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第8話 Je Te Veux ②

ババラッチの『極秘情報』に動揺した松木は、結局転勤の話を飯島に切り出せずにいた。 飯島に伝える言葉を見つけられぬまま、仕事はますます忙しくなり、そのことを理由に松木は飯島を避けてしまった。 飯島に誘われることもあったが、松木の立場からすれば飯島に合わせる顔がなかった。 松木らしくないことだったが、ぐだぐだと悩むうちにひと月が経とうとしていた。 「お前、ホントやり手だよなあ。俺も見習いたいよ。」 残業でひと気のまばらなオフィスで、馬場が松木に声をかけてくる。 ババラッチが今度はどんな情報を聞きつけてきたのか、と松木は身構えた。 「先輩の出世ぶん取って、終いにゃ退職に追いやっちまうんだからな。」 「退職?それってどういう…」 「馬場さん、さっき課長が探してましたよ。新製品のプレゼンの準備はできているのかって聞いてました。」 見かねた女性社員が話題を変える。 「あ、いっけねー、俺忙しいんだよ。じゃあな。」 小太りな身体を忙しなく揺らしながら走り去る馬場の後姿を見送りながら、女性社員が首をすくめる。 年齢不肖な顔をしているが、ここの職場では古株で、確か年齢も飯島よりも上だったはずだ。 「さっきの退職の話って、まさか飯島さんのことですか?」 「さあ、私も人事部の人が話してるのチラッと聞いただけだし…とにかく本人がオープンにしてないことをあれこれ言いふらすのはねえ…。」 「その…もともとは飯島さんが昇進する予定だったんですかね?」 「さあ、それはないと思いますよ。だってあの人、自分の仕事は完璧かもしれないけど、社内の人たちと全然コミュニケーション取れないじゃないですか。組織と噛み合わない人ですよね、会社もあの人の能力生かしきれてないし。」  結局影であれこれ推測しても無意味だと判断し、松木は飯島に直接問いただすことにした。 だが、飯島は真面目に話し合う姿勢を端から見せず、話は噛み合わないまま喧嘩別れに終わってしまった。 しかも、自分だけ言いたいことを言って、松木の問いかけには答えてくれない。 意味不明な言葉を自分にぶつけ、天岩戸に隠れてしまった。 『これだけ好きになっちまったのに…』 誰が、誰を?松木は頭を抱えこむ。 ちゃんとした日本語で話してもらわなくては困る、主語と目的語が欠けているではないか。 てにをはを正しく使うことこそ、営業マンの基本なのに。 もしかして…いやしかし…淡い期待にすがりかけては、これまで幾度となく飯島に突き落とされてきた事実を思い出す。 ゆっくり時間をかけて考えたいと思うのに、普段の仕事に引継ぎまで重なり、忙しくて息をつく暇さえない。 結局答えを見つけられぬまま異動の日となっていた。 もちろん飯島との関係も修復できないままだ。 一体誰が企画立案したのか、盛大に送別会まで開催され、松木と飯島は隣りあわせで上座に座らされていた。 互いに顔をまともに見合わせることもできないまま、おそろいの花束を手渡される。 松木と飯島が気まずいのはもとより、2人の関係を知らない他の出席者たちも、『出世を控えた勝ち組』と『出世を取られ、会社を去る負け組』の構図に複雑な表情を隠せない。 そもそもこのような席に飯島が顔を出すこと自体不思議だった。 「どうもどうも、ご栄転めでたいですねえ。」 空気を読まないパパラッチ男が酒瓶を抱えてやってくる。 松木はめまいを覚えたが、馬場の目標は、今回は自分ではなかった。 「いやあ、飯島さん、超すごいヘッドハンティングされたってワケですよね。」 「別に。あ、俺、日本酒嫌いだから注がないで。それより煙草一本くれよ。」 「えーっ、なんで人から貰うんだよ、自分の煙草くらい自分で買えよー、ったく。」 馬場がしぶしぶ煙草を一本差し出す様子を、松木は横目で見ていた。 「しかし、X社って外資系の会社中心に今バンバン契約とって、勢いすごいらしいですよね。飯島さんの場合、資格もちで実績ある上に語学力もあるから、そこが買われたんでしょうねえ。」 「別に。いくら英語話せたって、コミュ障でみんなとまともに会話できないから、人としてダメだって、この前喫煙室で散々俺の悪口言ってたくせに、どしたの?」 「いや、そういうつもりじゃ、誤解ですよ、やだなあ。そういやX社って大阪が本社じゃないですか。あらら、2人とも揃って同じ場所に行くわけ?道頓堀とかで偶然会っちゃったりしてね。あ、飯島さん、だからと言って江戸の敵を長崎ならぬ大阪で討つ、みたいな事は考えないほうがいいですよ…」 もはや松木は、それ以上聞いていられなかった。 飯島の手から吸いかけの煙草をもぎ取ると、馬場のコップ酒の中に放り込んで火を消した。 「おいっ!」 「おいおいっ!!」 気の合ったためしのない飯島と馬場が、珍しく声を合わせて叫ぶ。 「飯島さん、出ましょう。」 抗議の声を無視し、松木は飯島の手を掴むと座席を立ち上がった。 「みなさん、お世話になりました。大変失礼とは存じ上げますが、準備もありますのでこれにて引き上げます!!」 松木は深々と一礼すると、飯島の手を引き、そのまま会場を後にした。 ぽかんと口を開けて見送る馬場の足を、去り際、松木は思い切り踏みつけてやった。 「ちょっと待てよ、離せって、なんで俺まで…」 「大事な話があるんですよ。今日はまだ酔っ払ってなさそうだから、ちょうどいい。」 松木は飯島をタクシーに押し込むと、そのまま自宅アパートまで走らせた。 ほとんど荷造りを終えた部屋には、積み上がった段ボール箱とベッドしかない。 「すみません、人を呼べるような状態じゃないの忘れてた……」 松木はがっくりと肩を落としたが、すぐに気を取り直しベッドの端に飯島をかけさせると、自分もその横に腰を下ろした。 「もう、いい加減放せよ。」 松木は飯島の言葉を無視し、掴んだ手を一層強く握る。 「俺も早とちりしてたかもしれません。逆に勘違いかもしれないけど……飯島さんが転職するのって、もしかして俺のそばにいてくれるってことですか?」 「何言ってんだよ、お前は関係ないってこの前言っただろ。」 「俺のことが嫌いになって、今の会社辞めるわけじゃないんですよね?」 「誰が嫌いだって言ったんだよ?!」 「じゃ、俺のこと好きなんですね。」 飯島の頬が真っ赤に染まる。 「馬鹿、何言って…」 「この前、そう言いましたよ。」 「……覚えてない。」 「関係ないって言ったのは覚えてるくせに?」 「……。」 いつもは減らず口をポンポン叩く飯島が言葉を返せず押し黙る姿に、松木は少し胸のすく思いがする。 「俺は飯島さんのこと、好きです。言葉が足りなくて伝わってなかったなら、これから何度でも言いますよ。あなたが必要なんです、俺が欲しいのは、あなただけなんです。」 「お前、酔って…」 「酔ってません。酔っぱらいはそっちでしょ。」 「今日は、酔ってない、まだ。もう……頭整理したい。煙草くれよ。」 「ああ、すみません、捨てちゃいました。引っ越しで荷物片づけたついでに。でも、もう必要ないでしょ。」 「なんでお前が決める?」 「そっちこそなんで泣きたいの?泣きたいことがあるなら言ってくださいよ。泣きたいなら、我慢しないで俺の胸で泣いてほしい。」 松木は飯島のあごに指をかけ上を向かせると、瞳に唇を落とした。 塩辛い。飯島が小さく震える。睫毛が涙で濡れている。 飯島が小さくため息を吐いた。 「…大阪に行くのを機に、面倒くさい関係も片付ける気でいるのかと思ってた…」 松木は思わず天を仰いだ。 「もう、なんでそうやって自分のこと面倒くさいとか……ああ、すみません、俺、自分の異動のことで頭いっぱいで、肝心なことが抜けてたんだ。たとえ離れても、そばにいなくても、あなたを手放したくないって言いたかったのに。てか、言わないとダメなんですね、やっぱ面倒くさい人だな。」 「やっぱそう思ってたんだ。」 「ああ、もう……。面倒くさいけれどやめる気はないですよ。仕方ないでしょ、好きなんだから。」 「…ごめん、悪いのは俺だ。俺が弱虫なんだよ。怖くて聞けなかった。」 うなだれて言葉を紡ぎ始める飯島に、松木は耳を傾ける。 「別に俺は……お前に引っ付いてお荷物になるつもりはないんだよ。ただ、X社は外資で勤務形態もいろいろ取り入れてるから、今の会社よりもやりたいようにやれるし、自分に向いてる気がしたんだ。相談しようと思ったら、お前の昇進話耳にして、つい一人で舞い上がっちまって。互いに仕事も充実して、一緒にいられたら最高なのに、とか。馬鹿だよな。」 松木はたまらず、ベッドの淵に腰掛けていた飯島を押し倒した。 「え、ちょっ…」 「まだ暖房そんなに効いてないけど、すぐ温まるから。これ、脱がしていい?」 ダメだと言われる前に、松木は飯島のスーツをはいでゆく。 飯島は『自分で脱ぐのに』と不満げに呟きながら、抵抗はしない。 既に欲望は萌し始めている。 松木はシャツをはだけた飯島の肌に唇を這わせ、乳首や内股の感じやすい場所を啄ばみながら追い上げる。 あと一歩、というところで焦らしてやると、飯島は泪目で睨みつけてきた。 「欲しいの?」 訊ねると、飯島はかくかくと頷いた。 「これ?」 松木は飯島の手を自分の欲望へと導く。 だが、松木の期待と予想に反し、飯島の手は欲望を素通りした。 「馬鹿、全部だよ、お前のぜんぶ!離れることなんかできない、俺のほうこそお前が必要なんだ。」 くしゃくしゃになった泣き顔を見られまいと、両手で顔を隠す飯島を、松木は力いっぱい抱きしめた。 Fin

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