通されたのは和室造りの貴賓室だった。大きな桜の木がある庭園とその隣に竹林がみえる。二百平米の室内には、折り上げ格天井をはじめ、組子・千本格子の欄間などそこかしこに、こだわりの心がかよっていた。 　古い記憶を刻むような、静寂に包まれたおだやかで優雅な時間が流れる部屋で、はりつめた緊張だけが募っていた。一枚板を漆塗りで仕上げられた漆黒色のテーブル、座椅子の上には朱色の座布団が敷かれ、一同は黙りこくって口をつぐんでいる。 　向かい側に東雲雅子、長男の英一、そして壁側の隅に百合子が足を崩して座っていた。ネイビーのフレアワンピースを着た百合子へ視線を投げると、やはりふっくらとした部分が目についた。俯きながらも口の端は緩んでいる。隣に座っている英一に目をやると雅也のような華やかさはなく、銀縁の眼鏡の奥は冷たく、ピンストライプ柄の落ち着いたスーツを着込んで無表情で腰かけている。 　裕が頭を下げると、雅子は欠伸を噛み殺して好奇の色を浮かべた細い視線を送った。だれもかもが口を閉ざして、しいんと静まり返る。裕は森とともに膝を折り曲げて正座し、膨らんだ臙脂色(えんじいろ)の紙袋をそばに置いた。 「この度は突然のことで、心よりお悔やみ申し上げます。また、お忙しいところ、わざわざお集まり頂き、お手間をおかけして申し訳ございません。そちらにいる百合子さんから東雲裕さんへ遺産分割についての申し出がございまして、恐縮ながらご主人である雅也さんのご実家にと場所をお願い致しました」 　森は英一へちらりと視線を流し、口許に柔和な笑みを浮かべた。すると、雅子が赤い唇をゆがませて、顔を森と裕にむけた。 「私たちに相続権はないはずよ。いまさらなにをしにきたのかしら？　雅也の納骨はすでに済ませて、すべて終わったはずよ？」 「届け出の報告と、雅也の遺品をお渡しに伺った次第です」 「届け出？　遺品？」 　雅子の弓形にきれいに整った眉がぴくぴくと動いた。裕はテーブルの上に小箱を置き、続けて口火をきる。 「まずはこのへその緒と指輪。そして、婚姻関係終了届を提出した旨のご報告をさせて頂きます。姓もかわり、篠原　裕(しのはら　ゆう)となり、東雲家とは関係を断たせていただきます。どうかお許しください」 　深く頭を下げて、裕の丸めた背中に突き刺すような視線が集まった。 　姻族関係終了届とは、死亡した配偶者側の親族との姻族関係解消の意思を示す届け出である。死亡した配偶者との婚姻関係に影響はなく、相続権や遺族年金の受給資格がなくなることはない。 　届出をだすことで、夫々としての契りを結んだ雅也に「死後離婚」を裕は選んだ。子供たちもまだ幼く、亡き夫の戸籍に残されるので、家庭裁判所に『子の氏の変更許可申立書』の届出をだし、新しい戸籍を作って「篠原」という裕の旧性へとかえた。 　はっと百合子が息をのんだのを裕は見過ごさなかった。顔をあげると、視線をすぐにそらされる。 「せいせいするわ。あなたのようなどこの馬の骨かわからない人と縁が切れるなんていいことじゃない。それよりも、この方、あまりご存じないのだけど、雅也の子供を身ごもっているらしいの。認知、進めてもよろしいかしら？」 「すすめる？」 「そう、ほかに、なにも残ってないでしょ？　骨も納骨を済ませたし、髪の毛なんて難しいと聞いたわ。ね、野田百合子さん？」 　雅子の鋭い声に百合子は俯いたまま、こくりと頷いた。 「母さん」 　英一が窘(たしな)めるように口をついたが、雅子は気に留めることなく続ける。 「あら？　ざっと調べさせてもらったわ。雅也は貴方に満足できないからこの若い女性へ浮気なんてするんでしょう？　ちゃんと夫を支えなければならないのに、それすらできなかった。仕方がないことじゃないかしら？」 「仕方がない？」 　ふいに百合子の白いうなじに咬まれた痕がみえ、裕は眉をひそめる。あのとき、首筋に痕はなかった。だが、雅子は尚も責めるような会話を続けた。 「そうよ？　あなたは結婚というものを勘違いしているんじゃなくて？　夫の為に身を削って、一生を支えてきたのかしら？」 　声に侮蔑の念が込められるのがわかった。雅子は薄笑いを浮かべて、馬鹿にした目つきで裕を見据える。 「母さん、そんな言い方は裕さんに失礼じゃないか」 「失礼？　やっぱり、雅也には純然たる花嫁が必要だったのよ。悔やんでも悔やみきれないわ。第一銀行の専務、伊藤家の博美さんなんて破談になって、あれから大変だったのよ？　顔に泥を塗られて、こんな出来損ないと雅也が添い遂げるなんて、あっちゃいけないのよ」 「なら、その端にいる百合子さんならよいのですか？」 　急に、森が低い声で言いかける。 「そうね、家柄も素晴らしいし、まあ、申し分ないわ。こういう方なら許してあげられたのに本当に残念だわ」 「そうですか。では、百合子さん、すぐにお腹の子の認知手続きをすすめましょう。それで雅也さんの子なのかどうか、白黒つけられる」 　尚も続けて話しかけて、森は冷淡な視線を百合子に投げた。 「そのへその緒は……」 「ああ、そうですね。ここに照らし合わせるべき書類があるんだ。へその緒と、子供のDNA鑑定書が揃ってある。これは血液の凝固部分から採取したDNA鑑定書だ」 　森はにこにこと笑みを絶やさず、右手の鞄から報告書を取りだしてみせた。 「……うそ」 「しがない弁護士ですが、これでも顔が広いので、優秀な専門機関を知っているんです。それにへその緒を大切に保管していたおかげで詳細なデータが取れた」 「そんな……」 　鼻から抜けたようなか細い声が聞こえ、がっくりと百合子は肩を落とす。 「百合子さん、あなたは東雲、いや、篠原さんが協力しないと思っていたんですか？」 「……協力？　どうして？」 「あなたはわかっていたはずだ。大抵不倫相手の家族が協力して証拠を提出するはずがない。篠原さんが拒否しても、メールの内容や関係性を事細かに説明して、裁判所が認知を認めてくれるよう企てた。しかも、自分が優位な部分だけ切り取って提出しようとしていた。そうじゃないかな？」 「……っ」 「それに、現在、同居してる男性がいますよね？　おかしいな、この写真、仲良く指を絡めて手をつないでいる。日付は一昨日で、まるで夫婦みたいだ。僕の優秀な知り合いは写真の腕もいいので、何枚も撮ってくれましてね。ここに仲睦まじい様子が沢山映っている。ほら、こちらも」 　黙り込む百合子に森は白封筒をだして、数十枚の写真を横一列に並べ始めた。 「……あ」 　蚊の鳴くような声が百合子の薄いピンクの唇からまた漏れ落ちた。百合子の後ろではカンザクラなのだろうか、早咲き桜の蕾がちらほらとほころび始めている。真っ青な百合子の顔が灰色にひらいた花びらの下、浮かんで見えた。 「雅也さんこそ、浮気相手だったんじゃないのかな？　ヒートを必然的に起こして、子供を作ろうとよく揉めてたという情報もある。そして亡くなる前にはすでに他の男性との子供を身ごもっていた。あの日、あなたは妊娠を告白して振られたそうじゃないか」 「それがなんなのよ！　あの人、抑制剤だけはちゃんと飲んでいたわ！　それが許せなかった！　体だけ求めて、子供が欲しいと言った途端に冷たくなった！　許せなかった。でも、でも、あの人が死んでも遅れて来て何ともない顔していた、あんたが一番憎いわ！」 　百合子は下唇をぎりぎりと噛んで、怒気をにじませ、呻くような声で叫んだ。 「百合子さん、雅也さんとの不貞行為については慰謝料請求をさせて頂きますよ。不貞行為がわかってから三年以内に請求できるの知っていますよね？　篠原さんは証拠も集められている。これは遺産目当ての詐欺案件としても絡ませて頂きます。そして、雅也さんの携帯のロックがひらくようになったの、知っていますか？　内容も把握できてるんだ。ほら、亡くなる前に『お前とは番わない、番は一人で十分だ』と残されている。その痕は雅也さんがつけたものではないはずだ」 　わなわなと握りしめた手が震え、百合子はふるふると首を振ると、ふくらんだお腹も揺れるように動いた。 「うそよ、ウソようそよ、嘘よ！　うなじも、この子も全部雅也さんと私のものよ！」 「それなら、ぜひ鑑定書のご提出をお願い致します。羊水でもいい、あなたの血液からでもいい。認知はそれからです。それに、声をあらげるのは胎教にあまりよろしくありませんよ」 　わっと百合子が泣き出し、声ががんがんと耳に響いて聞こえる。どうしたらいいのか、なんて答えればいいのか言葉がでず、森の凛とした声を隣で耳にしながらも、裕はその光景を目に焼き付けていた。 「では、以上かな」 　森は立ち上がり、裕に微笑みかけた。裕ははっとして固まった体を揺らして体を起こし、隣の紙袋を手にして雅子の目下において小さくつぶやいた。 「……雅也と子供の写真です」 　二人の新生児からハーフバースデー、誕生日の写真をまとめたものだ。雅也が抱いて朗らかに笑っている顔を集めた。 「……」 「孫に会いたくなったら連絡をください」 　言い終わると丁寧に一礼して、森の後を追うように部屋を出た。 　帰り際、飴色の長い廊下を軋ませて歩いていると後ろから声をかけられた。 「まってくれ……！」 「……雅也のお兄さん」 「やぁ、英一くん。久しぶりだね。葬式以来かな？　大学から変わらないね」 　振り返ると向かいに座っていた英一がいた。その声に森が後ろをくるりと振り向いた。先ほどのまでの冷たい雰囲気は溶けて、あわてて出てきたのか息を切らしている。 「……森もかわらないな」 「かわったよ。きみこそ変わってない。『失敗をする。しかしそれが人生の一番のターニングポイントだと思う』っていうからね。僕はいつも曲がってばっかりだ。あ、きみから貰った名言集は大事に使っているよ」 「……っ、まだもってたのか。おまえから連絡がきて、なんとなく予想はついていたんだ。すごい偶然で驚いたよ。でも森から話を聞いて準備してよかった。母さんはずっと雅也ばかりだったからな。少しはいい方向に変わればいいと思ってる」 　英一の強張った表情がすこしだけ微笑に変わって、優しい声が口から漏れる。その声は雅也になんとなく似ていた。森が困った顔で英一に声をかける。 「きみの家も大変だね」 「いや、それよりも雅也だよ。篠原さん、この度は色々と力になれず、弟の雅也が大変迷惑をおかけしてしまい申し訳なかった」 「……」 「本当に申し訳ない。謝ってもきりがないくらいだ。母の失礼な言動も心から詫びたい。すまなかった。写真、とても感謝している。いままで、雅也を支えてくれてありがとう」 　英一はかなしみに満ちた顔で、静かに深々と頭を下げた。それが東雲家との最後の会話だった。