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ハイヒールフェチ

 ぺちゃぺちゃと、跳ねる水音が耳につく。慣れ親しんだその音は、俺にとっては、テレビの音よりも雑多的で、どんなポルノ動画の女の声よりも官能的にも聞こえた。ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ、ある日の雨音のように。ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ、蛇口の締め残り水のように。 「結婚?」  男が顔を上げる。口の周りをべったりと唾液で濡らした、その男の無邪気な表情は、尻尾こそ見えないがまるで子犬のように思えた。 「誰が」 「いや、だから、俺の姉貴」 「お前、姉さんがいたんだっけ」 「いるよ、そっくりの」 「そっくり? まじで? 写真は?」 「見せねぇよ」 「なんで?」 そう首を傾げながら、男はそれに再び口を付ける。赤いハイヒール。学生時代、陸上部をやっていたせいで、筋肉のついた日焼けした俺のふくらはぎ、骨の飛び出た踝。それを無理やり押さえ込むように、華奢なフォルムの赤いハイヒールが覆っている。それを蹴り上げるように、わざと男の口先から外させる。 「俺の姉で、シコる気だろ」 「は? 俺ホモだからねぇよ。いや待てよ、でもお前に似てるなら、わかんねぇか」 「……きもすぎだろ」 「ハイハイ、どーせ俺は変態ですよ」 ソファーに座った俺の履いた靴を、まるで跪くかのようなポーズで、胸元に抱える男。爪先部分に、再び舌が這う。ぴちゃり、と鳴る音。 初めこそ、こいつの性癖には驚かされた。『ハイヒールフェチ』。聞いてしまえば、ああ、あれね、なんて頷く人間も多いと思うが、こいつは違う。ハイヒールを履く『男』、に、非常に興奮するらしい。だからこいつと、『秘密のお付き合い』なんて聞こえだけは妖艶で甘ったるく、しかし実際には、乾きもののように干からび、発酵した豆のような糸を引く関係になった今では、それに当然付き合わされるのは俺の役目。体中を這う指や、舌の代わりに、この男は靴を愛撫する。最悪だ。最悪の変態男だ。ホモでももっとマシなヤツはいる。といつも頭では思いながら、いまだに足元に降る、雨音を振り払えないでいる。 「それで、その結婚がいつだって?」 「今日」 「今日?」 「さっきまで結婚式だった」 「ああ、だからスーツ」  ベロリ、赤い舌を見せつけるように長く尖らせ、今度は靴のサイド部分を舐め上げる。ざらり、舐められているのは靴なのに、その下の皮膚が生ぬるい感触を覚えた。 「スーツの理由、俺、会った時にちゃんと説明したよな」 「そうだったっけ?」 「お前はいつもそうだ。ハイヒールのことばっかで、他のことが四隅に追いやられる。ハイヒール以外のことは一個覚えたら三個忘れる。鶏よりたちが悪い」 「ごめんって。許して」 「許して欲しいなら、その長い前戯いい加減にしろよ」 俺の挑発に男が微笑むと、体勢を起こし、唇にキスをしてくる。きたねぇ靴を舐めた舌だからやめろと、何度も言っているのにやめようとしない。ヒールにするより、ずっと簡素的なキス。その合間、男が尋ねてくる。 「そんで、どうだったの、その結婚式。綺麗だった?」 「ん、ああ……なんていうか、涙が出た」 「姉さんが幸せそうで?」 「それもある」 両親から、姉さんが結婚するって聞いたときは、正直安心した。長男という足枷や、背中に掛かる荷物。それがスンっと軽くなった心地がした。俺はしなくてもいい。好きに生きていい。それは俺が『普通』でないと気付いてから、ずっとずっと望んでいたこと。俺は自由だ。自由に生きていい。 「ああ、それじゃあ、ジュンブライドだ」 キスをしている間さえ、指先だけはヒールを愛でている男の発した言葉。それがあの式場で、ふとした瞬間、たまたま隣にいた禿げ頭のおっさんの声と重なる。 『あ、そういや、六月か。ジュンブライドだ』  舞っているのは白い花びら。俺がその時果たして、どんな体制だったのか。とにかくも、ふと顔を上げると、姉の履いている靴が目に入った。低めのヒール。飾り気のないシンプルなその白いパンプスは、俺がいつも履かされるものよりも、ずっとずっとそれこそ、半分くらいに小さく思えた。 ーーああ、その時思ったんだ。どうしたって俺には叶わない。俺が誰かと、あの白い絨毯の上を歩くとか、十字架の前でキスをするとか、そういうことは永遠にない、ないないないないない。そんなの望んでいないはずなのに。それでも、姉の細い素足から、すっぽりとその靴だけが抜け落ちて、俺の足元に転がって来るんじゃないか……そうだといいなと。 「泣いてる」 「泣いてない」 「キス、嫌だった?」 「靴舐めた後、きたねぇから嫌だってのは、いつも言ってんだろ」 「いやさ、ヒール舐めなきゃ、セックスは始まんないでしょ」  男が相変わらずの、へらへらした笑顔でそういう。 『なんで』  いつかそう聞いたことがあった。 『なんでハイヒール』  それは、初めてこの男とセックスをした日だったのかもしれない。 『お前に絶対似合うと思うんだ!』 黒いハイヒールを差し出し、土下座してきた男。 『……きもすぎだろ』 俺は呟く。 いや、こいつの性癖はそうだが、同性愛者というのには、変なフェチのやつも今までにそれなりに居たし、俺個人としても何人にも出会ってきた。だから何について気持ち悪がったかと言えば、俺が女物の靴を履くということに、抵抗があったのだ。学生時代、短距離走の選手に選ばれ続けた俺。足にだけついてしまった筋肉は、現役引退してからも落ちることは無く。ズボンで隠したそれは、そういった関係上、女役をやりたいという俺の想いの上で、密かなコンプレックスになりつつあるというのに。 俺はため息を吐く。 『運動靴でも、革靴でもなくて、なんでハイヒールなんだよ』 『いや、ヒールってイメージあるだろ』 『ああ、えろいイメージ?』 『いやそれも否定しないけどさ。……足ってさ。自由の象徴なんだよ。それをさ、覆って縛り付けて、履いてる人ごと、まるごと。愛でたいわけ。俺は』  その時のこいつの台詞を聞いて、この男、見かけの割にロマンチックなんだかサイコパスなんだか、と俺は思った。思ったが悪い気はしなかった。この男に、俺は好意を抱かれている。『好き』も『愛してる』も一言だって貰ったことがないが、この男に俺がヒールを履かされ続ける限り、俺は愛でられているのだ。この靴ごと。 「あ、そういや、お前にあげたいものがある」  男はふと、思い出したというように、テーブルの下にあった袋を取り出す。その用意周到さ、まるで今まで忘れていたという風を装っているが、ずっと気がかりだったに違いない。俺は呆れた。 「なんだよこれ」 袋の中身なんて、開けなくても分かっている。手渡されたそれはずっしり重い。開ければ、二八センチ、俺専用のハイヒール。 「結婚指輪」 男がニヤニヤと微笑んでいる。一瞬その言葉にヒヤリとしたが、俺は平静に努める。 「指輪じゃねぇじゃん」 「あ、そっか。結婚ヒール?」 「趣味わりぃ」  新品、タグ付きのそれは、目ん玉の飛び出そうな値段。黒い革で出来たそれのヒール部分は金色で、螺旋階段の様に、複雑な形状になっている。 「ヒールだけじゃなくてさ。ここら辺とか、ほら、トゥもえぐいくらい鋭利じゃね?」 尖った靴の爪先部分をトゥというらしい。非常にどうでもいいし、いつでも、こいつがその発音している表情が嫌にむかつく。 「ケツに突っ込んでやろうか」 「待ってました!」  そういうと男は、後ろを向き、四つん這いになると俺に尻を向けてくる。それを軽く足で蹴飛ばすと、『あん!』なんてわざとらしい声を上げた。 「結婚とか」  後ろを向いたままの男に、俺は声を発する。 「……軽々しく、言うなよ、もう二度と」  言葉が、声が、震えた。 俺は自由だ。こいつも自由だ。だから選択した。この道を。選んだんだろ、この方向を。白い絨毯なんかどこまで歩いても見えないような、十字架なんかどこにも落ちてなくて、神様は真っ赤な舌を出して知らん顔をしている、この世界を。 「軽く、……ねぇよ」  男は振り向かない。デカい尻で表情は見えない。けれど、その言葉だけで俺は涙が出そう、になった。分からない。いつもの冗談だ。飄々としていて、どこの枝にも止まらない、そんな鶏野郎。それを俺が飼うことは永遠不可能で。それでもいいと、それでもいいからと窮屈な鳥かごを履いたのは、俺の方。 「な、ぁ、……俺が姉貴だったら、俺はお前と結婚してたのかな」  想像だ。パァーっと開けていく視界。青い空、風に舞う花びら。リーンゴーンと鳴るのは、鐘の音。顔は見えないが、今よりずっと細い足を持った俺に、こいつが履かせるのは白いヒールだ。 「白いスーツに、真っ白なヒール? お前の足にそりゃ……最高だろうな」  そこでようやく男が振り返る。屈託のない、無邪気な表情。その男の顔に、俺の胸がきゅっと締め付けられる。鼻の奥が痛い。 「悪い、俺、今女々しいこといったな。忘れろ」  そう言って、自分の手で顔を覆った。今日の俺は可笑しい。もちろん、続きをやる気もなくした。さっきまで元気だったズボンの中身が、萎えているのが感覚でわかる。男もそのことは察したんだろう。俺がソファーから立ち上がるのを、横眼で見ている。テーブルの上にあった、いつ入れたか分からないコップの水を喉へと流し込む。口にぶつかる水粒。 「結婚しよ」  ふと、聞こえた言葉。体だけが反応し、男の方を振り返る。 「指輪も契約書もないし、ドレスもなきゃ、外人のおっさんの言葉もないけどさ。結婚したい、よ、俺もお前と」 「……きもすぎだろ」  上擦る声。懸命に、発した言葉がそれだった。再び、ソファーに座ると、視界が歪む。歪んだ視界で、男が動いた。ハイヒールのトゥには、雨が降る。幸せの雨だ。ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。 END

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