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第85話 失恋の自覚

本当に悲しい瞬間って涙が出ないのかもしれない。 涙が出る前に思考回路が閉じちゃうから 涙も何もないのかもしれないけど、 僕の神経はその瞬間、死んだように感じた。 「陽ちゃん! 陽ちゃん! 僕の声、ちゃんと聞こえてる?」 かなちゃんの何度目かの呼びかけでやっと、 「えっ?」 とスローモーションのようにかなちゃんの方を振り向いた。 心配そうに僕の顔を覗き込んでいるかなちゃんの表情は認識で来た。 「陽ちゃん、大丈夫なの? ちゃんと自分の名前分かってる? 自分が今、何処にいるかわかってる?」 かなちゃんのその問いに、 僕はチグハグな返答を返した。 「ねえ、かなちゃん? どうして僕には発情期来ないのかな~? 発情期が来ないから……」 そう言ってかなちゃんを見上げた時に、 泣きそうになっている彼の顔を見てハッとして僕は口を噤んだ。 「ごめん、僕部屋に行くね……」 そう言って心配するかなちゃんをキッチンに残して 僕は自分の部屋へ行った。 それ以上は、かなちゃんも何も言ってこなかったので、 暫く僕を一人にしておこうと思ったんだろう。 ベッドに転がり天井をボンヤリと眺めながら、 “明日から夏休みで良かった…… 暫く誰にも会いたくないな…… でも海…… どうしよう…… それよりも、せっかく決めた告白、 楽しみにしてたのに……ダメになっちゃったな…… あ~あ、こんなはずではなかったのに……” そう思って僕は先輩のくれた絵を見た。 手前で大きく笑っている子の顔が、 今日は悲しそうにしているように見え、 僕はガバッと起き上がって瞬きした後、 もう一度絵を凝視した。 “ちゃんと笑ってる…… やっぱり気のせいか…… ごめんね、もし君が僕の娘だったら、 産んであげることが出来ないね。 あっ、どうせ発情期も来ないから、 産むも、産まないも無いか…… でも大丈夫だよ、心配しないでね。 きっと詩織さんが君の事、産んでくれるよ……” そうぽつりと言って、僕は初めて涙が出た。 “これからどうしよう……” そう考えたとき、城之内先生の、 “失恋したら僕の事考えて?” を思い出して、もういっそ城之内先生にしてしまおうかとも考えた。 でもフルフルと頭を振って、 “ダメダメ、自暴自棄になっちゃだめだ。   陽一、お前は賢い奴だ。 今だけの状況で未来を決めるんじゃない!” そう自分に言い聞かせて、何とか気を奮い立たせようとした。 自分にもうチャンスがあるとは思わなかったけど、 失恋して、みじめな自分にはなりたくなかった。 好きな人をすぐにはあきらめることは出来ないけど、 きっと時間が解決してくれるはずだ。 僕は自由なんだ! と言うような気持でこれからを乗り切って行こう! そうは自分に言い聞かせても、 やっぱり辛さは今は消すことは出来なかった。 時計を見ると、夕方の4時。 僕は塾の自習室に行くことに決めた。 “今は受験の事だけ考えよう。 忙しくしてたらきっと先輩の事は考えなくて良いはず!” そうは思っも、心の中に少しだけ、 城之内先生に会いたかった自分がいたのは否めない。 「かなちゃん、僕、塾の自習室に行ってくる! もしかしたら城之内先生がいるかもしれないし!」 と言うと、 「陽ちゃん! ちょっと待って!」 とかなちゃんが僕を追って玄関までやってきた。 「出かけたりして本当に大丈夫なの? ちゃんと家に帰ってくる? それに……先輩の事は……」 僕はかなちゃんの肩に手を置いて、 「かなちゃん、今度ゆっくりした時に 僕の話を聞いてね。 今はまだ何も話せそうにないから」 そう言うと、ウン、ウン、と言ってかなちゃんは僕に抱き着いてきた。 その瞬間、 「痛っ!」 と急に言ったかなちゃんの声に、 「どうしたの? 大丈夫? お腹痛いの?」 と慌てて声をかけると、 「大丈夫、大丈夫、ひろ君に蹴られちゃった」 と、赤ちゃんにちょうど蹴られたみたいだ。 悪阻の事もあったし、かなちゃんの不調には少し敏感になってるので、 ちょっと焦ってしまった。 かなちゃんはお腹をさすりながら、 「お兄ちゃんの事、心配してるみたいだね」 と言ってちょっと涙ぐんだ。 僕は11月に新しく弟を迎える。 かなちゃんのおなかも少しふっくらとしてきて、 妊娠してるのがはたからでもわかる。 名前は大翔と決めてある。 佐々木家の祖父の命名だ。 なんでもなかったと分かって安心して、 僕はかなちゃんのお腹に、 「ひろ君、お兄ちゃん、お勉強に行ってくるね。 お利口にしてるんだよ。 ママをあまりいじめないでね」 そう話しかけて、玄関を出た。 所が、玄関を出たところで先輩と出くわした。 さっきの今で少し気まずかった。 先輩もまさかこんな感じで僕に会うとは思っていなかったのだろう。 ひっくり返るかと言うようにびっくりとしていた。 その姿が可笑しくてクスクスと笑うと、 後ろからヒョイっと詩織さんが顔を出した。 その途端、僕の全身に緊張が走ったけど、 “僕は負けない……” そう自分に言い聞かせて、 「二人とも、この度はおめでとうございます。 末永くお幸せに!」 ギリギリのところで微笑んでそう言うと、 詩織さんが勝ち誇ったような顔をして、 「ありがとう。 陽一君は今年は受験なのよね。 大変だろうけど、頑張ってね」 そう言って、僕に笑いかけた。 笑いかけたけど、その顔が憎らしくて、 僕は一礼すると、その場から逃げ出した。 「あっ、陽一君!」 先輩が呼び止めたので、振り返ると、 「要君は家にいるのかな?」 ってそんなの、インターホン押せばわかる事でしょう? と思ったけど、 「いますよ~!」 と手を振ってまたお辞儀すると、 僕は涙をこらえてまたスタスタと歩き出した。 さすがに泣きながら道を歩くわけにはいかないので、 エレベーターが一階に着くまでには頑張って平静を取り戻した。 外に出ると、もう夕方の4時だというのに、 まだまだ夏の日差しが痛かった。 後ろを振り返ると、マンションがそびえたっている。 “結婚したら先輩引っ越すのかな? 先輩のマンション、シングル用だし、 近くに居たいけど、今みたいな場面が度々あるんだったら嫌だな……” そう思いながら塾への道を急いだ。 塾の前まで来ると、教室は閉まっていた。 そして張り紙…… そうだった。 今週末は夏期講習を始めるための設備点検のために塾は閉まるんだった! 先輩の事で頭が一杯だった僕はそのことをすっかりと忘れていた。 “あ~あ、今日って僕にとっての厄日だな…… これからどうしよう…… かなちゃんには塾に行くって言っちゃったし…… マックにでもよって帰ろうかな…… あっ、でもお腹いっぱいになっちゃうと、夕飯食べれなくなるな~” そう言うことを思いながら道を引き返そうとしたとき、 「陽一君?」 と塾のドアが開いて、中から城之内先生が出てきた。 そのタイミングがパーフェクトだったのか、 それとも抱えていた思いがそこで堰を切ったのか、 僕は城之内先生に走りよると、 胸に抱き着いてワンワン泣き始めた。 「ちょ…… どうしたの?! 今誰もいないから、入って、入って!」 そう言って先生は僕を中に通してくれた。 中は業者の人が行ったり来たりはしていたけど、 塾の生徒や先生達は誰もいなかったので、 先生の個室に僕を通してくれた。 「ほら、座って。 何か飲む?って言ってもお水のボトルしかないんだけど……」 僕は嗚咽しながら、首を横に振った。 先生は横に来て座り、僕の肩を抱くと、 「陽一君を泣かしてるのって、 陽一君の想い人だよね? 一体何があったの?」 と優しく尋ねた。 僕は暫く黙って下を向いていたけど、 大きく鼻をすすり上げると、 深呼吸をして、 「彼、結婚するんだって……」 と小声で答えた。 先生は 「そっか……」 と一言言っただけだった。

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