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人狐の皮衣

 北の大臣(おとど)は寝床につく前に梟の声を聞いた。  二回、三回、一回、二回。  大臣は寒夜にも凍えぬ格好を整え、そろりと館を出た。  村を抜け、川を渡り、丘にのぼる。丘を越えた窪地に小さな火が見えた。  火のそばに荒布の天幕がかかっている。 「呼び出しなどかけおって。そのまま館に入ればよいものを」  天幕の布をめくりながら大臣が声をかけると、中にいた猟師は居住まいを正し平伏した。 「大臣にお越しいただくなど恐れ多いことをいたしました。……お命じになられた人狐(ひとぎつね)の件、万策尽き果て思いあまった末……」  大臣はどっかと座り込んだ。 「よいよい……元より主上(おかみ)の無理を託したわしの落ち度じゃ。そなたが無事帰ってきただけでよい。わしから人狐などおりませなんだと主上に申し上げよう」 「いえ、人狐はおりましてございます」  夏至の祭のためにやってきた西の姫君が「黄金づくり筆」を主上のご覧に入れた。  「黄金づくりの筆」はその名の通り、軸から穂先まですべてが黄金色に輝いているのに、竹の筆よりよほど軽い、不思議な筆であった。西の姫君はこの筆を使うと墨を流すが如くすらすらと、名人のように書けるのだと吹聴していたがその真偽はさておき――  主上はこの黄金色の穂先は何の毛なのかと姫君に問われた。姫君は、うんと北には人狐という人と狐の中間のような生き物がいて、その背なの一番柔らかい毛だと申し上げた。  その時主上は、ふむ。と一言おっしゃっただけであったが、姫君が帰途に着かれると北の大臣を御座所に呼び出された。 「年が明けるまでに、北の果てに住む人狐の毛皮で作った皮衣が欲しい」  主上が欲しいと言えば、それは命令である。 「人狐がおったとな」 「はい」  いっそおらぬと言えばよいものを、と大臣は頭を抱えた。  猟師は大臣の狩りの師であった男の息子で、歳は大臣の半分にも満たぬのに大臣より頑固であった。この頑固さゆえか狩りの腕は抜群でありながら、他の者と組んで猟をすることは無く、自然、耳目を集めるような大きな成果をあげることもなかった。 「捕らえられなんだか。そなたの腕をもってしても」  名さえ上がれば、面相もまずます。いつでも宮殿に仕える衛士に推挙できるのだが。  大臣は歯がゆい思いで肩を落とした。 「待て」  猟師の傍らに置かれた靫から声がする。  見ると一本の矢の矢羽根がふわりと揺らいだ。  ゆらぎは上へと立ち上り、白く形をとり金色に輝いた。 「この者の腕前は見事なものであった」  気づけば猟師の横に金毛豊かな偉丈夫が立っていた。ことに背中の毛は見事に波打っている。 背の先の尾はふっくらと太い。襟巻にすれば毛に溺れてしまいそうだ。  目はぎらぎらと赤く光り、大臣をにらみつける。   「連れ帰ったのか、人狐を」  猟師は再びひれ伏し、滔々といきさつを述べはじめた。 「大臣より命を受け、三つの森を行き、三つの湖を渡り、三つの山並みを越え、人語途絶えて三十三日、この人狐に出くわしました。三十三日化かし合い、三十三日戦い……人狐といえど人語を解し」  人狐は赤く光る目を伏せて、猟師に並んで大臣の前にひざまずいた。 「人といえど思慮深き様に、お互い気の通ずるところあり……争いをやめたのだ」 「そして、三日三晩思い悩み、大臣のお知恵にすがりたいと、三十三日かけて戻った次第にございます」  大臣は大いに面食らった。戦いの果てに気脈が通じるというのは大臣にもわからないではない。しかしこの二人――人語を解するのだ、一人と数えて差し支えないだろう――どうもそれ以上に思い合っているようだ。 「そなたたちは、例え許されたとして、どうするつもりなのだ」  猟師と人狐は目を合わせてかすかに微笑みあった。 「二人して極北の地へ」  猟師の言葉に大臣は嘆息した。 「人狐の皮衣を欲されたのは主上じゃ。主上は大変な名君であらせられるからして、そなたの狩りが不首尾に終わったとて何もおとがめはなさらぬだろう。しかし、主上は欲しいと思ったものは手に入れなければ気の済まぬお方。そなたが狩らぬなら別の者を……もっと数多くの者に命が下るであろうよ」  人狐の尾が猟師の体に優しく巻き付いた。 「私は一人で北へ帰る。それが一番良い」 「いやだ……お前は俺が守る」  ひげ面の大の男の瞳から涙がこぼれ落ちる様子を見て大臣はとんと辟易した。 「まぁ待て、愁嘆場を演じている場合ではない。そなたたち、思い悩むのは三日三晩にしておいてよかったぞ。三十三日では目も当てられぬ」  年明けて、国中の上つ方が宮殿に参内した。北の大臣も西の姫君も晴れ着で主上に拝謁した。  手に入れたばかりの黄金の皮衣を召された主上は西の姫君に「ご立派ですわ」と誉め称えられ、珍しく頬を紅潮させるほど、終始上機嫌であった。  正月一日は昼餐の前に主上が宮殿の壁上から臣民を言祝ぐのが習わしである。  壁上へ向かうために狭い石の階段を登っている途中だった。 「暑い」  主上の頬は上機嫌という以上に赤く染まり、額には汗が浮かんでいる。  真後ろに控えていた北の大臣が声をかけた。 「皮衣のせいでございましょう」 「ふむ」 と言うなり、主上は皮衣を脱ぎ捨てた。  大臣は皮衣を拾い上げ、いかにもうらやましげに主上に申し上げた。 「これは温かい。主上はお若うございますから、暑う思われましょうが、年寄りには丁度良き心地でございます」 「そうか、年寄りには丁度良いか。ではお前にやろう」 「よろしいのでございますか」 「かまわぬ。着てみよ」 「恐れ多いことなれど……では。おお、これは春のような暖かさでございます。まさに寛大にして慈悲深き主上のご威光の賜物。ありがたいことでございます」  主上は少しだけ振り返り、大げさにありがたがる北の大臣を見届けて壁上に登った。 「ふう、暑い暑い、なんぼわしが年寄りだとて、生きた狐を背負うのは暑すぎるわい」  新年の行事が終わり、北の所領に戻った大臣は再びそろりと館を抜け出して森に向かった。  森の中には心配そうな顔をした猟師が待ちかまえていた。猟師の姿が見えたと思うと、大臣の肩に乗っていた皮衣は揺らぎ、白変して、人狐の姿となり猟師の側に降り立った。 「主上は欲したものは必ず手に入れるお方だが、一度手に入れたものには執着なさらぬ。おそらくもう皮衣のことなどお忘れであろうよ」  猟師と人狐はそろって大臣の前にひざまずき、頭を垂れた。 「このご恩は決して忘れません」 「よいよい、はよう行け。二人して人のおらぬ極北の地へ帰るがよい」  人狐がくるりと身を翻すと狼よりも大きな金色の狐が現れた。猟師がその背にまたがると、狐は大臣の周りを一巡りして、北へ向かって走り去っていった。  狐の巻き起こした風に大臣の汗も冷やされた。  大臣はひとつくしゃみをして、そそくさと館へ戻っていった。

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