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金春の淡雪 第1話
6月。新社会人として働き始めて早2か月。高校入学と同時に一人暮らしを始め、今年で8年目。自炊にも慣れ、人生の夏休みである大学生活も終わり、2年の大学院を”面倒だから”と理由だけで半分で飛び級&卒業した去年。そして社会人として慣れない生活に少しずつ順応してきた頃。
「…あー。ベッドがいい」
満員電車や公共機関の乗り物が大の苦手な神代 葉琉 は、会社から徒歩5分のところにあるマンションから歩いていた。実の父から就職祝いで揃えてもらった3着のスーツのうち、一番無難な濃紺のスーツを見下ろしながら、少し夏の香りを漂わせる太陽に目を細める。これが梅雨の時期になると歩くのも憂鬱になる。休みの日は小説を読みながら家のベランダでゆっくりしている彼は、朝と雨が大嫌いだった。
到着したのはNIIG東京本社。正式名称がNanaougi Internaional Infotmation service Group という、Domの中でも優秀な一族として有名な七々扇 家が創業したグローバル企業である。世界中に支社があり、何千万という膨大な特許を抱える大企業のCMや広告などを見ない日は絶対にないというほど大きな会社だ。
そんな大企業では珍しく、Subにも優しい社内制度が多く就職活動の際は学生による競争戦争が毎回勃発するのか恒例行事だった。
そんな高い倍率を勝ち抜き、葉琉はこうして社会人をスタートさせたのだ。
「河本 室長、おはようございます」
「ああ、おはよう、神代君」
そんな大企業で約2か月の研修を終え、葉琉は秘書室への配属が決定していた。秘書室には葉琉を含め、11人の社員が在籍している。7人が女性という仕事環境であるが、よく言う"役員目当ての仕事のできない女"は存在しない。秘書室の女性たちは、良くも悪くも仕事のできる人材だった。
「神代君、今日から一週間は真壁 専務のところに就いてくれ。加賀 さん、頼むよ」
「わかりました。あ、河本室長。大宮建設の件なんですが…」
現在一週間ごとに5人の役員の秘書として経験を積んでいる葉琉は、2週目に突入し、優しいと評判の真壁専務に就くことになった。真壁専務の第一秘書をしている加賀は、入社5年目にして本社常任専務の第一秘書をするほど優秀な女性である。
別の案件で加賀と河本が話し始めたのを横目に、葉琉は秘書室にある自分のデスクに荷物を片していく。
「じゃあ神代君、行きましょうか」
話し終えた加賀が、秘書室全員に配られているiPadを片手に葉琉に声をかけてきた。いつも笑顔な彼女は、今日も朝から眩しかった。
エレベーターとは反対の扉の先には、突き当りまで廊下が続いている。その両サイドに、それぞれ2つずつ向い合せにならないよう少しずれた位置に4つの扉が並んでいる。その扉のひとつに“取締役専務室”と書かれていた。
―コンッ コンッ
「真壁専務、加賀です」
〈…どうぞ〉
部屋の中から入室許可の声を聴き、加賀が扉を開ける。
左サイドにはお気に入りのオーディオ機器。中央には応接セット。そして正面に大きなガラス窓を背にするように大きな机が配置されている。その机でデスクトップ二画面と睨めっこする様に仕事をしていた真壁の姿があった。
「専務。こちらが今日から一週間専務の元に就きます、新卒の神代です」
「初めまして、神代葉琉といいます。よろしくお願いします」
「ああ、君が。真壁だ。よろしくね」
先週の就いた森崎 常務とは違い、画面から視線を外し、にこやかに自己紹介してくれる真壁専務。優しいという評判は本当のようだ。
加賀はコーヒーを淹れる為、一度退出していた。
「先週は森崎常務のところだったんだろう?かなり厳しかったんじゃないかね」
同情を少し含んだような笑みに、葉琉は先週の出来事を思い出してしまった。
秘書室に配属が決まり、一週目に就いたのは厳しいと有名な森崎常務の元だった。常に眉間に皺を寄せているのではないかと言われる程、いつも厳しい表情と意見を言う常務は、社内の全員が“この人は厳しい”と意見が一致するほどの有名人なのである。もちろん、配属中の一週間は地獄のようだった。彼の秘書である香月 女史と近衛 副室長も、常に無表情で冷静に仕事を進める事で有名である。そんな3人の中にいきなり放り込まれ、何度退社しようと思ったか分からない程、葉琉は参っていた。
「仕事をきちんと丁寧にしてくれるなら、楽にしてくれて構わないからね」
笑顔でいいながら、キーボードを打つ手とデスクトップを追う視線は止まらない真壁。
葉琉は"根は同じくらい厳しいんだろうな…"と、すぐに覚悟したのは秘密である。
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