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【1】新人アソシエイトの受難

「では、最後に我が東洋製薬HD(ホールディングス)の更なる発展ならびに、ご臨席たまわったご来賓の皆様のご健勝とご多幸を祈念しまして、私の挨拶と致します」  元会長の挨拶が終わったところで牧歌的なイントロが流れた。東洋製薬のマスコットキャラクターであるアヒルの子、ピヨたんのテーマソングだ。  入中陽向(いりなかひなた)は全身真っ黄色の着ぐるみの中に入った姿で、本日三回目のピヨたん音頭を踊った。  ――ピーヨピヨピヨ、ピヨたん、みんなのピヨピヨ、東洋製薬~♪  両手を高く上げてお尻をフリフリさせる。  コンサルタントである陽向が着ぐるみの中に入っているのには、ある理由があった。今日入る予定だったスーツアクターが食あたりで急遽、来れなくなったのだ。製薬会社の創業七十周年を祝う記念祝賀会で食あたりというのはきまりが悪い。  食あたり、水あたりに効く〝トリプルガード錠〟は東洋製薬の主力製品だ。ピヨたんの中の人が食あたりで倒れたことはすぐさま緘口令が敷かれ、ダンス経験のある陽向がこっそり中に入ることとなった。  大手コンサルティング会社(ファーム)に入社して三年目、二十五歳の若さの陽向でも、総重量が十キロある着ぐるみを被って踊るのはきつい。  ピヨたんの外側は手触りのいいふわふわの生地で覆われ、内側は形状を安定させるための発泡スチロールが詰まっている。誰が見ても着ぐるみの中はサウナを超える灼熱地獄だ。会場の外は七月上旬にもかかわらず三十度を超える真夏日が続き、空調の効いている飛天の間にいても涼しさは感じられなかった。  息が苦しい。体が重い。  陽向の汗はほぼ出尽くし、汗になり損ねた水のような体液が全身から出始めていた。  ――駄目だ。眩暈がする。  クライアントのためとはいえ、今日は一日、ピヨたんで愛想を振りまいた。長蛇の列の撮影会をこなし、アヒルの手でサインもした。その上、シメがこの終わりなきピヨたん音頭だ。  もう倒れると思った瞬間、舞台袖から鋭い視線を感じた。  その男は死んでも倒れるなと言っていた。いや、本当のところは分からないが、そう言っている気がした。  ――俺はもう、半分死んでいる。スチームオーブンで焼かれた北京ダックだ。いや、出身は埼玉だから……埼玉ダックか。  ぐるぐる回る頭でその男、周防久嗣(すおうひさつぐ)のことを思い浮かべた。  周防はEKコンサルティングの日本支社が誇るエリートコンサルタントだ。東洋製薬の業務プロセスを改善させたのもこの周防で、わずか三十歳ながらPM(プロジェクトマネージャー)を務めている。業界のトップオブトップ、外資の戦略系コンサルティングファームを渡り歩いてうちの社に辿り着いた逸材だ。  けれど、陽向はそんな周防のことが苦手だった。  真面目で堅物、ポーカーフェイスを超える無表情で、プロジェクトルームのモアイ像と呼ばれている。表情筋ゼロのクールな鉄仮面なのだ。すらりと背が高く、作り自体は阿修羅像のように怜悧で美しい顔をしているが、切れ長の細い目が怖くて仕方がなかった。  本気で睨まれたら石になってしまう。  あれは半眼だ。  半分は外の世界を見て、残り半分は自分の内面を見つめている。  陽向がやればただの寝起きの薄目だが、周防の目には物事の本質を見極める〝心眼〟のような鋭さと内なる動きがあった。  その目に今、睨まれている。  考えただけで背筋が寒くなった。  周防と同じプロジェクトになったことはないが、それは自分が避けられているからだと陽向は思っていた。陽向は対人スキルのみでEKコンサルティングに入社した言わば、ゆるふわ系コンサルタントだ。生え抜きの戦略系ファームからヘッドハンティングされた周防とは訳が違う。  ――ああ、もう駄目だ。涅槃が見える……。  ピヨたんの大きなお尻で最後のひと振りをして、ふらつく体のまま、陽向は舞台袖に倒れ込んだ。  目が回る。暑いのに寒い。体がぶるぶる震えている。  どうしたのだろう。  全身の筋肉が硬直している気がした。 「……っ! 入中!」  男の呼ぶ声がする。周防が叫んだ気がした。  いや、これは確実に気のせいだろう。  あの冷静で冷徹な周防が動揺するはずがない。ましてやアソシエイト――ヒラのコンサルタントである自分のことを心配して、プロマネの周防が大声で叫んだりはしない。無駄なカロリーは一切消費しないのがあの男の特徴なのだ。  ――ああ、目が回る……。  一面の花畑が見えた。色鮮やかで凄く綺麗だ。  ポピーの群生かなと思っていると徐々に視界が暗くなった。何も見えなくなる。 「……中っ! 入中、大丈夫か? おい、今すぐ救急車を呼べ! ボーッとするな。熱中症は死に至る病だぞ。軽く見るんじゃない! くそっ! だから……だ……しろ――」  バタバタと人が走る音が聞こえる。本体を揺らされてアヒルの頭を取られた気がしたが、体は重いままだった。 「ピヨたん……ああ、俺の可愛い……ピヨたんが……」  男の呻く声が聞こえた。  ――え? 今、なんて言った?  俺のピヨたん?

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