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君を喰む

「いたっ」  その声ではっと我に返る。  慌てて彼の顔を覗き込むと、色素の薄いグレーの瞳と目が合った。 「ごっ、ごめん、まことくん! 大丈夫かい?」  慌ててそう問いかけると、彼はいつもの下がり眉を更に下げて困ったように笑いながらふるふると首を振る。  そして強く握ったら折れてしまいそうなくらい細い指で私の頬のあたりの毛を撫でた。 「大丈夫ですよ、伊墨さん。そんな顔しないで」  どこか余裕すら感じられるその様子に恥ずかしくなる。  一回りも年上のはずなのに、彼の近くにいるだけで喉が渇いて、吹けば飛ぶような理性を保つことに四苦八苦している私を、彼はどう思っているんだろうか。  情けない話だけれど、発情期(ヒート)中だというのも相まって今日は彼に優しくする余裕がない。 「……伊墨さん」 「すまない、まことくん……今日は、もう寝よう」  逆にここで踏み止まれた自分を褒めたいぐらいだ。  彼の顔が見れない。  きっと今、彼は残念そうに、だけど優しく微笑んでいるんだろう。  情けなくて恥ずかしくて彼に背を向けてベッドに座り込んでいると背中に自分より少し低い体温がぴったりとくっついた。  何もまとっていない彼の小さな体から、とくとくと心臓の音が聞こえる。 「伊墨さん、そんなに気にしなくて大丈夫ですよ」  彼、もとい職場の後輩だった一之瀬まことくんと結婚してから数年。  もちろん、付き合っている頃からそういうことは数え切れないくらいしてきたわけだけれど、最近、彼を目の前にするとこれまで感じたことのない感情が湧き上がってくる。  彼は気にしないでと言ってくれるが、こればかりは彼に甘えることが出来ない。  だって。  下手をすれば、彼を失ってしまうかも知れないのだから。 「でも……っ、だって、おかしいだろ。行為中に、その、君を食べたくなってしまう、なんて」  食べたくなってしまう、というのは決して比喩表現ではない。  本当に、彼のシルクのような白い肌に、獣人だけが持つこの鋭い牙を突き立てて……あわよくば噛み千切ってしまいたい、彼の血を飲み干したい、そう思ってしまうのだ。  食欲とも性欲ともわからない抗いがたい本能のような邪な感情が頭を擡げて堪らなくなって、抑えが利かなくなる。  獣人が血の滴る赤身肉を好むのは「犬」という動物を祖先に持つ種族として仕方のないことだ。  だからといって、仕方のないことだと目を瞑ってしまうにはこの欲求は危険過ぎる。 「ごめん……少し頭を冷やしてくるよ。先に寝ていて」  結局最後まで彼の顔をまともに見られないまま部屋を出て、リビングに置きっぱなしにしていたタバコとライターを引っ掴みベランダに出た。  ひんやりとした風に身を震わせながらライターの横車を必死に回すが風が強いからかなかなか火が安定して点かない。  数度挑戦して、諦めてタバコを箱に戻した。 「はあ……」  自分の体たらくに思わずため息が漏れる。  本当に情けない。  いい年して自分を抑え込む術もわからないとは。  ふいと見上げた空はどんよりと曇っていて、星どころか月も見えない。  まるで本能に振り回される自分そのものを見ているようで苛立ちを隠さないまま家に戻った。 ◆ ◇ ◆ ◇  じっとりと、指先に絡みついた体温。  部屋中に飛び散った紅色は、まるでこちらを嘲笑うかのように清らかな朝日を浴びてぬらぬらと艶めいている。 「あ……」  じわじわと広がっていく血溜まりと、その中央に力なく投げ出された小さな愛おしい彼の身体。  原型を留めているのは彼の上半身だけで、それ以外はまるでハイエナにでも食い散らかされたかのようにぐちゃぐちゃだ。  四肢のうち唯一残った左手は、力なくこちら側に放り出されている。 「あ、ああ……あああ……っ!」  昨夜は自分が血迷ってしまわないようにとリビングのソファで眠りについたはずなのに。  どうして今自分は寝室にいるんだ。  そして、何故こんなにも満たされたような気がしているんだ。  朝食もまだのはずなのに、どうしてこんなにも満腹なんだ。  膝から力が抜けていく。  ぱしゃり、と足元に広がっていた紅色が跳ねた。  震える手で殆ど原型を留めていない愛する人の体を掻くように抱きしめて、もう冷たくなったその頬に鼻先を寄せる。  ああ。  やってしまったのか。  私は。  体の震えが止まらない。  喉が唸って、毛が逆立つ。  涙すら流せそうにない自分にひたすら絶望しながらただただ自分の内側から漂ってくる彼の匂いに、呼吸を忘れていた。 ◆ ◇ ◆ ◇ 「……さん? ……み、さん」  脳みそが揺れる。  肩に触れている細い体温と甘い匂いにゆっくりと意識が覚醒していった。 「もうっ! 部長!」 「うわあっ?!」  なんだなんだ。  もしかして何か仕事のミスの報告か?  ……って、あれ? 「やっと起きた」  不満げな声の方へと視線を向けると、柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませたまことくんがこちらを覗き込んでいた。  今のこの光景が夢なのか、先程の惨劇が夢だったのかわからずにいると彼は私の目の前でひらひらと手を振る。 「? あれ? 伊墨さーん? もしかして目開けたまま寝てます?」 「まこと……くん」 「あ、起きてた。伊墨さんが大好きなまことくんですよー。寂しいので早く起きて、まことくんに構ってください」  普段ならぷっくりと膨らんだその頬をつついて、腕の中に抱き込めてしまうのだけれど、先程見たばかりのあの赤黒い映像が瞼の裏にこびりついて彼に触れることを躊躇ってしまった。  その様子に彼も不思議そうに目を細める。 「伊墨さ……」 「待っ、触っちゃダメだ!」  ゆっくりと差し出された彼の手が空中で止まった。  突然の大声に驚いたのだろう、彼は目をまん丸くして固まっている。 「あ、えっと……ごめ、」 「伊墨さん」  また情けなく謝ろうとしたこちらの声を遮った彼は、ソファに寝転んだままだった私の上に少し乱暴に跨ったと思ったら反論の余地も与えず私の鼻先と顎を片手で抑え込んだ。 「この間から謝ってばっかり。僕は謝罪より愛の言葉が聞きたいです」 「まことく、むぐ」 「こーら。お話ちゃんと聞いてください」  なんだこれ。  何が起こってるんだこれ。 「伊墨さん。僕って、伊墨さんが思ってるほど弱くないし、脆くないんですよ。あなたはいつも僕にまるでシャボン玉でも触るようにしますけど、もっと乱暴にされても、僕は壊れません」  そう言うが早いが、彼は空いていた片手で無理やり私の手首を掴み、やや乱暴に自分の胸部に充てがった。  爪が彼の肌に食い込むのがわかる。  自分の手のひらの形に彼の身体が歪んでいくのを見ていると背筋を冷や汗が伝って得体の知れない恐怖が腹の底からじわじわとせり上がってきた。  抗議しようにも口周りにはまだ彼の細い指が巻き付いていて、思うように声を出せない。 「だから、好きなようにして良いんですよ」  やっと口を抑え込んでいた彼の指が離れたと思ったら、今度は鼻腔いっぱいに彼の匂いと唇に柔らかい感触が飛び込んできた。 「ねえ伊墨さん。指、噛んでみてください」 「?!」 「あ、食いちぎっちゃダメですよ。跡つけるくらいならいいです」  ひょい、と目の前に人差し指を差し出す彼。 「何言ってるんだ! そんなことできるわけが、」 「ほら。はい、どうぞ」 「どうぞって……! 君はほんとに! 自分をもっと大切にしてくれ……。君の目の前にいるのは獣人なんだ。頭から食われても文句言えないような相手なんだぞ」  実際、人間が獣人に食われる事件というのは決して少なくない。  だからこそ自分たち獣人は人間と触れ合う時は細心の注意を払わなければいけない。  それは獣人として生まれた以上守らなければいけない最低限のマナーだ。 「大丈夫ですよ。ほら」 「また君は無責任な……数秒後に君の喉に私が食いつかないとも限らないんだぞ」 「大丈夫です。伊墨さんなら」 「だからっ、どうしてそう言い切れるんだ!」  つい声を荒げてしまったのに、彼は優しい笑みを崩すことなく真っ直ぐとこちらを見つめ返して、そして。 「信じてますから。伊墨さんの、全てを」  屈託もなく、屈折もなく、一点の曇りもなく、そう言い放った彼の指が牙の間に滑り込んでくる。  何度も確かめるように犬歯から後臼歯までをなぞられて、むず痒い。 「僕を、裏切らないですよね?」  なんて殺し文句だ。  だけど、不思議とここ暫くずっと心臓の奥に纏わりついていた得体の知れない恐怖と空腹感、そして彼を食べてしまうんじゃないかという不安が吹き飛んだ。  なんと言い表すのが一番正しいだろう。  可愛い小動物のように見えていた彼が、今は私の手綱を握っている。  マウンティングを取ってどこか蠱惑的に微笑む彼にゾクゾクしてしまう自分がいることに少しだけ驚いてしまう。  けど、悪い気はしない……っていうのは、あまりに情けないだろうか? 「はあ。君は本当に、色んな顔をするな。見ていて飽きないよ」 「僕もこんなに情けない伊墨さんを見るのは初めてです」 「うぐっ……意地悪だな、まことくんは」  くすくすと悪戯っぽく笑う彼に安心する。  多分もう、大丈夫だ。  恐る恐る彼の頬に触れてみる。  そのまま肉球を滑らせると、彼は嬉しそうに頬を手のひらに押し付けてきた。  子猫のように愛らしいその仕草に理性がぷつりと音を立ててきれるのがわかる。 「まことくん」 「? なんですか?」 「……痛かったら言ってくれ。今日は、優しく出来ないかも知れない」 「ふふ。望むところです」  ああもう。  本当、敵わないな。

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