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息子を買う話

 高い煉瓦造りの建物に囲まれた路地が薄暗く冷たい。人はまばらでどこか不幸でみすぼらしい雰囲気さえある。 「この子を、」  そういって男は紙幣を数枚取り出す。それからすぐに目当ての品物が姿を現す。少年は手を繋ぎたいとせがみ、二人は店を出ていく。この路地ではどの建物からもこの少年と変わらない年の少年達が顔を覗かせている。『最後の楽園』。いつしかこの通りにはそんな異名がついた。  通りを出るとついさっきまでの雰囲気は何処へやら、小綺麗な街が広がる。二人はその街のある一つの店に入り、服を買っている。少年は少し窮屈そうに、それでいてとびきり嬉しそうに微笑んだ。その姿はおおよそその年の子供には似つかわしくない。  少年は服を着替えて店を出てくる。男はそれを追いかけるように出てくる。その手には使い古された手帳カバーのついた手帳がある。最後のページには写真が挟まっている。小さな子供と父親と母親と思しき三人が仲睦まじく写っている。突然風が吹き、その写真が空を舞う。少年は気づかずに前に進む。男がその写真を取り戻した時、少年は、 「そろそろ疲れたから、ゆっくりしたいな。」  、といった。男は何かに気づいたような顔になった後、寂しげな目で少年を見つめた。それから少年を連れたまま買い物をして、アパートまで少年を連れて帰った。  古くはないがひどく狭い部屋でリビングに置かれた布団だけが存在を主張している。男はキッチンに入って焼きそばを作り始める。そんな「客」の姿を見て、少年は幼い日の記憶を思い出す。両親の仲は長くは続かなかった。小学校に入る前にはすでに離婚し、母親も中学校に入る前に亡くなった。離婚してからは父親に会うことは全くなかったが、徳罰恨んでいたことはない。もう何年も前のことで、記憶は曖昧になっているが、一つだけ覚えていることがあった。母親が風邪をひいたときに父親が作ってくれたのは焼きそばだった。その姿がなんとなく今目の前にいる客に重なるのだ。  ふと、客が小さなローテーブルに置いていった手帳が目に入った。わずかに除いた顔は若かりし頃の客だろうか。 「焼きそばできたよ。食べるかい?」  お金をもらってこんなことをしてもらっているのは少年にとっては不思議な気持ちだった。いつも通りの仕事なら、安っぽくて汚いホテルで嘘まみれの嬌声をあげ、腰を振ったりなんかしている頃だろう。 「いただきます。」  客の見た目と同じゴツゴツした味がした。それが嫌いなわけではなく、少年にはむしろ好ましく、懐かしくすら思えた。どこかで食べたことがあるけれど思い出せない、そんな味だった。  客は無口でほとんど言葉を発しない。けれどそれは少年にとって威厳のあるように見え、決して印象は悪くなかった。 「ねぇ、こう言うことはしないの?」  少年は手慣れた様子で客を誘惑する。しかし客にはそれは全く響かないようで、 「君がおいしそうにご飯を食べる姿が見られるだけで十分すぎるくらいだ。本当ならそんな権利すらないのにな。」 「そろそろ君をおうちに返さないといけない。」  男は立ち上がって出かける支度を始める。粗末なカバンに手帳をしまって準備ができたところで少年の手を取ろうとした。 「まだ帰りたくないのに。」  心底名残惜しそうに言うその姿を見て、男は申し訳なく思うが、どうすることもできない。 「本当にごめんな。」  ドアの蝶番の油が切れそうで耳に嫌に響く。二人は残りわずかな今日の日々を愛おしむように少年の家に向かっていく。 「今日は楽しかった。ちっちゃかった頃に戻ったみたいだったから。」  夢のような時間がもうすぐ終わる。この時間が終われば、少年は不幸な男娼、男は貧乏な会社員。 「また買ってよ、お父さん?」  

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