる。
仕事終わりにこんなところに来たの久しぶりだな。
桜花と遊ぶ時は、仕事終わりは基本的に職場付近だし、休みの日にも繁華街よりはショッピングセンターやお店とかが多い方に行くし。
アフターファイブを数時間過ぎた今の時間帯、どうやら既に一次会を終えた人たちも少なくないようで時折前を通り過ぎる騒がしい集団からアルコールの匂いが漂ってくる。
繁華街は空気だけで酔えてしまいそうで、あまりお酒を飲まない自分には少し場違い感があるけれど足音や笑い声が入り混じったちょっとだけ下品な雑音はすごく心地いい。
聞き入るように少しだけ目を伏せたその時、ネオンの光を遮って視界に大きな影が落ちてきた。
肩で息をするその影は、頬を伝う汗をぐいと拭う。
「一之瀬くん! すまない、待たせたね」
ジャケットを鞄と一緒に脇に抱えた彼は少しだけ煩わしそうにネクタイを緩めた。
妙に艶めかしいその様子に心臓が跳ねる。
と同時に、行儀よく締められていた襟元から零れ落ちるようにふわふわの毛が飛び出したのが見えた。
うわ……あそこ、顔埋めたい。
大人らしさが滲み出る姿に見蕩れてぽかんとしているとネクタイを緩めた手がそのままゆっくりと近づいてきた。
すり、と彼の手の甲が頬を滑る。
少しだけ固めのしっかりした毛質が柴種の特徴だと聞いたことがあるけれど、全然触り心地最高。
お祖母ちゃんの家に敷いてあるちょっと高い絨毯みたい。
わー、気持ちいいー。
………えーっと。
今、これ何されてるの? どういう状況?
「こんなに冷たくなって。どこかに入っていてと言ったのに」
予想外の出来事にフリーズしている自分を置いてけぼりにして、彼の体温は離れていった。
しゅんと力なく垂れていた耳が何かを探すようにぴくぴくと動く。
「あれ? 東くんは?」
「桜花は残業になっちゃったらしくて……」
「? そうなのか。珍しいな、東くんが残業だなんて」
「そうですね……あはは」
「まあでもそういうことなら仕方ないな。じゃあ今日は二人で飲もうか」
「は、はいっ」
良かった。
今日は解散にしようとか言われなくて。
いやまあ部長の性格からしてそんなことをいう人ではないとは分かっているんだけれど、そこはまあ恋する故の弊害ともいえるもので、相手を信じたいと思う反面もし相手にこんなことを言われたら、されたらどうしようと考えてしまうのは正常な思考回路だろう。多分。
「それで、どこに行こうか」
「……へ?」
「東くんに誘われただけで店とかは何も聞いていないんだが、一之瀬くんは何か聞いているかい?」
「え? 僕は何も……いつも桜花と飲む時も予約はしないで行き当たりばったりなので……」
「そうなのか。若いのになかなかチャレンジャーだね」
部長と二人で並んで繁華街を歩く。
時折すれ違うカップルや夫婦を見ると今の自分たちはどう見えているんだろう、なんて思ってしまう。
「君たちのいつも通りに従って適当にどこかに飛び込んでもいいけれど、今日は金曜日だからね。目につくところはどこも混んでそうだし、私の行きつけでもいいかい? 君のような若い子を連れていけるようなお洒落な店ではないんだけれど……」
「そ、そんなっ、全然大丈夫です! それに……部長の行きつけ、行ってみたい、です」
必死にかき集めた勇気はそんなに多くはなく、後半は声が小さくなっていったけれど言葉自体は届いてくれたみたいで、恐る恐る見上げた視界一杯に嬉しそうな笑みを浮かべた彼の顔が飛び込んできた。
部長の広い背中を追いかけて歩いていくと、煌びやかな大通りから徐々に人通りが少ない提灯や小さな看板が立ち並ぶ裏道に景色が変わっていく。
数十分ほど歩いた頃だろうか、部長が指したのは赤提灯と青い暖簾を引っさげた木造の建物。
店名すら書かれていない質素な店構え……と思ったら、足元にある電飾スタンド看板に"だるま"と書かれているのを見つけた。
桜花とは絶対に入らないタイプの店だ。
ガラス張りのドアの向こうから煌々とした明かりと野太い笑い声が漏れている。
こちらが尻込みしていることに気付いたのか、視界の端にひょいと部長の顔が滑り込んできた。
不安げに眉が垂れている。
「やっぱり店、変えようか」
「い、いえっ! 大丈夫です!」
なかなか一見には厳しそうなお店だが、隣に部長がいるだけで大分心強い。
少しだけ申し訳なさそうな部長に続いてお店に足を踏み入れた。
ぶわりとタバコの匂いと煙の匂いがして、次いで母親を彷彿とさせるような、喉の奥に飛び込んでくるような、優しい声色の"いらっしゃいませ"が耳を撫でる。
カウンターの向こう、静かに佇んでいるのは割烹着に身を包んだ綺麗な女性。目の色素が少しだけ薄いような気がする。
奥にあったボックス席に部長が腰を下ろしたのに倣って、自分も正面に腰を下ろす。
と同時に水の入ったグラスとおしぼりが目の前に置かれた。
「なんにします?」
差し出されたおしぼりは温かくて、思わずほう、と息を吐く。
「うーん……そうだな。じゃあとりあえず瓶ビールと……一之瀬くんは?」
「あ、ええと」
慌ててメニューを手に取って開く。
お酒のページは……あった、最後だ。
うーんと、ビール、日本酒、焼酎、ハイボール、ワイン…………えっとカクテルは……もしかして、ない……?
どうしよう困った。カクテルしか飲めないのだけど……。
「メニューにないものでも仰って下されば作れますよ」
「ほ、本当ですか? じゃあえっと、オペレーター……とか、できますか?」
「はい。大丈夫です」
にこにこしながら頷いてくれた女将さん。
よかった……。
「すぐお出ししますから、ちょっと待っててくださいね」
優雅に頭を下げてカウンターに戻っていった彼女を見送りながら、ほっと息を吐く。
「一之瀬くん、食べたいものはあるかい? 好きなのを頼みなさい」
「えっと……うーん」
手に握ったままだったメニューに改めて目を落とす。
年季の入った色褪せた紙面、しかもスピン付き。
後から少しずつ増えたのか手書きのメニューがラミネート加工されて数枚挟まっている。
えっとお刺身、てんぷら、串、……わ、グラタン? オムレツ……すごい、洋食もあるんだ。
居酒屋というよりは家庭料理って感じなのかな。
あの女将さんが作るグラタン、美味しそうだなあ……。
カウンターの向こうから漂う懐かしい香りにいつの間にか不安はなくなっている。
そもそもお酒に強くないということもあって普段はあまり飲まないのだけれど女将さんが作ってくれるカクテルはアルコール感が薄く、料理もどれも美味しくて自然とお酒が進んだ。
体が火照る。
意識がぼんやりとして、珍しく随分酔ってるなー、なんて呑気に考えていると不安そうな部長の顔が飛び込んできた。
「一之瀬くん、顔が赤いけれど大丈夫かい?」
「うーん……へへ、ちょっと酔ってます。いつもはこんなに飲まないから……」
部長との飲み会は最初こそ緊張していたけれど、美味しいお酒とご飯とに背中を押されるように意外と色んなことを話せたし部長が聞き上手なのもあって随分と自分ばかり話をしてしまったような気がする。
それも結構プライベートな。
「あまり無理してはいけないよ。酒は飲んでも飲まれるな、だからね」
「ふふ、わかってます」
彼のおじさんくささに思わず笑みが零れる。
こんなに格好良くて、スマートで、素敵な方でもやっぱり言動には年相応な感じが出るんだ。
まあ、そこも含めて彼のことが好きなんだけれど……。
「部長」
「ん? どうしたんだい?」
「部長って、お付き合いしている方とかいないんですか?」
はっきりとしない意識の中で、正面に座る彼が困ったように笑ったのだけがわかった。
いつもは自信ありげにぴんと立ったままの耳が少しだけ傾いている。
「はは。恋人なんてもう暫くいないよ。それに、もう、諦めている」
「……え?」
「私もいい年だしね。これからそういう相手とどうこう、っていうのは考えていない」
ぐい、と御猪口を煽った彼。
困らせてしまっただろうか……前後の話に全然絡んでなかったし、きっと不躾だっただろう。
でも……。
「そ、そうなんですか。でも、部長すごく素敵ですし……ほら、告白とか、されないんですか?」
止められなかった。
お酒の力を借りた今しか無いと、ここを逃したらもう彼に近付くことはできないかもしれないと、なんとなくそう思ってしまった。
恐る恐る発した言葉に、彼は数秒の沈黙。
やはり失礼だっただろうか。何か気に障っただろうか。
このお店に入ってから初めて訪れた静寂に思わず青くなり、訂正をしようと口を開いた瞬間、目の前に座った彼の口が先に開いた。
「告白かあ。そんなの、いつが最後だろう。学生の時とかだろうなあ。もう三十年も前の話だ」
大口を開けて笑う彼。
きらりと鋭い牙がお店の暖色の照明を浴びて光った。
少しだけ目を細めた彼は徳利を覗き込み、最後の一杯を御猪口に注ぎ込んで軽い音のするそれをテーブルに置く。
「私のことは兎も角、一之瀬くんはどうなんだい? まだ若いんだから、浮ついた話の一つや二つあるだろう?」
ぐい、と一息で御猪口を空にした彼はカウンターの向こうで何やら調理をしていた女将さんに熱燗を注文した。
噂には聞いていたが、すごい飲みっぷりだ。表情も変わらない。
酒豪……どころか全然酔う気配がない……。
「……ああ、最近はこういうのもセクハラになってしまうだったかな。すまない、忘れてくれ」
「い、いえ……その、大丈夫です」
目の前に湯気の上る徳利が置かれた。
アルコールの匂いが鼻先を突き上げて、脳裏がぐらりと揺れた。
「好きな人は、います。……でも、多分相手は僕の気持ちには気付いていなくって。いつも僕が勝手に見てるだけなんです」
まさか本当に匂いだけで酔ったとは思っていない。
けれど、酔ったと自分に言い聞かせるには十分だった。
そうでもしないと、次の言葉をどんな声色で紡げばいいのか分からなくなってしまいそうだったから。
「僕、鈍くさくて頼りがいもないし……仮に、こんな僕に告白なんてされても、きっと相手は、迷惑だろうって」
女将さんが出してくれた温かいお茶が入った湯飲みに自分の顔が反射する。
自分で言っておいて今にも泣きだしてしまいそうになっていて、その顔は自分の言葉を否定してほしいとありありと書いていた。
「そんなことはないさ」
はっとして顔を上げる。
言わせてしまった。
はっきりものを言ってくれる桜花ならまだしも彼にこんな面倒くさいことを言ってしまって、しかもそれを慰めさせてしまった。
上司という立場、そして会社の人間であるという立場上、「そんなことはない」という返答以外の選択肢は殆どないに等しいだろう。
当たり障りのない、社交辞令。
慌てて茶化そうとしたが、見上げた先にあった彼の顔は真剣そのもので、思わず言葉を呑む。
「君はよく周りを見ている。フォローも上手だ。相手を思いやるが故に自分の気持ちを飲み込んでしまうのが玉に瑕だが、君はとても優秀な人だよ。迷惑だなんて思うはずないさ」
「……そう、でしょうか」
「ああ。君の直属の上司である私が言うんだ。間違いない。だから、自信を持ちなさい。ね?」
にこり、と細められた彼の目に今にも泣きだしそうな自分の顔が映っているのが見えた。
思わず顔を覆って、真っ赤になった顔を見られない様に下を向く。
もし目の前にいる彼が良い人の皮を被ったとんでもない大ウソ吐きで、その目が、声が、言葉が、例えばその場しのぎの言葉で、本心では微塵も思っていなかったとしても。
それでも全然かまわないと思ってしまえるほど、やっぱり僕は、この人のことが好きだ。
◇ ◆ ◇ ◆
お店を出ると、ひゅう、と冷たい風が頬を撫でた。
火照った頬から少しずつ体温が攫われていって、それに引きずられるように酔いも少しずつ抜けていく。
ふと横に視線を移すと、大きな手の平を握り締めて大きく伸びをしているのが見えた。
「すみません。奢ってもらっちゃって……次は僕が」
「いいんだ。私は上司だからね。部下は黙って奢られていなさい」
力強く微笑む部長の口元から八重歯が覗く。
思わず心臓がきゅんと縮んだ。
ほんの少し残ったアルコールのせいでふわついた視界の中、彼の顔だけがくっきりと見える。
優しく皴を刻んだ目元、タバコの匂いが染みついたシャツ、時折ぴくぴくと動くふわふわの耳に少しだけ乾燥した肉球。
すべてが、
「好きです……」
「……え?」
………………え。
首を傾げる彼とぱっちりと目が合う。
待って、もしかして今、声に出てた?
その瞬間に酔いは少しも残らず吹き飛び、くっきりと街ゆく足音も喧噪も、周囲の視線も、意識の中に滑り込んできた。
「あっ、えっと……! その、こういう、お酒飲んだ後の風って、好きだなあって……! あ、あはは……!」
ビルの隙間から零れ落ちている星の少ない夜空を指しながら彼の顔を恐る恐る盗み見ると、指した方に視線を向けて納得したように、ああ、と呟く。
「わかるよ。ひんやりして気持ちいいよね」
「そ、そうですよねー!」
誤魔化せた、かな……?
できればもう少し一緒に居たかったけれど勿論そんな可愛らしいおねだりなんてできるわけもなくそのまま解散。
遠くなっていくネオン街がなんだか恋しい。
たった数時間居ただけなのだけれど。
家に帰りつき上着を脱いでそのままベッドに飛び込む。
自分の家ってこんな匂いだったっけ、なんて思いながら大きく息を吸い込むとどこからかタバコの匂いがする。
シャツだろうか、それとも上着?
微睡んでいく視界に慌てて体を起こし、シャツを脱いだ。
寝巻に着替えて改めてベッドに飛び込み直す。
本当はシャワーでも入りたかったけれど残念ながらそれまで意識が持ちそうにない。
それに、もう少しだけ彼と同じ匂いを纏っていたいと思うことぐらい、きっと許されるだろう。
正面に座っていた好きな人の色んな表情を思い出しながら、そっと目を閉じた。
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