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第1話

「いやー、しかし驚いたな。全然そうは見えなかったけど、やっぱりももちゃんアルファだったんだな」  第二の性が発現してから、ずっと燻っていたものがある。それは、アルファ、ベータ、オメガ皆等しく平等だと教えられてきたにも関わらず、自分がアルファだと分かると、両親や親戚、学校、クラスメイトの対応がガラリと変わったからだと思っていた。 「本能なんだからしょうがないっしょ。ダメだダメだって思いながらも授業中眠くなってつい居眠りしちゃうのと一緒。まぁ、番にならなかったんだし、セーフ、セーフ! 犬に噛まれたと思ってさっさと忘れちゃいなよ」  皆平等だなんて嘘だ。この世界は歪んでいる。  晴天の真夏日、オープンキャンパスでの出来事だった。人手が足りないからと駆り出され、昼食をエサに構内で誘導係をやらされていた。終盤に差し掛かった頃、受付を済ませた二人組の男子高校生が歩いてきた。ひとりは背を丸め、口に手を当てている。もうひとりは二人分の荷物を持ち、相手を気に掛けている様子だった。見るからに具合が悪そうで、最初は熱中症だろうと思った。 「大丈夫?」 声を掛けると、俯いていた男子高生が顔を上げた。目が合った途端、相手は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。自分も相手も、瞳孔がめいっぱい開いていた。互いに見つめ合い、視線を逸らせなかった。 「……はぁっ」 男子高生が、苦し気にひとつ息を吐いた。 「はぁっ、はぁっ、はっ」 百瀬を見つめたまま眉間に皺を寄せ、胸の前でボタンをひとつ外したワイシャツをぎゅっと握る。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ」 眩しそうに目を細め、膝を擦り合わせる。股間が学生服を押し上げており、この子はオメガで、発情しているのだということに瞬時に気付いた。  吸い寄せられるようにして彼の目の前にしゃがみ、汗で濡れた短い髪に触れた。この時にはもうすでに周りの声など耳に入ってこない。小さな頭を引き寄せて唇を吸った。 「んっ、ンンッ、はぁ、はぁ」 彼の唾液は、甘かった。彼は俺から目を逸らし、身を守るように肘と右手で俺の身体を押し返した。抵抗は、弱かった。 「ひッ、や……」 その場に彼を押し倒し、首筋に舌を這わせた。汗のしょっぱさはわずかに感じていたが、鼻腔が甘いような、獣臭いような嗅いだことのない匂いで満たされていて、味はあまりよくわからなかった。 「やだ!!」 抵抗をする彼の顔を一発殴ったような気がする。頭がふわふわしていて、自分でも何をしているのか理解できていなかった。襟を左右に引っ張るとボタンが飛んだ。抵抗を諦めた彼は顔を覆い隠して泣き始め、百瀬は薄い肩に歯を立てた。そこからの記憶は、かなり曖昧になってくる。いつの間にか人が集まってきていて、羽交い絞めされてオメガから引き離された。怯えた目をしていたオメガは、いつまでも百瀬を振り返りながら守られるようにしてその場を去って行った。  付き添ってくれた砂川の話によると、争うような声を聞いて駆けつけると、オメガと一緒にいた男子高生と取っ組み合いのけんかをしていたそうだ。そんなこともあった気がする、程度にぼんやりと記憶が蘇る。鎮静剤を打たれており、頭がうまく機能していない。記憶に頼るよりも身体に聞く方が確かで、現に顔中が熱を持っており、鼻には真っ赤に染まったティッシュが詰まっている。腕には引っ掻き傷や爪痕が散見し、ズボンやスニーカーには自分の鼻血と思われるものが染み込んでいた。  200年前、自由平等宣言が発せられるまでアルファは貴族階級だった。全体の1%に満たないアルファが国の70%の富を握り、労働力の担い手としてベータが存在していた。オメガは奴隷階級で、アルファの所有物として屋敷に囲われていたそうだ。自由平等宣言を発したのは平民のベータでも奴隷のオメガでもない。貴族のアルファで、近親婚を避けるためと言われている。  現在でも要人の多くをアルファや元貴族が占め、財閥を牛耳っているも元貴族だ。階級制度が撤廃されただけで、実質庶民の生活に何ら大きな変化はない。大きく変わったことと言えば、ヒート抑制剤の開発によりオメガが社会進出できるようになったくらいだろうか。  奴隷身分から解放されたオメガのほとんどはアルファの屋敷に留まった。理由として、自由を手にしたところで身一つで生計を立てていくことが非常に困難であること、アルファの主人と番の関係にあり心身的に離れることができなかったことなどがあげられる。オメガには月に1度のサイクルで発情期が訪れ、番を求めて性別、種族を問わずヒトを惑わせるフェロモンを発生させる。フェロモンに中てられると理性を失い、本能のままにオメガを襲ってしまう。百瀬が少年を襲ったのも、少年の放つフェロモンに中てられたことが原因だった。  ヒート抑制剤とは、オメガから発せられるフェロモンを押さえる薬のことだ。一緒に居た男子高生に何ら影響がなかったことから、百瀬が襲ったオメガはヒート抑制剤を服用していたに違いない。ヒート抑制剤が開発されるまでは、オメガは最低でも1週間は外に出られなかった。発情期を恐れて生涯一歩も外へ出ずに過ごすオメガも珍しくはない。ヒート抑制剤が開発される前までは、身体的特徴によりオメガは就職どころか学校へ通うことすらできなかった。ヒート抑制剤の開発により、オメガは何とか社会的地位を手にすることができるようになった。  ただし、ヒート抑制剤も万全ではない。今回の件は、恐らく微量のフェロモンが漏れ出ていてアルファである百瀬だけが反応してしまったのだろう。オメガと番になれるのはアルファだけである。アルファはベータよりもオメガのフェロモンに敏感に反応する。  本能だからといって、百瀬がオメガの少年を襲ったことに違いない。だが、オメガの少年の両親と彼の友人を除いては皆百瀬に同情的で、百瀬を咎める者はいなかった。それどころか、自己管理不足であるとオメガを悪く言う者も居た。アルファもベータもオメガも、皆平等なはずではなかったか。何故、加害者である自分が許されて被害者のオメガが咎められなければならないのか。オメガはきちんと薬を服用して自衛していた。自分の方にこそ欠陥があったのではないか。オメガに発情期がある限り、種族が対等に暮らすことなどできないのではないか。皆の感覚が、自分の感覚が狂っているのではないか。  オメガの両親の下へ謝罪に訪れた際、父親に庭先で水をかけられ玄関に入れてもらうことさえできなかった。おかしな話だが、息子に近づかないよう怒鳴られ勢いよくドアが閉じられた時、ちゃんとまともな人がいて、自分の抱く罪悪感は間違えていないのだと安堵した。いくら考えてみたところで起こったことをなかったことにはできないし、法律を変えることもできない。オメガの少年へは近づかないことでしか贖罪の方法はない。友人を守って取っ組み合いになった男子高校生への謝罪も済ませた。彼も百瀬の罪を許そうとはせず、およそオメガの父親と同じことを言った。オメガは元々個体数が少なく、20年生きてきておそらく初めて目にした。今まで意識したことはなかったが、オメガという種がいること、自分の意思関係なく加害者になるかもしれないことだけは教訓として覚えておき、後は砂川の言う通り忘れることにした。  顔の腫れもひき、腕の傷も消える頃には構内で噂されることも少なくなっていた。午前で授業が終わり、地下鉄に乗って帰宅しようとしていた時のこと。地下への階段を降りる時、いつも利用している地下鉄が、初めて利用する駅のような、そんな違和感を覚えた。だが、壁の汚れ具合もポスターも見憶えのあるいつもの風景で、ホームへの長い道を歩きながらすぐに違和感があったことすら忘れた。定期をかざして改札を通ると、微かにどこかで嗅いだことのある甘い匂いがした。最初は気のせいかと気にも留めなかったのだが、ホームに向かう道すがら時折その匂いが鼻をかすめた。ホームに足を踏み入れた時、ベンチで下を向いている少年が目に入った。 「えっと……翔太郎くん?」  この少年と関わるべきではない。とっさに身体が動いてつい声を掛けてしまったことを、百瀬は瞬時に後悔した。少年が顔をあげ、百瀬を見上げた。岡田翔太郎。百瀬が乱暴してしまったオメガの男子高生だ。 「百瀬、さん」  一瞬、ふわっと濃い匂いが鼻腔を満たした。意識が持っていかれそうになったが、熱風がすぐに匂いを掻き消した。薄暗い地下鉄のホームには、どんよりとした風が縦横無尽に吹き付けている。改札から時折感じていた匂いの発生源はこの少年からだった。何で俺の名前をと言いかけて、やめた。初対面でいきなり襲い掛かり、それから門前払いで直接名乗る機会はなかったが、きっと間接的に誰かから聞いたのだろう。 「こんなところで何してるの? 学校は?」 「体調が悪くて」 休みました、と赤ら顔で苦しそうに言った。 「よくここまで来れたね」 一度オープンキャンパスで来てますから、と少年は答えたが、少年には百瀬の言葉の意図を理解できていなかった。ヒート中に出歩いてよく無事でここまで辿り着けたね、と百瀬は言っているのだ。  少年が襟元を握りしめていた手で、百瀬の手を掴んだ。少年の手はじっとりと汗ばんでいて熱かった。動けなかった。本来ならば、距離を取って駅員なり警察なりに保護を求めるのが当然なのだろう。少年の両親には彼に近づかないことを約束しているし、なによりもこれ以上面倒事になるのはごめんだった。  百瀬は手を繋がれたままじっと目の前の少年を見下ろした。女顔で小柄。オープンキャンパスに来ていたということは2年か3年なのだろうが、中学生くらいにしか見えない。短髪で適度に日焼けをしている。これが俺のオメガか、と百瀬は思った。正確にはまだ番は成立していないため百瀬のモノではないのだが、百瀬の本能がそう告げていた。魂の番と言ってもいいのかもしれない。魂の番に定義はないが、運命と言い換えれば受け入れやすいだろう。  百瀬の手を握る少年の手に力がこもった。前屈みになってTシャツの裾を引っ張り前を隠している。百瀬を見上げる少年の目は困惑しているようにも、何かを言いたそうにしているようにも見えた。Tシャツの上にパーカーを羽織り、短パンにサンダル姿。くしゃくしゃになったパーカーの襟から黒い首輪が覗いていた。それは、無防備にヒート時に訪ねてきておきながら、匂いと上目遣いで誘っておいて、受け入れるつもりはないという意思表示だ。はらわたが煮えくり返りそうな怒りと、湿気を含む熱風に乗せて時折匂う甘美な香りにめまいがする。  感情が揺らいでいることに気付き、空いてる手で髪を掻き上げて大きくため息を吐いた。ビクッと少年は一瞬身体を強張らせる。 「ああ、ごめん。何でもないから」 手を後ろに下げてさりげなく手を解こうとしたが、少年は百瀬の手を掴んで離さなかった。手が離れれば、その足で駅員を呼びに行くつもりだった。もう、百瀬が退く理由がなくなった。 「この首輪は? お父さんが付けたの?」  襟を掴むと、少年は顔色を変えて身構えた。ヒート時の熱に浮かされてぼんやりしていた頭が、ようやく危機を悟ったらしい。手を引こうとしたが、百瀬が掴んで離さなかった。 「鍵はどこ?」  首輪を隠していた上着を肩まで下ろしてしまうと、首輪に触った。幅は12センチほどだろうか。頑丈な厚い革でできていて、傷もなくくたびれた様子もないことから、最近買ったばかりのものなのだろう。金具は鍵穴と南京錠のみのシンプルな作りだった。  オメガの首輪には2つの意味があった。ひとつは階級制度が生きていた頃の話だが、所有物の証として首輪を付けられていた。ふたつめは、発情期が来た時に首を噛まれないよう保護する目的がある。番は、アルファとオメガの間のみに成立する呪縛のようなものだ。発情期のオメガの項をアルファが噛むことによって番が成立する。  アルファ、ベータ、オメガの違いは生殖器にあり、普通に街を歩くだけならばそれぞれの見分けは付きにくい。万能ではないにしてもヒート抑制剤が出回っており、保護目的とは言え差別階級にあったオメガがわざわざ自分の種を主張する必要はない。自由平等宣言以降、首輪をしたオメガの姿はすっかり見なくなった。 「家?」  首輪の隙間に指をいれ、つつ、と首をなぞる。少年の肩がビクンと大きく跳ね、強く百瀬の手を握り返した。首との隙間は指2本分ほど。首輪に指を掛けて後ろに引っ張る。まっさらな項が覗き、百瀬は無意識に溜まった唾を飲み下した。  少年のTシャツの裾を引っ張っていた手が、小刻みに震えている。目に溜まっていた大粒の涙がぼろぼろと零れ出し、震えている手やシャツを濡らした。 「……ふっ」  少年がTシャツから手を離し、乱暴に涙を拭く。くしゃくしゃになったTシャツの下では涙ではないシミができていた。  百瀬は少年の手を離すと、はだけさせた襟を元の位置に戻し、チャックを上まで上げた。 目深にフードを被せると、再び少年の手を掴み階段まで引っ張って行った。少年は下を向いて鼻をすすりながらも抵抗する素振りを見せなかった。  改札を抜け駅を出て、途中ドラッグストアに立ち寄った。ホテルに着くまでの間、少年はすすり泣きしながらもおとなしく百瀬に手を引かれ、会計時に一度だけ手が離れた時も逃げ出そうとはしなかった。 「何泣いてんの?」  薄汚いラブホテルの一室。百瀬の通う大学から程近く、手頃な料金設定から生徒御用達となっていた。部屋に入ると、まずドラッグストアで買った物を部屋の真ん中に陣取っているベッドの上に放り投げ、クーラーを付けた。換気扇は常に回り続けているはずだが、照明が薄暗いせいか空気が淀んでいるような気がした。ベッドの隣に突っ立って、めそめそ泣き続ける少年のフードを剥ぎ取り、チャックを下ろした。 「からだが、思うようにならない」 「まぁ、それはわかるような気がする」  これは、少年に同情して言った言葉ではない。周囲からの期待、羨望の眼差し、オメガに反応する身体。百瀬はアルファという性にほとほと嫌気が差していた。自分がアルファでなければ、未成年の、しかも男をホテルになんて連れ込んだりしない。無抵抗の少年のパーカーを腕から抜いて床に捨てると、今度は自分のTシャツを手早く脱いで同じく床に捨てた。いくら換気扇が回っているとはいえ、無秩序に風が吹きつける地下鉄のホームや野外と個室では全然違う。すぐにオメガのフェロモンが充満し、自我を保てなくなっていた。乱暴に少年の顎を掴み、上を向かせた。頬は、涙で濡れていた。充血して真っ赤になった目は、怒りを湛えて百瀬を見据えていた。  ここまで来てしまえば泣こうが喚こうが関係ない。力づくでも奪うつもりだった。しおらしくしていたオメガの鋭い眼光に、自我を失いかけていた百瀬は一瞬怯んだ。少年の目は、力強い光を放ちながらも生成される涙を止めなかった。少年の瞳には憎しみのようなものは感じられない。身体が思うようにならないと、彼は言った。アルファだからこそ感じてきた疎外感や重圧があったように、少年にもまたオメガであるが故に背負ってきた苦労があるのだろう。アルファである百瀬の目を通じて、オメガとして生きる理不尽さを見ているのかもしれない。かつてアルファとオメガは支配者と従属者の関係だった。一番遠いようで、一番近い存在だったのかもしれない。  酷くされることを覚悟していたのだろうか。そっと触れるようなキスをすると、少年は目を丸くした。 「えっ、あ……」  キスが初めてだったかのように、何が起こったか確かめるように彼が自身の唇に触れる動作をした。部屋に充満していた香りの濃さが増した。頭を庇うようにして彼をベッドに押し倒した。 「うっ、ンンッ……はぁっ、ん!」 優しくなんてしてあげられないかもしれない。後頭部を抱えて息ができなくなるくらい深く口づけをしながら、自身のズボンのフロントボタンを開けてチャックを下ろした。 「脱いで」  彼のTシャツの裾を掴み、乱暴に捲り上げる。 「早くして」  口の端からよだれを垂らし、惚けた顔をしている少年に鋭く命令すると、飢えた獣のように露出した腹に舌を這わせた。 「んんっ!」  たくし上げられた裾を持ったまま少年が呻き声を上げる。日に焼けた腹をビクビクと波立たせ、内股になって膝を擦り合わせた。じれったくなって、結局Tシャツは百瀬が脱がせた。 「やっぱり、やめたい」  でかい目から一粒涙を零してぽつりと少年が呟く。 「は? こんなところまで来て何言ってんの?」 「だって、こんなの嫌だ! こんなのおかしいよ!!」   一瞬、頭が空っぽになる。沸いた怒りが瞬時に霧散する。さっきまで善がっていたくせに、一体こいつは何を言っているのだろう。 「何もおかしくないよ。俺はアルファで、あんたはオメガなんだから」  オメガとは、なんて哀れな生き物なのだろう。少年はただ、小麦色に焼けた腕で顔を覆って泣いた。逃げ出そうとせず、相変わらずおいしそうな匂いをさせながら。力なく無抵抗に泣く少年を見下ろしながら、百瀬はすーっと冷めていくのを感じた。早く終わらせてしまおう。泣くのに合わせて震える身体からズボンと下着を剥ぎ取った。 「い、やだ! やだ、嫌だ!!」 「うるさいよ。もう諦めなよ」  このオメガからは、もう何の興味も消え失せてしまったらしい。くらくらするような匂いにも、鼻が慣れてしまったせいか何も感じない。片足を掴んで犬が小便をするように大きく開かせ、陰茎と肛門の間に位置する穴に中指を挿れ、ぐちゃぐちゃと掻き回した。 「ひ、ンッ! は、はぁ、あ、や……」 「ん、痛いか。ローション使うか」  ぐちょぐちょに熟れた穴から指を抜き、ドラッグストアの購入品に手を伸ばした。中指はローションを必要としないほどの愛液でとろとろに濡れている。男性オメガはいわゆる両性有具で、アルファやベータにはない穴が会陰に存在している。 「もう、やめて」  息も絶え絶えに少年が言う。 「泣くか喘ぐか喋るかどれかにした方がいいよ。それじゃ苦しいでしょ」  手に粘度の高いローションを垂らし、拡張作業を続けた。初めて使うにしては緩く、すぐに2本目の指が挿った。3本目の指が挿る頃には、少年の呻き声は甘い喘ぎ声に変わっている。枕で隠れて顔は見えないが、うわ言のように嫌だやめてを繰り返していた。 「……はぁ」  もう、いいだろう。限界だ。少年のナカから指を抜き、下着に手を突っ込み勃起した性器を取り出す。少年が枕から顔を離し、真っ赤な目を百瀬に向けた。 「ゴムして……お願い」 「わかった」  何もおかしくないよ。俺はアルファで、あんたはオメガなんだから。自分で言った言葉だけが、ずっと頭に引っ掛かっていた。  いつの間にか眠っていたらしい。耳障りな携帯のバイブの音で目が覚めた。部屋は照明をつけっぱなしにしたままで、床には衣服やゴミが散乱している。全く酷い有様だ。時間を確かめるために腕を伸ばしてズボンを拾い、ポケットからスマホを出して画面を見ると知らない番号からの着信履歴と21:03の表示があった。 「うわ、ヤバい! 翔太郎くん起きて。9時だ」 「ん……」  枕もなしに隣で反対方向を向いて眠っていた彼が薄っすらと目を開ける。 「終電まで時間あるからシャワー浴びてくるけど、翔太郎くんどうする? 先行く?」 「いや、俺はいいや。もう少し寝る」  この様子だと、シャワーを浴びて出てくる頃も寝こけているだろう。床に落ちている衣服を拾い、同じく床に捨てられていた枕を跨いで狭い浴室に入った。  古い建物ではあったが、設備には多少気が使われていて、蛇口を捻るとすぐにお湯が出てきた。熱いシャワーに打たれていると、少しずつ冷静になってくる。未成年に手を出してしまったとか、親御さんとの約束を破ってしまったとか、相手が同性であることなどは意識から一切排除する。ああ、やってしまったな、と事実だけを受け止める。  汗を吸ったTシャツや一度穿いた下着をもう一度穿くのは気持ち悪いと思ったが、それしか着るものがないのだから仕方がない。一度脱いだ服を着て部屋に戻ると、少年はすっかり身支度を整えてどこかに電話していた。 「俺は大丈夫だよ。……そうなんだ。でももう帰るし。……本当に大丈夫だってば」  百瀬に気付いた少年が一度百瀬を見上げ、すぐに視線を床に戻した。 「とにかく今から帰るから。ありがと、じゃあね」  少年は一方的に電話を切ったようだった。 「親?」 「いえ、友達」 「親には連絡したの?」 「いいえ。でも、いいんです。今から帰るので」  今更なような気もするが、警戒されているのを肌身で感じる。一刻も早く帰りたそうにしているのが分かり、距離を取ったままもう出れる? と声を掛けた。はい、と固い表情で少年が答える。 「じゃあもう出ようか」  当然だが、空は真っ暗になっている。ホテルに入った時はまだ真昼間だっただけに、自分たちだけ取り残されていたような感覚を覚える。夜風は生温く、昼の熱が残ってじっとり蒸し暑い。  少年が一文無しだったから、というわけではないが会計は全て百瀬が負担した。少年が財布を持っていても出させるつもりはなかったが、少年は財布すら持っていなかった。着の身着のまま、とりあえず首輪を隠すためのパーカーとスマホだけを持って出てきたようだ。百瀬の隣で、少年が申し訳なさそうに肩を落としていた。 「すみません、お金払ってもらって……。今度会った時返しますから」 「いいよ、別に。それより、身体どう?」 「すごく楽になりました。ありがとうございました」  お礼を言われてしまって、百瀬は複雑な気持ちになった。人助けをしようと思ってホテルに連れ込んだわけではない。今更ながら、物凄く悪いことをしたような気分になる。 「発情期の時はいつも薬で抑え込んでいて……うまく言えないけど、ヘドロが身体の中に蓄積していって重くなってくような感じがあったんですけど、今日は嘘みたいに調子がいいです。すごく身体が軽いです」 「……そういうもん?」 「そういうもんなのかもしれませんね」  少年が気を使って嘘を言っているようには見えない。 「……また、会いに来てもいいですか?」  返事に詰まる。一体この子は何を考えているのだろう。いくら楽になるとはいえ、初対面で強姦しようとした相手にまた会いに来ようと思うなんて、正気とは思えない。黙り込んだ百瀬に、少年が今度会う時は首輪の鍵を持ってきますから、と言った。 「君はそれでいいの?」  考えるよりも先に口が開いた。一瞬、少年は目を丸くした。 「いい、です。百瀬さん悪い人じゃないみたいだし、ずっと首輪を気にしてるみたいだったから」  百瀬から目を逸らし、首輪を触りながら少年が答えた。少年が言うように、確かにずっと首輪ばかりに目がいってた気がする。一目見たときからずっと首輪が気に入らなかった。 「俺が言えた義理じゃないけど、もっと自分を大切にしなよ」  悪い人じゃないなら、まず未成年をホテルなんかに連れて行かない。嫌がっているのを無視して身体を繋げるようなことはしない。首輪を引きちぎって噛み付きたいなんて、獣じみた発想はしない。 「じゃあ、どうすればいいんですか?」  少年が真っ直ぐな視線を百瀬に向ける。腫れて、充血で真っ赤になった目だ。 「番ができれば抑制剤を飲まなくて済む。あれ、副作用がキツイんです。ずっと頭が重くて、身体が怠くて。でも、飲まなかったら外歩けないし。ヒートが来ると、それに加えて発熱して昼夜問わず寝たり起きたりを繰り返すんです。ずっと寂しくて、魘されてる間母さんでもない、医者でもない、ずっと誰かに助けを求めてるんですけど、その誰かがわからなくて。俺にとってのその誰かは、百瀬さんなんじゃないかって思うんですけど」  熱烈な告白だとは思う。しかし、身近にいたアルファが百瀬であった、ただそれだけのことではなかろうか。 「キツイ言い方をしてしまうけれど、それって自分が楽になりたいだけだよね?俺の都合は考えないの?」 「……百瀬さんに好きな人ができたらやめてもらっていいです」  先ず、可哀想だと思った。オメガとして生きることがこんなに大変なのだということを知らなかった。それから、裏切られたような気持ちでいっぱいになった。身体が思うようにならないと泣いていた少年と自分はどこか似ていて、分かり合えるのではないかと思っていた。アルファというだけで取り入ろうをする人間と、目の前の哀れなオメガは同じ生き物だ。同情を引いて身体を利用しようとする分、タチが悪い。 「わかった。いいよ、会ってあげる。だけど、鍵はいらない。それからちゃんと両親を説得すること。捕まりたくないから」 「ありがとうございます」  少年はほっとしていたようだった。この先、何度も後悔することになるだろう。手段を択ばず乗り込んでくるくらいだから、よっぽど切羽詰まっているのはわかった。お人好しの百瀬には放っておけなかった。百瀬さんに相談してよかった、と言う少年に頭痛がしてくる。この少年は簡単に人を信用しすぎる。  何も考えずに定期をかざして改札をくぐり、ふと後ろを振り返る。少年がスマホを読み取り機にかざして後ろを付いてきた。 「アプリ入れてたのか」  百瀬の独り言を聞いて、少年はその意味するところを正しく察したらしい。 「無賃乗車してきたと思いました?」 「いや……所持金もカードもなかったから、どうしたのかなとは思ってた」  警戒心が解けたようで、電車を待つ間少年は百瀬の大学の話を聞きたがった。大学の最寄り駅なだけあって、若者の姿を多く見かける。午後10時近く、背丈からとても大学生には見えない少年は、熱帯夜の中、日差しがあるわけでもないのに長袖を着てフードまで被っていて明らかに浮いていた。百瀬は誘拐を疑われないか内心ビクビクしていたのだが、少年は気にしていないようだった。  暴風と共に電車がホームに入ってきて、一番近くの開いたドアから車両に乗り込む。座席はガラガラだったが、少年は座ろうとせずドア付近で立ち止まった。百瀬もそれに倣う。 「オープンキャンパス来てたけど、うちが第一志望なの?」 「友達の第一志望で、できたら一緒に行きたいなって。だけど俺、頭悪いから受かりそうもないんですよね……。もっと勉強しないと」  ドアが閉まり、電車が動き出す。窓の外は真っ暗で、疲労感漂う明るい車内の様子が窓に映し出されている。 「その友達って、この間一緒に来ていた子?」 「そうです!! 幼馴染なんですけど、部活も一緒で」  部活は何をやっていたの、と聞きながら少年の友達の話を面白く思っていない自分に気付く。 「柔道やってました」 「え、柔道?」 「俺がオメガだって分かってから、護身術を身に付けておくようにって10歳くらいから道場に通わされてました。いざって時に何の役にも立たなかったけど……」  それに関しては、百瀬は何も言えなかった。もしかしたら無理矢理襲った時に顎を割られていた可能性もあったわけで、想像するだけでゾッとする。 「この際だから言っちゃうけど、俺、その友達が好きなんです。友達としてじゃなくて、恋愛感情の方で」  その友人のために頬を染める少年を見て、やっぱり面白くないなと思う。友達の話になると声色が明るくなり、早口になった。わざわざ言わなくても好意を持っていることはわかっていた。 「けど、彼はベータでしょ。番にはなれないよ」 「わかってます。でも、友達ならずっと一緒にいられる」  ――首輪さえなければ、今すぐこの場で番にしてやれるのに。少年の襟元から覘く首輪だけが百瀬の理性を保たせていた。この独占欲は一体何なんだろう。好きになったわけではあるまいし、自分の匂いを付けたオメガが、他の雄に好意を寄せていることがただただ気に入らなかった。 「あ、番号教えてもらっていいですか?」 「いいよ」  電話帳を開いて見せると、少年は液晶画面に映った番号を自分のスマホにメモする。後でSNSのURLとかメールしますね、と言いながら少年がスマホをポケットにしまった。車内アナウンスが停車駅を知らせ、電車が減速した。 「俺、ここで降りるので。今日はありがとうございました」  ドアが開き、車内から降りて行った少年の姿を見送る。少年の家は一度謝罪に訪れており、大まかな場所は分かっている。地下鉄を降りて、乗り換えが必要になる。本当は最寄り駅まで送っていくつもりだった。扉が閉まり電車が動き出すと、次の停車駅で電車を降りた。反対の電車に乗って、来た道を戻る。百瀬の最寄り駅は少年の乗ってきた電車とは反対方向だった。  友達ならずっと一緒にいられると言いながら、少年が本能に逆らおうとしていたのは、友人への恋心からではなかろうか。純粋な恋心を、アルファだオメガだで片付けて蹂躙した。自分は何て恥ずかしい生き物なのだろう。今日は酷く疲れた。暗闇の中にぼんやりと窓に映る自分の姿を見つめながら、ただ電車の揺れに身を任せた。

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