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迷い犬
犬塚はソファに寝そべって雨の音を聞いていた。今年一番の冷え込みで夜には雪に変わりそうだ。
竜蛇は忙しいようで、この日も深夜すぎの帰宅になると言っていた。先に寝ていてかまわないとも言われているが、犬塚は起きて待っていた。
竜蛇の家に連れて来られてから、昼間は涼の手伝いをする程度で特にやることもないのだ。夜通し起きていても昼間眠ればいい。
犬塚は雨の日が好きだ。
雨音が雑音を消してくれる。静けさを感じて気持ちが落ち着くのだ。
仕事をしていた頃は、雨は痕跡を消してくれた。
ブランカは雨の日は苦手なようだったと、ぼんやりと思い出す。
ここ最近、犬塚はブランカの事を“思い出す”ようになった。今まではブランカの事を“考えたり”、“思ったり”していた。
思い出すという事は、ブランカが過去の記憶になりつつあるという事だ。
今考えるのは竜蛇の事ばかりだ。
あの男を愛しているかどうかは分からない。そもそも愛するという事がよく分からないのだ。
最初は殺したかったし、あの男が怖かった。今は別の意味で恐れているが……。
あの男の中で自分はいったいどんな存在なのか。愛していると言いながら拷問したり、かと思えばどろどろに甘やかしたりもする。
犬塚の抵抗や反抗を楽しんでいるのだ。ゆっくりと竜蛇という男の沼に沈んでいくように調教されている。
その沼に沈んだ先には何が待っているのだろうか……?
竜蛇の事を考えていると、玄関の方から物音がして竜蛇が帰ってきた。出迎えてやるほどのサービス精神はないので、犬塚はソファに寝そべったまま竜蛇の事待つ。
「起きていたのか」
毎晩起きて待っているのに、竜蛇は毎回同じ事を言う。犬塚は無言のまま竜蛇を見上げた。
少し疲れが顔に出ているが、相変わらず美しい顔をしていた。
「ただいま。犬塚」
骨張った長い指が愛おしげに犬塚の黒髪を梳いて、微笑を浮かべた唇が降りてきた。軽く触れて離れようとする竜蛇を犬塚は引き止める。
「どうした?」
「……」
もう一週間、竜蛇とはしていなかった。
眠る時は同じベッドだが、セックスはしていない。
「しないのか?」
単刀直入な言葉に竜蛇は少し驚いたように目を開く。それから面白そうに目を細めた。
「してほしいのか?」
「……別に」
琥珀の瞳がじっくりと犬塚の顔を見ている。犬塚を丸呑みにしようとする蛇のような目だ。
この目が苦手だ。
竜蛇の眼差しは犬塚ですら知らない己の心の奥底を見抜こうとしている。これまで散々心も体も暴かれてきたが、竜蛇は躊躇いなくさらにその奥深くへと踏み込んでくるのだ。
「なんだ。飢えているのかと思ったがそうじゃないな」
この夜も竜蛇は犬塚の言葉の上っ面ではなく、その背後の本当のところを見抜いていた。
「やらないならいい。俺はもう寝る」
「待て」
起き上がってベッドへ移動しようとする犬塚を竜蛇が引き止めた。
ソファに座ると犬塚を抱き寄せる。
「お前は雨の夜に不安になるようだな」
竜蛇の言葉に犬塚は驚く。犬塚自身は雨の日は好きだと思っているのに。
「なぜそう思う?」
「雨の夜のお前は大人しい。寂しくなるんだろう。まるで捨て犬みたいに」
その的外れな言葉に犬塚は苛立つ。雨の音を聞くと気持ちが落ち着くだけだ。
「俺はお前を捨てたりしないから安心しろ」
「何の事だ。あんたこそ俺に逃げられないように気をつけろ」
竜蛇から離れようとする犬塚を許さず、より強く拘束して腕の中に捕えた。
「お前とのセックスは最高だ。だがセックスしていなくてもお前は最高だ」
「……何の話だ」
「今夜、俺としたいわけじゃないんだろう? 体を繋がない事で不安に思わなくていい」
「……」
図星だった。
竜蛇にとって犬塚との関係からセックスを抜けば何が残るのか分からないでいた。
この男は嗜虐趣味の変態だ。犬塚が従順になればきっと飽きる。
でも犬塚は竜蛇に本気で抗い続ける事が難しくなってきていた。
竜蛇が望むように反抗的なままで、この男の物にならないと抗うのに疲れていた。
「最近のお前は考えすぎだ。そんなところも可愛いが」
「うるさい。離せ」
「どんなお前でもかまわない。愛しているよ、幸人」
「……!」
ふいに名を呼ばれて動けなくなる。竜蛇だけが犬塚を幸人と呼ぶ。
その声に極上の甘さを含ませて、犬塚の本当の名前を何度も呼ぶのだ。
名を呼ばれるだけで犬塚を支配できる竜蛇に対して悔しくなる。犬塚はこの男を失いたくないのだ。そんな感情は犬塚を弱くする。
嫌だった。もう一人で生きてはいけない自分になってしまったと認めることが。
「お前がお前だから愛しい。俺の顔色を伺う必要はない」
「は、じゃあ俺がもうあんたとは寝ないと言ったらどうするんだ?」
「問題ない。その気にさせてみせる」
「あ」
竜蛇の手が服の中に滑り込む。胸の尖りを冷えた指先で嬲られて、犬塚は息を詰めた。
「……っ、しないんだろ」
「気が変わった」
琥珀の瞳に嗜虐めいた輝きが宿る。その目にぞくぞくする。
「お前はまだ迷い犬だ。躾けてやらないと、愚かな子犬のように逃げようとするからな」
「……誰が子犬だ……あっ」
「我儘で可愛い雌犬だ」
「うるさ……んぅ」
唇が重なる。竜蛇からのキスに犬塚は夢中で応えた。
昔のように一人では生きられない。
ブランカに忠実でさえいれば満足していた頃にも戻れない。
犬塚の精神は揺れ動いている。
愛されることも、愛することも分からないのだから。
今は竜蛇に奪われる事に安堵していた。
「愛しているよ。幸人。お前は俺のものだ」
「……志信」
犬塚の方から竜蛇に口付けて、竜蛇が愛と呼ぶ深い沼に、溺れる覚悟をまたひとつ決めたのだった。
end.
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