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      第7話

 日曜はいつも通り部屋で小説を読み漁り、週が明けて月曜日。出勤した葉琉に告げられたのは、予想だにしない事だった。 「えっと、私が社長の第一秘書ですか」  状況を読み込めない葉琉。目の前のデスクに座っている河本室長も、戸惑っているような表情をしていた。  なんでも、今七々扇社長と九条女史が帰国できない理由の一つに、大口の取引相手の息子と九条女史が恋に落ちたのだとか。その息子が九条女史を離さないばかりか、仕事はちゃんとこなしているも彼女もその息子と一緒にいるのがやぶさかではないとか。息子の恋路を応援したい父としては、彼女を嫁に貰えないだろうか。そうすれば今後NIIGを贔屓するだとか、そんな話になっているのだという。さすがに社長秘書である彼女が今すぐに退職するという事はできないため、後任の人事が終わり、その後任に全ての引継ぎを終えてからという話に纏まったそうだ。  で、ここからが問題なのだが、最長でも1か月しか待たないというのが向こうの妥協点であり、NIIG東京本社の秘書業務を経験している人であれば1か月でどうにかできるという九条女史ひいては七々扇社長の考えもあっての事だった。しかし、秘書室に今で手の空いている秘書はいない。それぞれの役員に就いている秘書たちも、今のメンバーでうまく回っているのであって、ここから担当を変わるとなれば大きな負担にもなる。そこで、まだ誰にも就いていない葉琉に白羽の矢が立ったのだった。 「ですが、まだ秘書業務に就いてまだ半月なんですが」 「そこに関しては加賀君を始め、瑠璃川君や九条君たち他の秘書からも、君なら大丈夫だと後押しがあったよ」  笑顔でいう河本室長。なかなか鬼畜な秘書室の先輩たちだ。今すぐにでも辞表を出してしまおうか。いや、そもそも辞表じゃなくて退職届か。  暢気にそんな事を考え、思いっきり現実逃避をしている葉琉。出社してすぐの時間であったのもあり、その話が聞こえていた他の秘書たちも哀れと言わんばかりの同情をしているのが視線で分かった。 「とりあえず、今日九条君が戻ってくる。今日からかなり厳しくなると思うが、頑張ってくれ」  それだけ言うと、自分のデスクトップに向かって仕事を始めてします河本室長。  ちょ、本当に勘弁してください。さすがに急すぎて泣けてくるんですが。そんな葉琉の視線を受け流し、涼しい顔をしているあたり、彼がこのデキる秘書室をまとめているだけあるなと思ってしまう。  それから午前中は今受け持っている確認作業を全て裁いた。午後には確実に戻ってくる九条女史の元に就くために。 「ちょっと神代君、昼休憩は取りなさい」  仕事に夢中になるあまり、時間を全く見ていなかった葉琉を止めてくれたのは、いつかの瑠璃川女史だった。  心配そうな表情で旦那さん手作り弁当を片手に、瑠璃川女史は相変わらずの美貌で葉琉を心配していた。 「すみません、もうそんな時間だったんですね」  素直にお礼を言い、財布を手に持つ葉琉。 「神代君って嫌いな物あった?」  秘書室の入り口付近にある給湯室から、加賀女史がひょこっと顔を覗かせる。特にありません。と疑問に思いながら答えた葉琉の数分後、目の前に小ぶりなサラダボウルと大きな目玉焼きと肉汁溢れるハンバーグが特徴的なロコモコ丼が置かれていた。 「えっと…」  困惑する葉琉は、給湯室の隣にあるカフェエリア(休憩室)に連れていかれるなり、席に座らされる。一連の流れがスムーズで特に違和感がなかったが、確実に拉致られた。間違いなく、先輩たちに、拉致られた。 「午後から九条さんの引継ぎが始まるでしょ?急なのもそうだけど、まだ新人の神代君だと大変だろうと思って」  先に座っていた加賀女史が、葉琉のロコモコ丼とは少し違うロコモコ丼を目の前にしながら言ってきた。先輩たちのいきなりの行動に驚いたが、どうやら葉琉を心底心配しているらしい。その態度の通り、視線は同情よりも“心配”という感情の方が大きいように感じられた。 「私たちが変わって上げられたら一番良かったんだけど、今重要な案件がいくつもあってね。みんな手を離せない状況なの」  加賀女史の隣のソファに腰かけ、弁当を広げる瑠璃川女史。他にも、森崎常務の第一秘書と第二秘書。藤堂副社長の第二秘書、基本海外を飛び回っているもう一人の専務、南沢(ナンザワ)専務の第二秘書まで勢ぞろいしていた。  もちろん、隅っこの方にこの人選をした河本室長も小さく座っている。  ほとんどが顔見知り程度でしかないのに、今回の件でここまで親身になって心配してくれるとは思ってもいなかった葉琉は、まだ九条女史の引継ぎが始まっていないにも関わらず、泣きそうだった。 「本当は河本室長にって話も出たんだけど、河本室長は社内の一般社員や全然関係ない社外の企業さんへの対応とか、あとは私たち秘書の円滑なつなぎ役とか、色々になっててね。本当にごめんなさいね」  これは森崎常務の第一秘書香月(カヅキ)女史のお言葉である。秘書室配属一週目にお世話になったにも関わらず、主に会話をしたのは第二秘書の近衛(コノエ)副室長のみであった葉琉は、ただただ頭を下げるしかない。 「他にも本社じゃなくて、国内外の支社から秘書を引っ張ってくるって話もあったんだけど、そうなるとどうしても短期的なものでしょ?秘書をするならその人に長く就いていたほうが阿吽の呼吸があってくるから、結果的に断念せざるを得なかったのよ」  これは南沢専務の第二秘書、壬生(ミブ)女史のお言葉。今日たまたま帰国しており、今日明日と本社に出社する事になった彼女は、基本的に世界中を飛び回って細かい調整を行っている南沢専務に就いているか、もしくは調整だったり後処理の為に一人で海外を飛んでいる事も多々ある人物である。というか、壬生女史に会ったのは今日が初めてだ。  そんなこんなで、昼休憩は先輩秘書たちに労わられながらの昼食となった。  なんともいたたまれないとはこのことではないか。ふとそんな事を想ってしまった葉琉である。

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