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第1話

 リツってのは、多分本名だ。 後ろから少しだけ抱き込むようにしてヤるのが、多分好き。右奥の方を擦るようにしてやればすぐに身体がびくびくとし始める。セックスは三回したら満足。キスはNG。一時間ちょっと寝てから、終電前に帰宅する。そういう事はあんまり好きじゃありませんって顔をしておいて、なかなかハードなプレイを要求してくる時もある。目隠しでしたはめちゃくちゃ興奮した。 「あっ、あ、ああ、もっ、と、ゆっ、くり」 「ゆっくりなのは嫌いなんじゃなかった?」 「も、イきそ、だから、ぁ、ゆっくり、して、」 「やーだ」 「や、っあ! こら、う、うぁ、ん、んぅ」  財布に札を入れる時は顔をきっちりと揃える。顔に似合わずデカめのゴツい財布。これだけはセンスがいい。普段何をしてんだか、常に五万は入っている。でもホテル代はきっちりと割り勘。これは出会った時に決めたからいい。ただ、その分か何かは知らんが、タイミングが合えばホテルの前にメシを奢ってくれる。リツは駅前の寿司屋が好みのようだ。あと、コンビニのお好み焼きパン。あれを買っていくとすごく機嫌が良くなって、ずっといちゃついてられる。  こういうリツの態度からして、彼は俺より年上なのかもしれない。でもこの服装のセンスはありえん。メシを食ってる時にする会話の、言葉の端々からリツがとんでもなく頭のいい人間だというのは解る。  しかし、しかしだ。学校で何を学べばあんなにダサい格好をしていられる? むしろ学ばなかったのか? なにも? そんな訳あるか、友だち付き合いの中でそういう話は少なからず出ないか。だって、その辺のスーパーで売ってそうなトレーナーに、サイズが合っていないジーンズに、靴底の削れたスニーカーだぞ。寝巻きか? 寝巻きで常に行動ができる人種なのか? 正気なんだろうか。それとも、もしかして変装の類かなんかだったりして。  ──ああ、ああ! 脚は細いしスタイルだって悪くないんだからもっとこう、シャツだとかを着て、身体の線にあったスキニーを履けばきっともっと良くなるのかもしれない。ゴツゴツしてるだけの俺と違って、リツはなんというか、無駄のない筋肉をしている。腹も出過ぎてないし、かと言ってモヤシ体型でもない。俺の一番の理想体型。こういう人間のトータルコーディネートをするだけでメシを食っていける男になりたい。最近のモデルやらタレントは細すぎる。スタイリスト泣かせのサイズの奴もいるくらいだ。ああ、そうだよ。昨日の女の子もそう。もう少しだけ肉をつけたって構わないんじゃないだろうか。 「イく、イく、イっちゃう、から、まって、あ、まって、イく、あ、あ、あ、ああ、あっ、あ、あっ、あ、あ!」 「……っ!」  リツの事は今まで会った人間の中で一番好きな体型だけど、一番いい見てくれをしているのがベッドで素っ裸になってる時って、よっぽどだと思う。綺麗で、いい身体だ。下着から何まで全部選んでやりたい。精子と汗とでべちゃべちゃになってるのに、いい身体をしている。あー、欲しいな。こいつは俺のだって言って、めちゃくちゃにキスして、朝まで抱き潰したい。 「リツ、リツ」 「……は、あ、あっ、う……ッ」 「トんでた?」 「うん。良すぎ、た」 「そりゃどうも」 「ネズミくんに腰掴まれると、駄目だね。嬉しくて頭の中が全部ぐちゃぐちゃになる」  はぁ、と吐き出した息が頬に当たる。生温い。それでもリツから出た息だと思うと興奮してしまう。  嬉しくて。嬉しくて。そういう事をサラッと言うんじゃありません。もう一回したいって、襲いたくなっちゃうでしょうが。これがあんたの決めた三回目なのに。  俺は、纐纈(こうけつ)(わたる)は、この男の事が好きである。  ただし、俺とこの男は立派なセフレ関係。爛れている関係である。──いや、いや。リツから金を貰ってセックスをしている訳じゃないし、ヒモのように飼われてる訳でもないから清いセフレ関係なんだろうか? ううん、解らない。  なんせゲイ向けの、そういうマッチングアプリで知り合ったせいで本名どころかリツが何をしている人間なのかも全く知らない。それはリツの方もそうか。渉と呼ばれた事は一度もない。ネズミ。それがリツの知っている俺のぜんぶ。学生時代にネズミのキャラクターの遊園地でバイトしてたから、ハンドルネームはそういう名前にした。今より髪が短くて、髭も剃っていたと話したらやけに食いつきが良かったな。  俺の方は、リツがどういう人間で、何を好きなのかがぼんやりと解るくらいだ。たぶん、俺が根掘り葉掘り身辺情報を聞いてこないのも、リツが俺を気に入ってくれているポイントなんだと思う。そりゃ、セックスしてメシを食うだけの存在に聞かれたくはねえだろ。どんな事してくるか解らないだろうし、もしかしたら俺が脅迫とかしてくる可能性だってあるもん。リツが結婚していて、妻帯者の可能性も十分にある。そこそこちんこデカいし、女にモテそうだもん。  だから、こういうところで出会う人間は、お互いの事は探らないと、無意識的に不可侵条約を結ぶ。  本音としては何でも聞きたいさ。めちゃくちゃに調べたい。あんたの事を何でも知りたい。妻帯者なんだったら諦めるから、だから、それなら教えて欲しい。あと何でそんなに壊滅的なセンスなんだよ。 「少し寝ますか」 「あたま抱かせて」 「あぁ、はい。何時に起きる?」 「三十分」 「それじゃぎりぎりじゃねえの」 「大丈夫」  リツは俺の頭を抱いて微睡むのも結構好きなようだ。よくこれをやりたがる。俺はたまに母ちゃんの夢を見るからいやだ。でもリツがやりたいと言うのなら従う以外ない。惚れた弱みだな。もぞもぞと胸元に顔をやればやわりと抱かれて、そんなにしない内に整った寝息が聞こえてくる。  もう、リツとの身体の関係は手に入れている。  充分すぎるくらいに相性は解っているのに、さらに心まで欲しいとなるとこれは少々厄介である。ワガママか。欲しがりか。いや欲しい。好きになってしまったんだから仕方がない。  このままでいいと思う反面、もう少しだけ踏み込んだ関係になりたいと思うのも事実。セックス無しでいいから、昼間に会って、メシを食ってみたい。いい歳をしてこんなに拗れるとか、どうかしてるよ。なんでこんなになってんだか。好きだの一言も言えないなんてどうにかしてるよ。 「ん」  目の前の胸板に吸い付いて、薄く痕を付けてやる。白い肌に似合わない赤い痕。気付くだろうか。いや、気付いてもたぶん俺に言ってはこないだろう。それでいい。ぼんやりと頭の片隅に俺をおいてくれたら。いつか俺に喰われるかもしれないくらいな、ってくらい思っていてくれ。  俺の生きる世界は、テレビ局と撮影スタジオ。たまに映画の衣装担当。そんなところ。事務所に所属のしていないフリーランスにしてはよく働いている。どんなに冴えないやつでも、まあそれなりにいい見た目になってくれる時が最高に嬉しい。ブランドへも顔が利くようになってきたし、あとはもう、食うのに困らない程度にやっていければ。個人に向けたスタイリストプランなんかを売っているやつもいるけど、その辺のやつはどうでもいい。リツのような、ああいう壊滅的なセンスの持ち主が現れたら違うだろうけど。 「それだから好きじゃあねえと思うんだけどなぁ」 「こうちゃん、なに言ってるの? ミクどれ着たらいい」 「ん〜、どうしよ。どれが好き?」  近頃のアイドルはイメージカラーなんぞがあるらしい。本人の好みとは別に、事務所から勝手に決められる迷惑なものである。本人のパーソナルカラーとも違うのに、イメージカラーの衣装を背負わされるのは難儀なものだ。この子も、イメージカラーはオレンジだがむしろ寒色系の方がこの子の顔には映える。たぶん、自分自身の好みもそうなんだろう。オレンジの持ち物はひとつもない。  今日はミクの為に四着持ってきた。全部この子のイメージカラーではないやつ。少ないだろうけど、絶対大丈夫。確信がある。 「オレンジないじゃん」 「ミク、本当はこういう寒色系で落ち着いたやつで合わせた方が似合うと思うんだよね。だから今日からこういう路線。どう?」 「う〜ん……でも、オレンジが無いとファンのこが怒るよ……事務所のひとだって……」 「気になるんだったら小物で、オレンジ使えばいいと思うよ。持ってきたから。着てみて、嫌だったら言って」 「はぁい」  事務所が怒る。事務所がねぇ。そりゃそうか、イメージが大事だもんな。ううん、所属の身分の辛いところだ。早く卒業して自由におなりなさいな。まだ若いからそれはないか。マネージャーの森川はたぶん大喜びするだろうけどな。  ミクに見せたのは差し色としてのオレンジのベルトと、小物が数点。アイドルオタクの真理はいまいち解らんが、好きだったらこういう隠し要素があるだけで喜ぶんだと思う。たぶん。アルバイトをしていた遊園地でもそうだった。施設内の隠れキャラクターを教えただけで大喜びなんかされちゃって。  だいたい、全体的にオレンジを使おうとするから変なんだ。アイドルっぽいぶりぶりとした服装よか、落ち着いた中にこういうのを取り入れる方向性でも悪くないはず。 「こうちゃん」 「お。そっちにしたか」 「このワンピース! めっちゃいい!」 「そりゃ良かった。地球でいっとう可愛いよ」 「誰にでもそういう事言ってるの?」 「ミクに言ったのが久しぶり」 「ヘタレは相変わらずかー」  さっきまでの死んだ顔が一転。途端にイキイキした顔を見せる。やっぱりこういうトコは年頃の女の子。俺がゲイだって知った時もそうだった。髪を伸ばしてるのはそういう理由なのか、抱かれる側なのか、抱く側なのか。リツの事を知っているのもミクだけだ。なんだろう、この、年下なのに友達感。ジェネレーションギャップは多少あれど、自然と話が出来ちまう。恋バナをする女子とはこういうものかしら。ずーーーっと男子校だったし専門学校だったしフリーランスだしでその辺がよく知らんが。 「あ。待って。テレビ付けてもいい?」 「いいよ。好きにして。おじさんはメイクさん呼んで来るから」  素敵な衣装を着せたら、俺は暫くの間お役御免である。この子はまあ、俺の見立てたモノを気に入ってよくお持ち帰りしてくれるから、行き帰りは楽かな。別の服も見てもらおう。ブランドさんから貰ったあのブレスレットも、たぶん似合うはずだ。ミクはリツの次に理想体型だから、仕事をするのはとても楽しい。  リツといえば、今日はリツから連絡があっても反応が出来ないのが辛いところだ。二十三時まで拘束だから、終電までに帰るという条件に当てはまらない。仕事だと言えば納得はしてくれるだろうけど、会えるチャンスがあるのなら積極的に会っておきたい。何だ俺ベタ惚れじゃねえか。そうだよ好きだよ、好きで悪いか。毎日でも会ってセックスしたいくらいには好きだ。爛れてる。でも会いたい。 『続いては、本日初登場。物理学者の馬見塚……』  待機していたメイクを呼んで、ミクの楽屋に入った時である。ミクの付けたテレビはバラエティで、様々な分野の学者先生を呼んで芸人やタレントとトークを繰り広げる人気番組だった。俺も何度か仕事をした事がある。これに関わってから、ゲストとして出演していたモデルが専属にしてくれと言ってくれた事もあった。ちなみにミクと知り合ったのもこれ。 「あっ、えっ、え」 「こうちゃん! あれ。どうしたの?」  普段は収録番組なのに、何の因果か生放送だという。しかもこれは自局。つまり、この建物のどこかで撮影をして、放送されている。この広さだと六番スタジオかな。ああ、駄目だ。呼吸の仕方を忘れてしまう。会いたいなんて思ったから幻覚を見ているのか? 俺は何も変なクスリはしてねえぞ。  ──だって、テレビのそこにいるのは良く見知った顔だったから。服を着ている姿を見る方が珍しいくらいの男が、そこにいた。相変わらずのダサいブカブカのセーターに、アイロンのかかっていないシャツ。ああ、毛玉も付いていやがる! 髪もボサボサ。なんだ、スタイリストどころかヘアメイク仕事してねえのか? 学者先生たちにも一応付いていただろうが。断固拒否したのか? あれにはそんなこだわりがあるのか? 「こうちゃん?」 「り、リツ。リツだ、あれ」 「え! うそ! この人が? 会いに行きなよ!」 「はぁ?! なんで。ミク優先だよ」 「好きなんでしょ! 自分の事教えるチャンスじゃん! 大丈夫絶対汚さないから!」 「おし、える、ったって」  再び視線をテレビに戻す。案の定『顔はいいのに何だその服!』と司会者がいじり倒していた。され見た事か俺も同意見です師匠! のらりくらりと話を始めるリツを笑って、スタイリストを紹介しようか、なんて声をかけていやがる。いや、俺が一番先に出会ったんだから、なんもかも俺に選ばせて欲しい。なんだったらヘアメイクくらいしてやるから。その辺のやつに取られるくらいなら俺に色々させて欲しい。誰も目を付けるな、頼む。あの人は俺のだ。 「ヘタレ脱却目指せー!」 「ゔ〜、ミク、それ全部やるわ」 「え! やった!」 「持って帰るの、森川くんに手伝ってもらってね。重いから。足元の袋には靴とか小物もあるよ。それもあげる」 「あーんこうちゃん好き!」 「俺もだよ!」  ──ああ、待て。ミクがあんまりにも自然体だから実感なかったけど、こんな十個も違う子どもに気を遣わせてしまったのか? 俺。大分情けない。アラサーだぞ。  なんだっけな、あの子、ホテルのスイーツビュッフェに行きたがってたな。いちごフェア。あれに連れて行ってやるか。  リツってのは、やっぱり本名だった。  馬見塚律。テレビに出演出来るくらいはきちんと活躍している物理学者。なんてこった、今日はいつも会うよりよりかなりだらしのない服装だぞ。会える可能性が少しでもあったのならちょっとでもいい服を着るべきだった。スタイリスト失格だ。シャワーサンダルでなんか来てごめんなさいびっくりするくらい呆気なく靴底が取れたんだよ。  今日は何も求めない。から、せめて律の事を教えて欲しい。普通に話がしてみたい。 「これで、走る、もんじゃ、ねえな……!」  シャワーサンダルをかぽんかぽん打ち鳴らしながら何とかたどり着いた六番スタジオでは、予想通りの生放送中。……いや、まて、終わってる? 何だか解散のムードである。ミクの楽屋からここまでは走って十分。遠かった。一番遠くてデカいスタジオのせいだ。一応走ったというのに、終わっているだと。何でだ。シャワーサンダルのせいか。くそ、お前なんか後で捨ててやる。 「──リツ!」 「君は、」 「馬見塚先生、お知り合いですか?」 「ええ……ええ、友人です。こんな所で会えるなんてビックリした! この子とはSNSで共通の趣味から知り合った仲だからね。互いの事はあんまり知らなくて。ねぇ?」 「え、ええ。そうですね」  どうやら生放送は別の番組に切り替わっていて、こちらは一旦の休憩になっていたようだった。一部の学者はここで出番が終わりのようで、司会者と談笑中。それにしても、友人。まあそうか、セフレです、だなんて言える訳無い。咄嗟にSNS繋がりだとも言えるのもすごい。リツは何一つ嘘はついていない。何一つ。互いの事はあんまり知らない。物理学者って何をするんだ。リンゴの事くらいしか知らない。高校で物理も勉強しておくべきだった。 「へぇ、すごい。最近のコって感じですねぇ」 「ええっ。最近のコに入れてくれますか? 僕、もうアラフォーなんですけど」  先日誕生日が来ましてね。なんてにこやかに話しているのにも、ただ口をあんぐりと開けて見つめるしか出来ない。アラフォーなのか。その見た目で、アラフォー。先日は誕生日。いつだよ。俺たち会って二年ちょっとなのにそんなの全く知らないぞ言えよ。情報過多だ、俺は鴨か何かか。フォアグラにでもされてしまうんだろうか。  ミクにはスイーツビュッフェだけじゃなくて何かブランドさんから貰った小物をもう少しあげないとダメだ。非日常で関係している人間が目の前にいるだけで、どうしてこうも嬉しくなってしまうのだろうか。 「ねえ、そっちの仕事はもう終わり? 僕の出番は終わったんだけど、良かったらご飯でも食べに行こうよ」 「……よろこんで」  じゃあ、失礼。だなんて言う様もなんだか大人である。歳を知ったら何もかもがぐっと引き締まって見えるというか。いや服装はどうにかした方がいいけど。  まさか誘ってくれるとは思わなかった。あの場はそうするしかないか。本当にメシを食って終わりになる、ような時間帯だ。情報過多からの、トドメがこれか? 俺は明日死ぬのか。 「あん、た、学者だったの」 「そうだよ。驚いた?」 「テレビに出るようなセンセとは思わなかった」 「僕も、ネズミくんがテレビ局に出入りするような子だとは思わなかったよ」 「あーーーーっ!」  慌ててリツの口を塞いでしまう。何故ならば、そこに知り合いのプロデューサーがいたからである。俺の事を知っている人間は結構多い。でもリツは? テレビに出演するようになれば彼の事を調べる人間も出てくるだろう。俺の事が足枷になるのは嫌だ。せめて、この中ではリツが説明してくれたように友達として立ち振る舞いたい。だから、アプリの名前を言われるのは大問題。そうだ、リツは俺の名前を知らない。 「俺は、渉です。コウケツワタル。一応、俺の事知ってる人はその、……解ってるけど、ここでその名前は、やめて」 「渉くん、いい名前だ! 漢字は?」 「さ、さんずいに、歩くで、渉」 「そうなのか。僕は法律の律で、……って、知ってるか。いつも名前呼んでくれてるもんね」 「漢字は、今日初めて知った」 「そうだった?」  リツは、セックスする時はいつもズボンのポケットに大きな財布とスマホ、キーケースだけを入れてくる。今日もそのようだった。楽屋には立ち寄らずにさっさと出入り口の方へと向かってゆく。  俺はこの人が変装をしている可能性も考えていたが、どうやらこのセンスは自然体のようだ。あぁ、もう。好きだ。小さい鞄くらい持っておけよ。いいスタイルなんだから。 「あー、待って。この時間だと、この近辺はもうご飯行くくらいしか出来ないかな」 「そうなりますね」 「それは、いや?」 「まさか。いっぺんでいいからあんたとメシが食ってみたかった」 「たまに食べてたじゃない」 「そういうの、抜きで」 「──そうなんだ」  云々するリツは、やたらと可愛く見えた。普段からこうなんだろうか。職場の人間はよく手を出さないもんだ。……もしかして既婚者だったりする? 指輪の痕は見えないけれど、そういうのを持たない夫婦だっている。可能性は充分。 「ねぇ、一人暮らし? 明日の予定は?」 「え、一人暮らし。明日は、夜から打ち合わせ」 「そうなんだ。じゃあ、明日の昼まで時間をちょうだい。今日は僕が全部お金を払うから」 「え」 「行きたいところがあるんだよね」  ニコリ。この微笑み。たまらない。なんという破壊力! 俺の気遣いも虚しく、まだそれなりに人の目があるところで、手を握られた。  ──あんた、今までそういう事したことねーじゃんか!  引き摺り込まれたのはテレビ局のそばの高級ホテル。五十二階だと。ありえん。この部屋に入るだけでいくら吹っ飛んでいくんだか。それよりももっとありえんのがこの高さだ。何でこんなに窓がデカいんだよ、丸見えじゃねえか。夜景を見る為だ。証明完了。 「いやー一回来てみたかったんだよね、すっごいなぁ」 「…………っ」 「渉くん、綺麗だよ。景色」 「ここからでもワカリマス」 「こっちおいでよ。下まで見えて、気持ちいいよ」  下まで見えたら困るんだよ大馬鹿野郎好きです。リツは高いところが好きなんだろうか。広くなってる窓枠に腰掛けて、窓の外を眺める様は本当にいい。何を思ったのか部屋に備え付けの室内着に着替えたおかげで、さっきの服より大分良くなっている。写真を撮って待ち受けにしたいくらいにすごくいい。ポストカードにだって出来るぞ。  でも俺は無理。そっちに行く訳にはいかない。 「渉くん、もしかして、こわ」 「ああそうだよ! こわい! めっちゃこわい!」 「…………」 「なんすか!」 「かわいいなって思って」  可愛いのはそっちだよ。アラフォーの癖して、なんだよ。何でそんな目で俺を見るの。勘違いするでしょうが。あんたも、俺の事を好きでいてくれるんじゃないかって錯覚しちまう。同じ部屋にいるのに、なんだかものすごく遠くにいる気持ち。──溺れちゃいけない。勘違いするな。いつもの様に。冷静に。よきセフレであれ、俺。 「こういう、とこ、よく来るの」 「すごく久しぶり。渉くんと会ってからやらなくなったんだ。贅沢したいなーって時に、いいホテルに泊まって、夜景をぼんやり見て、美味しいごはんを食べて家に帰る」 「そうなんだ」 「美味しかったでしょ? ごはん」 「美味かったけど、」 「けど?」 「一緒に駅前で食った寿司の方が、美味かったな、って」 「……また行こう」  また。またがあるのか。全身の血がずっとふわふわと熱くて、息が大分し辛い。恋愛って、こういうものだったかな。解らない。リツの深いところに入っていくのが嬉しい反面、いつ切られるのかと考えるのがこわい。会いに行かなきゃ良かったかな。リツの事を知れてよかったけど、こんなに知ってしまうと後がこわい。 「落ちないからさ、こっちおいでよ」 「ゔ」 「落ちたとしても、僕と一緒だよ。大丈夫」 「はぁ」 「いいこ。そこに座って」 「はぁ」  リツの前にどかりと座る。窓ガラスが頬に当たるようにして、目の前の顔を見る事に集中。あー、くそ、好きだ。なんもかもが好き。告白には最高のシチュエーションじゃないか。左側に目をやると死亡確定だから、なるだけ見ないようにして。  言う事を聞いた俺を見て、リツはまたニコリと微笑んでくれる。何でこんなに切ない気持ちになっちまうんだか。庇護欲を駆られてしまうというか。好きだからなんだろうけど、それにしてはちょっと俺の気持ちは異常なんじゃねえのか。 「今日、会いたいなって思ってたんだ」 「俺に?」 「そう。なんだか疲れてしまって。待機時間が六時間もあったんだよ。だから、何もかも忘れるくらいにめちゃくちゃにして欲しかった」 「──大胆だな」 「まあ、ねぇ。テレビのお仕事なんて初めてだったから、こんな時間までかかるとは思わなかったんだ。そうしたら、渉くんに会えた。嬉しかったんだ、たぶん局内で見て、走ってきてくれたんでしょう?」  リツの手が伸びてきて、俺の頬に触れた。  冷たい。そりゃそうか、窓際ではしゃいで軽く三十分は潰してたな。手を重ねてやれば、薄く口角をあげてくれる。本当にやめてくれ、セフレに向けていい表情じゃないぞ。他のセフレにも勘違いされんだろ。いるのかな。知りたくない。 「だから今日は、会いに来てくれたお礼。ありがとう。走りづらかったでしょう」 「別に礼を言われるような事じゃ」 「する?」 「は」 「セックス」 「──は?」 「したいならいいよ」  いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや待ってくれ今このムードそれ言うか!? お散歩しようよ〜、みたいなノリでどうして言う!? そんなの、喜んで手を出さないといけない流れじゃねえか!  案の定悪い俺が理性を砕け散らせようと囁きかけてくる。『昼まで時間をちょうだい』ってのは、要は、抱き潰してくださいって事じゃねえのか? 構わんヤっちまえよ!  ……待て。落ち着け。深呼吸。ひっひっふー。  リツはアラフォーだっつてただろうが俺。そんな事したら最悪腹上死させてしまうかもしれない。それはごめんだ。いや朝まで抱き潰すとか、ちょっとしてみたいけど。  だって、いつも三回目が一番興奮してしまう。リツの余裕が無くなって、思考も何もかもがどろどろに溶けて、俺しか見えなくなっている顔が好き。正面から出来た時はたまらなくなってしまう。そのままキスしそうになった事はしょっちゅうある。 ──思考を、今の状況に戻そう。  抱くか、否か。今日は新鮮な事ばかりしてきたからシメに抱くのは大いにアリだ。でも、それなら。もう少しだけ違う事をしてもいいんじゃないかと思ってしまう。うん。許される。リツはたぶん笑ってくれるはず。 「……添い寝させてくれない?」 「添い寝?」 「俺があんたの頭を抱く、添い寝。いつも一時間くらいしか寝ないじゃん。あんたとゆっくり寝てみたくて」 「いつもと逆か。いいよ。下着は履いててもいい?」 「あ、え、待って。脱ぐの」 「その方が落ち着く。渉くんも」 「えぇー……」  またあっさりと願望が叶ってしまった。服を脱ぐオプションは余計だけども。服を脱いで、デカすぎるベッドに潜り込んで、リツが入ってこれるように隙間をあけておく。心臓がやけにバクバクして落ち着かない。リツは、いつもこんなんだったのか? しれっとした顔で待ってくれていたけど、これはちょっと緊張するぞ。お邪魔しますだなんて言って入ってくるのがたまらない。何だよそれ。 「なんか変な気分」 「俺も」 「へぇ、渉くんはいつもこうだったのか……」  心臓がバクバク言っているのが聞かれやしないかが不安だった。ああそんなにピッタリくっつかないで、ちんこが勃ちやしないかがこわいからやめてくれ。静まってくれ、いまだけ静まっていてくれ。少しだけ身体が冷たいのにも反応しそうになる。何か話をしよう、話をして気を紛らわせよう。そうだあの話。今なら言える。 「律」 「なに?」 「俺、スタイリストでさ、」 「そう」 「だから、あんたの服、俺が選びたい。頭のてっぺんから爪先まで、俺が全部選んでみたいんだよね。一回でいいから。……いい?」 「勿論、喜んで。でもセフレの僕にそこまでしてくれるのは、なんで? 渉くんはそれが仕事なんだろう?」  全くもって正論である。ブランドさんから提供してもらった小物をミクに横流しするのとはワケが違う。あっちはれっきとしたアイドルで、こちらは本日テレビ初出演の物理学者だ。俺の自腹で揃えるにしてもセフレにそこまでする理由がない。──好きだと言ってるようなもんじゃねえか、そんなの。ミスった、反論せねば。ええいどうにでもなれ。 「今日のお返しくらいにはなるでしょ」 「へぇ、なるほど」 「またあの番組に出るなら、その時も俺がスタイリングする」 「あれ? 一回でいいから、じゃないの? 二回目は高そうだなあ」 「それは、その、セフレ割引と言うことで、」 「友情割引って言いなよ!」  笑うリツの顔が近い。キスしてしまえそうな距離だ。でも俺には出来ない。こんなに近いのに、やっぱり遠い。俺は、上手く笑えているだろうか。  暫くして、聴き慣れた寝息が耳に入る。やっぱり抱いておけば良かったかな。そうすればちょっとは眠くなったのかもしれない。 「リツ」  反応は、ない。本当に寝てる。疲れてんだろうな、待機六時間はさすがに厳しそうだ。 「──……好きだよ」  ここから見えている額に唇を落として、声にならない声で囁く。いつか起きてる時に言えたらいいのに。俺じゃあ言える訳ねえか。何勘違いしてるんだと言われたらオシマイだ。俺もリツもいい大人なんだから、キープくんに優しくしてくれているだけって思っておかねえと身を滅ぼすぞ。 「リツ、好きだ」  そうは解っててもやっぱり好きだからもう手の施しようがない。寝てるリツに言って満足しよう。リツの頭を抱え直して、目を閉じる。仄かに暖かくなった身体は気持ち良くて、すぐに思考がぼんやりとし始めた。

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