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第3話 天の邪鬼な態度
触れた唇の熱に、なにも考えられなくなった。そうしているうちに口の中をたっぷりと撫でられて、唾液があふれる。
キスをしただけで胸がはち切れそうになる、それは天希にとって初めての経験で。気づけば縋るように、彼の腕にしがみついていた。
そのあとどうやって家に帰ったか、定かではない。
キスをされただけなのに、記憶が吹っ飛ぶほど、心が鷲掴まれた。
けれど彼の正体を知ると、気持ちがすんと、しぼんでいったのも確かだった。
「伊上紘一、肩書き副社長」
書類の入った、クリアファイルに挟まれていた一枚の名刺。それを見つめながら、天希は息をつく。
友人のつてで弁護士に書類を確認してもらった時に、この名刺を見せた。そうすると見る見るうちに顔が青くなって、深く関わらないほうがいいと言われた。
幸島ファイナンスとは、その筋ではかなり勢力のある、二ノ宮組のフロント企業、という話だ。
代表を務める二ノ宮志築が組長、副社長である伊上紘一は舎弟頭。
聞き慣れない言葉をネットで調べたところ。舎弟頭とは組長の弟分であることを知った。よくテレビで聞く若頭、というものよりも上の人物のようだ。
さらには伊上という男は、元々後継者の第一候補であったにも拘わらず、直系の志築に権利を譲り、身を退いたと言う逸話があるらしい。
「争いごととは無縁そうな顔をしてるよな、あの人」
だが弁護士先生は顔面蒼白のまま、これきりにしてくれと言った。よほど関わり合いになりたくないらしい。
「神王町、神王町」
エンジン音を響かせていたバスの中に、停車駅名が響き、天希は顔を上げる。そして名刺を大事に財布にしまうと、停車したバスから軽い足取りで降りた。
バス停から徒歩二分。そこにはあの日見た、オフィスビルがそびえている。鞄からパスケースを取り出して、それを首から下げると、天希はまっすぐと入り口へ向かった。
受付を通り過ぎる時に、お疲れさまですと声をかけられる。
それに会釈を返して、ビルの三十五階へと向かう。その下の階でエレベーター乗り込んできた女性も、天希を見てお疲れさまと声をかけてきた。
「新庄くん、仕事は慣れた?」
「ああ、はい。データ入力系はわりと得意なんで、だいぶ」
そっか、とにこやかに笑う彼女と、一緒にエレベーターを降りる。もう随分と通い慣れてきたそこは、初めての時は戦々恐々としていた、幸島ファイナンスのオフィスだ。
入り口のドアを、パスケースに入れたカードで解錠する。
結局、天希は伊上の申し出を受けてアルバイトを始めた。年末なせいか、条件の合うアルバイトが見つからなかったのだ。目つきの悪さ、金髪ピアスを受け入れてくれるところは、あまりない。
もちろん親には内緒にしてあった。少しばかりすれた息子とは違い、ごく真っ当な両親。聞いたら卒倒しかねないと思ってのことだ。
「新庄くん、今日の分はデスクに置いておいたからね」
「ありがとうございます」
裏がなんであれ、職場としてはホワイトだ。定時になれば、ほとんどの人が退社していく。本当だったらアルバイトなんて、募集していなかったのではないかとさえ思えた。
遅い時間のアルバイトは数人。大抵の人は週に二日程度で、毎日のようにいるのは天希くらいだ。
「一人で没頭できていいけどな」
仕事の内容はデータの打ち込み。数字に強い天希には、もってこいの作業だ。
一日四時間ほど、黙々とキーボードを叩く。アルバイトの給与は週に一回。先日、二度目の給料が出て、計六万ほどの返済になった。
しかしよくよく考えなくとも、給与を出すのもこの会社で、返済するのもこの会社だ。あまり意味がないような気がした。
そもそも第三者であったはずの伊上が、口を出すことが異例なのだとか。彼はあまり会社経営、組には干渉しない自由人、らしい。
会社での噂話、ではあるけれど。天希が伊上の紹介とあって、時折、彼の話題になる。
「暇だったのか? ってか、暇なんだろ。ぜってぇ、そうだ」
生意気な子供がいて、面白そうだから顔を突っ込んでみた、みたいな。
あれから日は経つのに、伊上紘一という人間がよくわからない。いつ会ってもにこにこ笑っていて、デートいつ行く? などと天希に絡んでくる。
からかわれている。遊ばれている。そんな気がしてならなかった。気持ちがしぼむのも、そう思うからこそだ。
いい大人が子供に本気になりはしないだろう。しかし頭ではわかっていても、胸のほうは痛くなる。
「はあ、心の前に、さすがに目がいてぇ」
近頃、細かい数字ばかり見ているせいか、目がかすむようになった。目薬を差せば、じわっと染み込んでくるような刺激を感じる。
毎日四時間、ぶっ通しで画面とにらめっこだ。目の筋肉も凝り固まる。
「ああ、やっぱこれあると違うな」
鞄から取り出した眼鏡ケース。そこから黒縁の眼鏡を取り出した。元よりあまり目が良くないので、家ではこれをかけていることが多い。
だが眼鏡はダサい、という固定観念のせいで、外で天希はあまりかけたがらない。
「いまは見た目より、仕事だ」
ひと気のなくなった室内で、天希の独り言と、カタカタキーボードを打つ音だけが響く。けれどしんとした中で、ふいに靴音が聞こえた。
その音に顔を上げて振り向くと、頬にあたたかいものが触れる。
「あまちゃんお疲れさま」
「び、びびった」
「寒くない? いまの時間はもう暖房、切れてるだろう?」
振り向いた先には、いつもの穏やかな笑顔があった。彼の手には有名コーヒーチェーンの紙コップと紙袋。差し出されたそれを受け取ると、手の平にじわりと熱が伝わる。
「ありがとう、ございます。足元は、パネルヒーターを借りたから寒くねぇよ」
「でも手は冷え冷えだね」
「あっ」
紙コップを握りしめた手の上に、一回り大きな手が重なる。骨張った男性らしい手。ドキドキと胸の音を早めながら、天希は視線を泳がせた。
するとふっと視界に影が下りて、気配が近づいてくる。身構える天希だけれど、そのまま逃げもせず受け止めてしまった。
「今日も、あまちゃんは可愛いねぇ」
「可愛かねぇよ! 目がわりぃんじゃねぇの」
キスをされて嬉しいはずなのに、口を開けば悪態ばかりで、天希は自分自身が嫌になる。それでも伊上が気にする素振りを見せないので、内心ほっとした。
「そろそろお腹空かないかい? ご飯食べに行こうよ」
「毎回、しつこいなあんた。俺は仕事中だ」
「なんだか君、全部返済しそうな勢いだね。そこまで頑張らなくてもいいんじゃない? なんだかお友達に妬けちゃうな」
「は? 意味分かんねぇ」
「あまちゃん、デートしよう。ご飯いっぱい食べさせてあげるから」
「飯で釣るとか、俺は子供、かっ……」
後ろから腕を回して抱きついてくる伊上の、身体を振り払おうとした瞬間、天希の腹が情けない音を響かせた。それが聞こえたのだろう彼は、くっと笑いをかみ殺す。
「め、飯を食うだけだからな!」
「うんうん」
楽しげに笑う男の顔を、天希は精一杯睨み付けるしかできなかった。
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