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第2話
年末というものはどこであっても忙しなく、やることがいっぱいあるものだが、こと宮中ではそこらの貴族など目ではないくらいに忙しなかった。
「さぁさぁ、どうぞご覧くださいませ。東宮妃様と若宮様が新年に御召しになる衣をもうお決めになりませんと」
そうにこやかに笑うのは東宮妃として昭陽北舎に住まう幸永の世話をしている女房の和沙だ。和沙は師走に入るとすぐに他の女房を引き連れて色とりどりの美しい絹織物を幸永の前に広げた。女であれば羨まずにはいられない豪勢な光景であるが、半陰陽であっても生まれた時から男として育ってきた幸永は困惑するより他ない。東宮である清史と結ばれるまでは狩衣や束帯を身に着けていた己が十二単用の鮮やかな絹織物を並べられたところで何もわからないというのが本音だ。ただ幸永の膝に抱えられて座っている若宮はその美しい光景にキャァキャァと楽しそうに歓声をあげてとても楽しそうである。
「宮中行事だから十二単を着なければいけないのはわかるが、俺にはよくわからないから任せる。それよりも、若宮の衣を――」
選ぼう、と言いかけた時だった。
「ほほほ、ほんに清史の言う通りになっているようじゃなぁ」
幸永の言葉を遮るように笑い声が響き、皆の視線がそちらに向けられた。檜扇で口元を隠しながらコロコロと笑っているのは弘徽殿の中宮――清史の母君である。
「これは、義母上様」
幸永は若宮を抱いたまま立ち上がり、下座に移る。だがいつものごとく中宮は上座に座ることなく、幸永の側に座った。頭を垂れる幸永に顔を上げるよう、肩にそっと手を置いて促す。
「礼など構わぬ。それより、もう師走ゆえに早う新年の衣を決めねばなぁ。そなたはきっと選ぶのに困るであろうと清史が言っておったのでな。不躾かと思うたが邪魔させてもろうた」
若宮の衣はともかくとして、幸永は己の十二単を選ぶのに苦労するだろうと予想していた清史は、本来であれば己が選びたいところであるが東宮としての役目が忙しく時間が取れないと母に助け舟を頼んでいたのだ。中宮であれば幸永の心境も慮ってくれるだろうと。
「わざわざ申し訳ございません。恥ずかしながらご覧の通り、ほとほと困っておりました」
ヘニョリと眉尻を下げて苦笑する幸永に中宮は檜扇で口元を隠しながら笑みを浮かべる。
「そうであろうのぉ。先ほど少し聞こえてきたが、若宮の衣から決めるか? あぁ、そうじゃ。いっそ若宮と同じ色で表着を仕立ててはどうじゃ? それに合わせて袿や唐衣を決めればよい。のぉ若宮、そなたもおたぁさんと一緒であれば嬉しいであろう?」
にこやかな視線を向けられた若宮は幸永の膝の上で大人しくしながらも「あーい!」と満面の笑みを浮かべながら手をパタパタと嬉しそうに動かした。
「おぉ、おぉ、若宮は賢いのぉ。ばばの言うことがわかるのじゃな」
優しく幼子のぷくぷくとした頬を撫でる中宮に笑みをこぼしながら、幸永は若宮を軽く抱き上げて中宮の腕に渡した。中宮は檜扇を女房に預け嬉しそうに両手で若宮を抱いている。若宮も常に優しくしてくれる中宮が大好きであるのでご機嫌だ。
「ばばなどと。義母上様はまだお若くていらっしゃるではありませんか」
そして清史ほど大きな子供がいるとは思えぬほどに若々しく美しい顔だ。流石は今上帝が深く寵愛する中宮と言ったところか。これほど〝ばば〟という呼び名が似合わない人も他にいないであろうと思うのに、当の本人はコロコロと楽しそうに笑っている。
「なに、若宮にとっては〝ばば〟じゃからのぉ。おぉ、おぉ、ご機嫌じゃな。ほんに可愛い子じゃ。今おたぁさんがそなたの衣を選んでくれるからの」
して、どれにする? と中宮は視線だけを幸永に向けた。己の衣はどれでもいいと思うかもしれないが、我が子の衣は己で選びたいという親心を中宮は無視しようとは思わない。その心遣いに感謝しながら、幸永は和沙たちが広げている数々の絹織物に視線を向けた。
「しかし義母上様、若宮の衣はともかくとして、同じ色で私の衣を仕立てては清史の体面に傷がつくのでは……」
新年は特に皆が入念に着飾るものだ。若宮の衣を考えるならばやはり幼くとも男らしく凛々しいものを選びたいが、女性達の中では地味になってしまうだろう。女性らしく華やかで美しい衣の方が清史の体面を傷つけることはない。ただ幸永が気乗りしないだけの話で。
だが清史を思ってうんうんと悩む幸永に中宮は何を心配することがあるのかと笑った。
「ほほほ、構わぬ構わぬ。そなたはお世継ぎを産んだ押しも押されぬ東宮妃じゃ。何も気にせず新年の衣くらい好きなものを選べば良い。どのみち清史は場所でそなたへの態度を変えるような性格はしておらぬでな、いつもの如くあからさまにそなたを大切にしよう。お世継ぎの生みの親であり東宮が大切に大切にする妃に対して嫌味を言うたところで嫉妬は見苦しゅうあるなぁ、と周りからそやつが嘲笑されるだけのこと。言えば言うほどそやつの体面が傷つきこそすれ、こちらは何一つ傷つかぬ。ならば言いたいだけ言わせておけばよい。清史もそのようなことで傷つくほど可愛らしい性格ではないぞ?」
それに、と中宮は口に出すことなく胸の内で微笑む。色や柄は様々であるがこれほど上質な絹織物は貴族の姫は勿論、内裏の中であってもそうそう纏えるものではない。幸永はこの内裏に連れてこられた時から清史や中宮が用意する衣しか身に纏ったことがなく、さほどウロウロ動く性格でもないので知らないのだ。新年であろうとなかろうと、幸永の纏う衣や扇のすべてが、彼が誰に愛され、その後ろに誰がいるのかを雄弁に物語っているようなもの。わかっていないのは幸永だけである。
「良いのでしょうか?」
未だ不安そうにする幸永に中宮は構わぬと言い切って腕の中の若宮を己の膝に座らせた。
「ふふ、若宮には何でも似合いそうじゃのぉ。子供らしゅう明るい色も良いが、男らしゅう深みのある色も良い」
親の欲目と言われるかもしれないが、幸永もまた若宮には何でも似合うと思う。さてどれにしようかとあれこれ手に取っては若宮にあててみる。あれも良い、これも似合うと考えこんでいると退屈になったのか、やはり新年だから萌黄にしようと幸永が決めた頃には若宮は眠たそうに眼をトロンとさせながらウニュウニュと愚図りだしていた。
「あぁもう眠いのだな。もう終わりだから、おいで」
そっと若宮を腕に抱いた幸永はゆらゆらと揺れながらポン、ポンと優しくお尻を叩いてあやす。モゾモゾと動いていた若宮は幸永の胸元をギュッと握りしめて顔を埋めると、もう限界だとばかりに瞼を閉ざし寝息をたてた。
若宮がグッスリと眠ったころ、一人の女房がしずしずと入室してくる。中宮に礼をして手に持っていた桐箱を差し出した。
「お申し付けになられていた物が届きましてございます」
「おお、届いたか。ふふふ、若宮は寝てしもうたが、楽しみは新年に取っておくのもよい」
女房から桐箱を受け取った中宮は若宮を抱いた幸永に悪戯っ子のような視線を向けた。
「幸永殿。これは主上と妾が若宮にと思うて取り寄せたものじゃ。主上はお忙しくあるからのぉ、お許しをいただいて妾からお渡ししよう」
そう言って中宮はそっと桐箱の蓋を開けて幸永に見せた。そこには美しい絵が描かれた羽子板が納められている。その美しさに幸永は感嘆の息を零した。
「このように素晴らしいものを、いただいてもよろしいのですか? 若宮はまだ幼いですから、価値もわからずかじりついてしまうやもしれません」
「ほほほ、構わぬ構わぬ。幼子というのはそういうものじゃ。清史もまだ立つことさえできなんだ頃は何でも口に含んで歯形をつけておった。壊してもよい、振り回して遊んでも構わぬ。必要なのはな、こういったものに縁をするということじゃ。そうすればの、大人になっても自然と周りに一級のものが集まる。そして次は己の子に同じように与えてやればよい。そうして巡らせゆくのじゃ」
その言葉はとても、とても慈愛に満ちている。権勢を見せつけるためではなく、ただひたすらに幸せたれと願って。それはどれほど温かいものか。
「ありがとうございます。若宮もきっと、喜びましょう」
ふわりと零れた笑みに中宮も満足そうにコロコロと笑った時、シュッと衣擦れの音がした。視線を向ければ、ちょうど清史が入ってきたところだった。清史はあたりに広げられた絹織物を見つめながら幸永の側に座る。
「幸永の衣選びに間に合うかと急いで諸々を片付けてきたが、遅かったか?」
どこかしょんぼりとしながら眠る若宮の頬を撫でる清史に、耐えきれぬとばかりに中宮が檜扇で口元を隠しながら笑い出した。
「ほほほほほ、清史よ、そなた何を捨てられた子犬のような顔をしておるのじゃ。どうせ毎日の小袿はそなたが選んでいるのであろう? ならば新年の衣くらい妾が見立てても良いではないか」
「母上……、確かに母上にお頼みしたのは私ですが、普段であろうと新年だろうと時が許すのであれば幸永の纏うものはすべて私が選んだものにしたいのです。せっかくの楽しみなのですから、そうお笑いくださいますな」
真剣に抗議する清史に再び中宮がコロコロと笑う。この子が、これほどまでに誰かに執着するだなどと思いもしなかった。だが、息子も幸永も幸せそうであるのだから、それで良い。
「ほほほほ、わかった。わかったゆえ、そう剝れるでない。では、妾は退散するとするかのぉ。幸永殿、清史がしつこければいつでも弘徽殿に来るがよい。妾が匿って、清史が来たとしてもしっかり追い払ってやるゆえなぁ」
「母上!」
清史の声もなんのその、ほほほほほ、と笑い声を響かせて優雅に中宮は去っていった。ちなみに幸永はあまりのことに頭が羞恥でうまく働かず顔を真っ赤にするばかりで声ひとつ出なかった。
まったく、と小さく息をついた清史は絹織物を置いて下がるよう和沙たちに伝え、彼女たちは優雅に一礼してしずしずと下がっていく。室内には清史と幸永、眠っている若宮だけとなった。
あまり抱いていては若宮も寝にくいだろうと、幸永はグッスリと眠っている若宮を起こさないよう側に寝ころばせ、上から小袿をかけ温かくする。そんな幸永の肩に腕をまわして、清史は抱き寄せた。
「で? 幸永はどれにしたのだ?」
どこかしょんぼりしたままの清史に、幸永も思わずクスッと笑ってしまう。本当に子犬のようだ。
「選んでないよ。若宮の衣を選んでいて、さっき決めたばかりだから。義母上様が若宮と同じ色の表着にしてはどうかと言ってくださったが、それ以外は何も。若宮のは、この萌黄にしようかと思って……」
まだ選んでいないという事実にしょんぼりと沈んでいた清史の瞳が輝きだした。幸永が指さした萌黄の絹織物に視線を向けて、なるほど、とひとつ頷く。
「なら、幸永の衣は私が選んでも良いだろう?」
どのみち自分ではうまく選べないのだから、と幸永はコクンと首を縦に振った。
「萌黄なら、こちらの方が映えるか。だが、こちらも……」
あれこれと手に取って吟味する清史の顔はとても楽しそうだ。どこか声さえも弾んでいるように聞こえる。そのことにどこかポカポカと心が温かくなって、ふわりと欠伸が零れ落ちる。清史の声が心地よい子守歌のようだ。
コクン、コクンと舟をこぐ幸永の様子に気づいて、清史は静かに移動して幸永を背中から包み込む。
「疲れたんだな」
フルフルと首を横に振る幸永だが、その動きさえ緩慢で瞼はもう重たげに半分以上閉ざされている。清史は揺れる幸永の頭をそっと己の胸にもたれさせて、器用に足を伸ばしてやる。ホゥ、と吐息を零した幸永の身体を抱きしめて、清史はその髪に口づけた。
「おやすみ……」
その言葉に促されるように、スゥー、と幸永は眠りにつく。気持ちよさそうに眠る妻と我が子を見つめ、清史の口元には笑みが浮かんでいた。
近頃忙しかったから、少しくらいこの穏やかで幸せな時間にまどろむのも良いだろう。
幸永の衣をどうしようかとあれこれ考えながら、清史は腕の中にある愛し人の温もりを感じ微笑んでいた。
結局幸永と若宮が同じ色を纏うのならばと清史も同じ色で衣を仕立て、新年の諸々の儀式が終わり格式張らなくても良いとなった時に揃いで纏ったという。
そして主上と中宮から贈られた羽子板は、予言通り嬉しすぎて歓声を上げた若宮がさっそくかぶりついたのだった。
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