6 / 26

シャツの下に秘め事 2

 僕を抱えてくれた逞しい腕の感覚と甘い香りにとても安心した。それなのに心臓はドキドキし過ぎて壊れてしまいそうだった。 「....名前、聞くの忘れちゃった。」 小さく呟いた言葉は虚しく個室の壁に吸収されていった。  今頃、母はどうしているだろうか。 曜日感覚を間違えていなければ、昨日。昨日の母は凄く怖かった。いや、父が死んでからずっと怖い。僕の父は三年前、僕が中学校を卒業した次の日に、車内で練炭自殺をした。番を解消されたストレスに耐えきれなかった、と聞いた。それからの母はずっと泣いていて、正気に戻ったかと思うと僕を痛めつけた。 *** 「おまえも俺を置いて死んじゃうんだろう?!」  泣いている母に押し倒されて頬を殴られた。小さな時はあんなに痛かった母の拳も、今では頼りない力しか感じられなかった。僕を殴ったことで傷ついた母の手の方が痛々しいと感じるほどであった。僕はぼろぼろになった母の手をそっと握り込んだ。 「死なないよ。僕、ずっと母さんの傍にいるから。」 「嘘だ!そう言っておまえの父さんも死んだんだ!」 そう言って母は、側に転がっていた果物ナイフを手に取った。あ、まずい。と思った時には遅かった。焼けるような痛みが右の脇腹に走った。 「.....ぅ、あぁっ.....」 なるべく母を刺激したくなかったから、唇を噛んで声を抑える。でも白いシャツはどんどん血に染まっていく。 「あっ!!!!とおる!!!ご、ごめん、ごめんね....あ、ああ!どうしよう......」 母さんは腰が抜けてしまったのか、へなへなと座り込んでしまった。それもそのはずだ。いつも母が持ち出すのは百均とかで売っているようなやわなカッターナイフだから、そんなに深い傷ができることはなかった。でも、今日は不幸なことに果物ナイフだった。なんでこんな所に落ちてるんだよ!って、可哀想なくらい怯える母さんを見て、僕は果物ナイフに怒りをぶつけていた。 「大丈夫、ちょっと血が、出ちゃっただけだから。」 僕は出来得る限りの笑顔を作って母に言った。 「でも、血が、止まらないっ.....どうしよう、あ、そうだ.....」 ドタドタと母が台所に向かう姿を、僕は薄れていく視界の中に落とした。そのまま眠ってしまったのだろう。突然、果物ナイフで切りつけられた痛みとは比べ物にならない痛みで、目が覚める。 「ああああああああっ!!!!!」  自分の絶叫が聞こえる。酷い痛みを感じる脇腹に触れればそこは灼熱ですぐに手を離す。何が起きたのか分からないまま母の方を見れば、フライパンを持って僕を見下ろしていた。その中には、跳ね上がる油。その瞬間、自分の身に起きたことを理解した。うまく呼吸ができないけれど、頑張って言葉を紡ぐ。 「あ、あり、がと....もう、だいじょぶ。母さんも火傷しちゃったら、あぶないから、それ、置いて?」 母さんの目を見て、なるべくゆっくり言う。 「.....ほんとに?もう、塞がった?」  母がゆっくりとフライパンを床に置いたことを確認すると、僕はそれをシンクへと入れて、悪いとは思いながらも排水溝に直接油を流し捨てた。その際に付きっぱなしになっていたガスコンロの火も止めた。母さんはずっと泣いている。聞こえているかは分からないけれど「大丈夫だからね」と言ってから風呂場へと行き冷水のシャワーを腹にかけた。知らない間に自分の目からも涙が溢れていて声を殺して泣いた。  憎かった。母さんと父さんをこんなにも追い詰めたアルファが、ただ、憎かった。 ***  気分と痛みが落ち着いてから、風呂場を出る。でも数日は母からの暴力に耐えられそうになかったから、行くあてもないが家を出ることにした。泣き疲れて寝てしまった母にブランケットをかける。「傷のことで迷惑かけちゃいそうなので、治ったら帰ります。絶対に帰ってくるから、安心してね。透」と書いた置き手紙をテーブルの上に残して家を出た。 ーーー 「.....くん、とおるくん....」  遠くの方で自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。あの時にも聞いた、酷く安心してしまう声。もっと聞きたくて、無理やり意識を覚醒させる。 「透くん」 今度ははっきりと聞こえた。 「なあに?」 「魘されていた。それと点滴を交換するぞ。」 「ありがと。ねえ、せんせー。」  点滴を慣れた手つきで交換する先生を見ながら声をかけると、先生も僕の方をちゃんと見てくれた。 「なんだ?」 「先生は、名前なんていうの?僕のだけ知ってるとかずるい。」 わざと頬を膨らませて言えば、先生に笑われた。 「一色隆文だ。」 「いっしき、たかふみ....」 呟けば、点滴を交換し終わった一色先生にぽんと頭を撫でられた。それにドキドキしてしまう。 「ヘッドボードに書いてあるけどな。」 「ひと言余計!!」 僕は心臓のドキドキを誤魔化すようにべっと舌を出した。

ともだちにシェアしよう!